狭間の世界 −ボクの日記−
第三章「光と影」
第九週「暗影」
3月5日(月) ハレ
ボクも手伝えることが無いかとタケシ君が読んでる本を横から覗き込んだら心理とか精神って漢字が見えました。
難しそうだから読んでもらおうとしたら「無理しなくていい。これは俺が理解するから。」と言われてしまいました。
それでも頑張ってみようと思ってよく見てみるとそこには文字ですらない適当に書いた記号みたいのが並んでるだけでした。
*」:`P;心理%#。p:q・」@精神!#「@0・・・・・・・
この本も幻なんだと思いました。
3月6日(火) クモリ
せっかく協力する気になったのでボクも何かやりたいです。タケシ君に「ボクにもできることは無い?」と聞いてみました。
「まだいいよ。直に色々頭を使ってもらうから、あともう少しだけ待ってくれ。」
従うことにしました。黙って座ってるとタケシ君がボクを見ました。「なぁ。自分のことをボクというのは止めてくれないかな。」
なぜ?ボクは男だから自分のことを言うのはボクなはずだけど。そう言うとタケシ君は困ったような顔をしました。
「確かに君は男だ。けど身体は女だし、それに君のその人格は俺が良く知ってる人で恥ずかしいというか・・・いいや。忘れてくれ。」
変なの。でも忘れてくれと言うから忘れます。
3月7日(水) ハレ
タケシ君は幻のくせに人間くさくて面白いです。本を読んでるときも鼻をかいたり目をこすったりする仕草がリアルです。
ボクにしかみえないボクの中で作り上げた幻の人間なんだってことはボクでもわかります。
でもなぜタケシ君が出てきたのか?ボクの思い出せない過去にその原因があるようです。
問題はわかるのにいざ解こうとすると頭が痛くなって解く気がなくなるなんて変な話です。
けどそれはボクの頭が変だから仕方なくてボクの頭が変だと思うのは他の人には見えないタケシ君が見えてそれが見える原因は
わからないです。
3月8日(木) ハレ
タケシ君があまりに真剣に本を読んでるので聞いてしまいました。
「難しいのばかり良く読めるね。」読めない字が多くてボクにはサッパリ意味不明。
タケシ君は顔を上げて照れるようにして笑いました。「まぁね。このまま知識が増えればいずれ専門で食べていけるかもな。」
専門で食べてくなんて凄いです。そんな職業と言えばあれかなと思ってると突然泣きたくなってきて不思議でした。
きっと食べていけるよ。なぜかボクにはわかりました。
3月9日(金) クモリ
タケシ君は時々おじいさんを睨みます。
今日も睨みながら「自分で稼げたらあんな野郎なんかの世話にはならないのに。」と呟いてました。
もちろんおじいさんには聞こえてなくて寝転がってスポーツ新聞を読んでました。
そんなんでもたまに出かけたりするからきっとどこかでお金を稼いできてるのでしょう。
だからおばあさんも買い物ができてボクもご飯が食べられる。
自分で働けるようにはなりたいけど今のままではできそうにありません。
ボクは変だから。
3月10日(土) ハレ
タケシ君が「やっぱそれしかないか。」と言って分厚い本をパタンと閉じました。
「カウンセリングっていうんだけどね。過去を思い出して君がそうなった原因と自ら向かい合う。
多重人格者を統合するときなんかによく使う手らしいんだけど、君も似たようなものだから効くかもしれない。」
多重人格者って言葉を使われてボクは少し気になりました。それは自分の中にいくつかの人格があることのはずです。
いや、でもタケシ君はボクの作り出した幻だからある意味じゃボクの一部とも言えるかもしれません。
ボクの中にもこの状態をどうにかしなきゃって思ってる部分があってそれがタケシ君となってこうして目の前に・・?
タケシ君はブツブツとカウンセリングの方法をあーでもにこーでもないと一人で考えてました。
難しいことを考えるのはよそう。タケシ君が何であろうと、任せてれば解決してくれる。
ボクより頭いいのは確かです。
3月11日(日) ハレ
カウンセリングってどんなことをするのか聞いてみました。
「本では催眠療法とかを勧めてるんだけどさ。
俺にはそんな技術無いから質問に答える会話形式みたいな感じでやろうと思ってる。」
ボクが不安げな顔をすると「大丈夫。きっと成功するよ。」と励ましてくれました。
その時です。タケシ君が暗くなりました。全身が一瞬暗い影になって、すぐに元に戻りました。
なんだったんだろう。しばらく考えてみたら思い当たりました。
もしかしたらあれは、ボクが回復に向かおうとしてるからかもしれません。
ボクが変じゃなくなるってことはタケシ君が見えなくなってしまうってこと。
元に戻るとタケシ君は消える・・・?
第十週「遮光」
3月12日(月) アメ
疑問を抱いたままタケシ君のカウンセリングが始まりました。と言ってもただ単に質問に答えるだけです。
「過去を思い出すんだ。少しずつでいい。覚えてるところから話してくれないか。」
タケシ君の声はとても穏やかでとても安心した気分になれました。
ボクは目を閉じて目覚めた時のことを思い出して話しました。深い真っ暗な穴から這い出たような、目覚めたときのまぶしさ。
横にはタケシ君が立ってた。名前は教えてもらわなくてもなぜか頭に思い浮かんだ。
あの時のタケシ君はまだあまりお喋りじゃなくて中学の制服を着てたっけ。ちょっと気弱そうだった。
今はこんなに凛々しいのに。
3月13日(火) ハレ
昨日の話じゃ不満なようです。質問が変わりました。
「今日は昨日思い出したことよりも以前のこと。眠ってた頃、どんな感じだったかを思い出してみてくれ。」
眠ってる時のことなんて思い出せるわけがありません。文句を言ったけどタケシ君は諦めませんでした。
「イメージだけででいいんだ。何か夢を見てなかったか?誰か他の人の存在を感じたりは?」
質問が難しくなってきたのでボクは困ってしまいました。夢は見てた気がするけど内容はとてもうっすらとしてます。
話せるほど覚えてない。
3月14日(水) ハレ
記憶がおぼろげでも「頑張ってイメージすることが大切なんだ。」と言われてしまいました。
だから頑張ってみます。目覚める前に見てた夢。あの時のイメージは・・・
プールがある。干からびてて水が無い。蛇口が壊れてて水が出ない。水が無いと泳げない。
隣のプールには水がたっぷり入ってる。そこから水をもらうことにした。バケツで少しづつ運んで。
あっちはちゃんと蛇口から水が出てる。勝手にもらっても誰も困らない。こっちが一杯になるまでもらい続けた。
自分の水じゃないのは知ってたけど、一度自分のプールに入れてしまえばもう自分の水だと思った。
・・・たぶんこんな感じだったと思う。
3月15日(木) ハレ
タケシ君はプールの話を聞いてから考え込むようになりました。
ボクはあの夢は完全に覚えてるわけじゃないので細かいことを聞かれると答えに詰まりました。
蛇口はなぜ壊れてたか。バケツは誰が運んでたのか。周りには他に何かあったか。
ボクが思い出せるのはあの水を運んでたイメージと、運んでた理由だけです。
水が無いから隣からもらった。それしかわかりません。
考えすぎて頭が疲れました。
3月16日(金) ハレ
おじいさんが「独り言をブツブツうるせえ!」と怒鳴ってきたので質問タイムは中止になりました。
「まったく、何度狂えば気が済むんだこのアマ。穀潰しは穀潰しらしく飯だけ食って寝てりゃいいんだよ。」
タケシ君がおじいさんを睨んでました。でもおじいさんは気付きません。
おばあさんも「何叫んでるの?」とやってきてボクは取り囲まれました。怖くなってタケシ君の隣に逃げました。
「おい。いっそこの部屋、座敷牢にしようぜ。」「今でも同じようなものじゃない。」「前はどうしたか覚えてるか。」「あの時は」・・
ボクを閉じこめる話をしてたんだと思うけど頭が痛くなってきたので耳を塞ぎました。
聞きたくない。
3月17日(土) アメ
閉じこめられたらタケシ君とずっと一緒なんだと思いました。ゆっくりタケシ君のカウンセリングを受けて元に戻る。
おじいさんは怖いけどおばあさんがご飯を持ってきてくれる。友達もいる。生きていける。
「外に出たくない。」思わずそう漏らしたらタケシが怒りました。
「今はそんな身体だから無理はできないけど、いずれは外に出るんだ。こんな家に居ちゃ行けない。」
外に出た時のことを想像して怖くなるとタケシ君が言ってくれました。
「大丈夫。俺がずっと一緒にいる。みんなで行こう。」
そうだよね。外に出れるかどうかはわからないけど、これだけはハッキリしてる。タケシ君はボクの心の一部。
決して離れることはありません。
3月18日(日) ハレ
本当に一緒にいてくれるのか気になったので聞いてみました。
「ボクが回復したらタケシ君は消えちゃうの?」「何言ってるんだよ。消えるわけないじゃないか。」
「でもタケシ君はボクにしか見えない幻だから。」
言った途端、タケシ君が薄まっていきました。見る見るうちに透けていく。
焦って一生懸命タケシ君のことを考えました。目をつぶって、タケシ君の姿をイメージ。高校の制服。睨むような目。
光を断って真っ暗闇に。じっと見てるとほら、タケシ君の姿が浮かんでくる・・・
ゆっくり目を開けると何事もなかったようにタケシ君がそこにいました。
これで確信しました。タケシ君はああ言ってくれてるけど、ボクが元に戻ったらタケシ君は消える。なら。
回復しなくていい。
第十一週「黒雲」
3月19日(月) ハレ
タケシ君が他の人には見えないのなら、黙ってればいいんです。カウンセリングだって単なる自問自答です。
全部ボクの頭の中で起きてることなんだから誰にも迷惑かけません。
でもまだボクの中で回復しようと頑張る部分が有るんでしょう。タケシ君がしきりに質問してきます。
「何か懐かしさを感じるものってないか?何でもいい。モノでもセリフでも。」
目の前にあるこの机は昔ボクも使ってた気がする。アサミって呼ばれると「ボクじゃない。」って言葉が頭の中で響く。
ポツリポツリと答えたけれど、ボクにやる気はありませんでした。
このままでもやっていけると思います。
3月20日(火) クモリ
ボクの気持ちとは裏腹にボクを元に戻そうと必死なタケシ君。
幾らがんばっても肝心のボクが元に戻る気になってない。「このままでいようよ。」とボソリと言ってしまいました。
無視されました。相変わらず熱意の篭もった視線で「自分の中に女性的な部分を感じないか?」と聞いたりしてます。
男だからって誰でも女っぽい部分は抱えてるんじゃないのかな?身体が女性なのはもう知ってるし。
この「カウンセリング」も段々意味のあるものだとは思えなくなってきました。
余計なことはやめようよ。
3月21日(水) ハレ
おじいさんたちからは放置されてる状態だからボクが余計なことさえしなければ気にすることはありません。
ご飯にはありつける。タケシ君は外に出たがってるけど、ボクは外に出ようとすると頭が痛くなる。
ボクが外に出てるほど回復したらタケシ君は消える。だから一緒にはいられない。一人じゃ外で生きていけない。
破滅に向かってるとしか思えません。ボク自身が生きるためにも回復しない方がいいように思えます。
友達とお喋りして過ごすだけの人生だって悪くありません。
3月22日(木) ハレ
カウンセリングの効果が上がらないのにタケシ君は焦ってるようです。
「まいったな。こんなに時間がかかると思わなかった。このままじゃ身体がもたない。」
そんなに焦ることないよ。確かに身体は女性で心は男というのはあまり健康的じゃないかもしれない。
病気。そうだよ。この状態は病気だよ。でも死なない病気でしょ?
下手な治療はやめてこの状態で生きていく方法を考えようよ。言ってもタケシ君は聞いてくれませんでした。
タケシ君が消えるのは嫌だ。何度言ったらわかってくれるんでしょう。
3月23日(金) ハレ
ボクが何度言っても無視されて質問を浴びせてきます。いくらなんでもこれはおかしいです。
ハッキリと「もう質問には答えない。」と宣言してもまだ女性の本能がどうだとかって意味不明の質問をしてきます。
とうとうボクは耳を塞いで叫びました。思い出せないものは思い出せないんだ!これ以上こんなことやったって
駆けつけてきたおじいさんにはり倒されました。「黙ってろ!また飯抜きにされたいのか!」
ご飯が食べれなくなるのは辛いです。「ごめんなさいごめんなさい。」というセリフが勝手に口から出てきました。
おじいさんが行ったあと、タケシ君の方に顔を向けました。さっきの質問を繰り返してます。
ボクの言うことが聞こえてない・・?
3月24日(土) クモリ
何かがズレてます。
完全に無視されてるわけではありません。タケシ君の名を呼ぶと「何?」と振り返ってくれます。
タケシ君の質問にも答えるとちゃんと頷いて反応してくれます。
おじいさんが怖いって話にも「復讐より今は自分の身の方が大事だ。」とアドバイスまでしてくれます。
けど、それだけです。「カウンセリングをやめよう。」みたいにボクが意見を言うと無視される。
世間話ができないんです。これまでそんな話する余裕が無かったから気付きませんでした。
映画の中に入ってる感じ。脚本に無いことは話せない。シナリオに無いシーンは飛ばされる。余計な会話は許されない。
ボクを回復させるために出てきた幻。ボクの代わりに考え、ボクを導こうとする。
ボクが深く考えることができないのは当然。考えることのできる部分は切り離され、タケシ君として独立したんだから。
ただし彼は、シナリオ以外のことはできない。おじいさんを殴ることはできない。
そして役目を終えたら消える。
そうなの?
3月25日(日) アメ
ボクのこと、タケシ君のコトを話す限りはちゃんと会話はできるはず。思いの丈をぶつけました。
タケシ君はボクの心が産み出したプログラムみたいなものなんだ。
ボクが回復したら消える。ずっと一緒にいるなんて嘘だ。役目が終わったら消えちゃうんだ。
タケシ君は真剣な顔で聞いてくれました。ボクが一通り言い終わると、目をつぶって考え込みました。
「君は少し勘違いしてるよ。」何がどう勘違いなんでしょうか。
ボクがキョトンとするとタケシ君は深いため息をついで何度も首を横に振りました。
「もう時間が迫ってることだし、この際ハッキリ言おう。」ボクの目をまっすぐ見ました。
「回復したら消えるのは、君の方だ。」
「は?」
思わずとぼけた声を上げてしまいました。
「プールの話とは別物として聞いて欲しい。今の状態を例えると、君は空を覆う黒い雲みたいなものだと思ってる。
雲の上にはちゃんと青空がある。今の天気は『曇り』だけど、青空が消えてるわけじゃない。雲に覆われてるだけ。
雲は君で青空はアサミ。雲が消えれば太陽が見えて『晴れ』になる。」
頭が混乱してきました。なおもタケシ君は言葉を続けます。」
「もうカウンセリングなんて言ってる場合じゃないけど、とにかくその意味をじっくり考えてみてくれ。
我ながらいい表現だと思ってるんだ。なんとなくでいいから、そんな感じだってのをわかって欲しい。」
そう言ってまた一人で考え込んでしまいました。だからボクも考えろと。
ボクは雲・・・雲は消える・・・消えた後は青空・・・青空はアサミさん・・・
・・・ボクは・・・どこに・・・
第十二週「雷鳴」
3月26日(月) アメ
タケシ君に聞かれました。「どう?なんとなくわかってくれたか?」
ボクは首を横に振りました。あんな話だけじゃわからない。第一ボクは深く考えれるようにはできてないんだ。
タケシ君は残念そうに眉をひそめてがっくりとうなだれました。「そうか。やっぱり説明してやらないとダメなのか・・・。」
説明してくれるならその方が楽です。意味不明なカウンセリングや会話のすれ違いはもう嫌です。
ボクの憶測だってどれが正しいのかわかったものじゃない。
いっそのこと教えてよ。何が、どうなってるのか。タケシ君は全部知ってるんでしょ!
この時を随分待ちこがれてた気がします。タケシ君は渋い顔をしてゆっくりと頷きました。
「全部知った後も君が協力してくれるなら、教える。少しずつ話していこう。」
ボクは頷きました。
3月27日(火) ハレ
おじいさんに聞かれて話が中断されないように、ひそひそと話を始めました。
「余計な質問はしないで欲しい。こうして教えるのはもう時間が無いからだ。こんな方法、本当は混乱を招くだけなんだよ。」
タケシ君の前置きは長いです。少しずつなんだから混乱はしないと思います。考える時間はたっぷりある。
「考えると言うより、事実を受け止める時間だよ。」とタケシ君が横から口を挟んできました。
そうかもしれない。とにかく早く教えてよ。散々じらされた後にタケシ君は話し始めました。
「自分ではわからないだろうけど、君の中にはまだアサミは残ってる。俺はそれを解放させたいんだ。」
アサミさんが残ってる?ボクは何も感じないけど。反論しようと思ったけど余計な質問しないって約束を思い出してやめました。
「無意識でやってることって、記憶にないだろ?でも端から見ればそれらの仕草は全てアサミのものなんだ。
トイレの記憶、風呂の記憶、君はあまり覚えてないと思う。
細かいところで結構残ってるんだよ。今日はそこら辺のこと考えてみてくれ。」
言われてみればトイレに行くときの記憶って無い。トイレに入るのは覚えてるけど、気付けば用は済んで部屋に戻ってる。
意識して行ってみたけどダメでした。やっぱり記憶が飛んでしまいます。
別にこれは普通だと思ってたけど。どうもおかしいらしいです。
アサミさんのせいなんでしょうか。
3月28日(水) ハレ
自分の手を見つめると不思議な感じがします。ボクの手だけどボクのじゃない。アサミさんの手。
今日の話はそのアサミさんについてでした。
「アサミの話をしよう。これはそのまま君の誕生につながる。
アサミはとても辛い目にあった。それが何だったかは知らなくていい。とにかく、死にたくなるような地獄を味わった。
その時、アサミは自分の意識を遠のけようと思った。二重人格みたいになればいいと願った。
けどそれはできなかった。願ってなれるものじゃないからね。仕方なく彼女は別の方法、全くの他人になることにした。
私はアサミじゃない。私はアサミじゃない。ひたすらそう思ってたんだろう。思いこむうちにアサミは心の奥に閉じこもっていった。
そして目が覚めた時・・・望み通り、アサミはアサミじゃなくなった。アサミの記憶を失った、新しい自分になっていた。」
ボクは言いました。「それがボクなんだね。」
タケシ君は頷きました。「だからもう一度目覚める前のことを思い出してくれ。あのプールのイメージを。」
干からびたプール。アサミさんの水は消えた。だから隣のプールから水をもらった。
やっぱりこの身体は借り物だったんだ。アサミさんの身体にボクの意識があるだけ。隣のプールからもらった水。
じゃぁ隣のプールには誰の水が・・
タケシ君は照れくさそうにしてそっぽを向きました。「その話は明日にしよう。」
明日にします。
3月29日(木) アメ
あまり話したくなさそうだったけど、タケシ君は渋々今日の分の話をしてくれました。
「アサミは自分を他人と思いこむ時、身近な人の姿を思い浮かべた。君の言う『隣のプール』だ。
よく知ってるその人を自分に投影させたんだ。私はアサミじゃない。私はあの人だ、という感じだったんじゃないかな。
自分はその人だと思いこんだ結果、完全にその人に・・君になってしまったと言うべきかもしれない。」
そんなことができるんだ。自分のコトながらボクは感心してしまいました。
タケシ君は苦笑いしながら話を続けました。そんな表情をするタケシ君は初めて見た気がします。
「たぶんアサミは、その人に憧れを抱いてたんだろうよ。身近にいたその人と同じ様になりたいって思いがあったから
こんな風になってしまったんじゃないかと思う。俺にはそこまでわからないよ。答えは君の心の奥に眠るアサミだけが知ってる。」
その人は誰?間髪入れずに聞きました。ボクの元となってる人は。
無視されました。でもこれは「ずれ」のせいでは無いと思います。
タケシ君はわざとらしく咳払いして「アサミの話はこれくらいにしておこう。」と言って無理に話を終わらせたから。
答えてくれそうにありません。
3月30日(金) クモリ
話は最後の段階に入ったようです。
「散々難しいこと言ってきたけど、やらなきゃいけないことは簡単なんだよ。その身体をアサミに返す。」
それはつまり、ボクに消えろってこと?
タケシ君は目をつぶって考え込んだけど、数秒後には目をあけてハッキリと言いました。
「残酷なようだけど、そう言うことだ。」
消える。ボクが消える。
幻なのはボクの方だった。
記憶が無いのは当たり前。アサミさんはアサミさんで頭のどこかにいるんだから。
ボク自身の記憶はあまり大したものは無い。
タケシ君と一緒にお話したことと、おじいさんに殴られたことと、ご飯を食べたことくらい。
外に出たこともない。悲しい思いはしてないけれど楽しい思いもしていない。
消えてもいいようなことばかり。
けど、だからって。
「いつもまでもそのままではいられない。これだけは確かなんだ。
君が協力してくれなきゃひどいことになる。アサミは無理にでも戻ってくることになるだろう。
そしたらどうなる?君が残ってるのにアサミも出てこようとする。身体にも影響が出るだろうし、正気でいられるわけがない。」
どうしてアサミさんが戻ってくるってわかるの?
タケシ君はとても悲しそうな目をして、絞り出すようにして言いました。
「君の姿を見てれば、嫌でもわかってしまうんだよ。」
ボクは自分の身体を見たけど何もわかりませんでした。
アサミさんのこの身体。ボクのだけどボクのじゃない。
「君に『消えろ』とは言いたくなかった。自分で気付いてくれれば、自然と元に戻ると思ってた。
けど、いつまで経っても君が戻りそうに無いから・・・とにかくじっくり考えてくれ。」
アサミさんに身体を返す覚悟を決めてくれ、ということだね。
ボクが消えればタケシ君も消えてしまうというのに。変なこと言うな。
ボクが作り上げた人格がボクに消えろと言う。そもそもタケシ君がボクの作り上げた幻って考え自体が間違ってたのかな?
不自然なことが多すぎる。なんだか幻じゃなくて、本当に存在してる見たい。
幻はボクの方でボクはアサミさんの作り出した幻でアサミさんは・・?
誰が幻で誰が存在してるのか。ボクにはもうわからなくなってしまいました。
ただ、どうもボクの存在は間違ってるようです。
それだけは感じます。
3月31日(土) クモリ
タケシ君に迫られました。
「もう決意してくれた?」
ボクは何も答えませんでした。顔も上げずに黙ったままでいました。
まだ迷ってました。消えるのは嫌だって気持ちはあります。
けど、自分の存在があやふやになってきた今、このまま生きていけるとも思えません。
タケシ君の協力も得られそうにない。そのタケシ君の存在すらも何なのかわからない。
ハッキリした答えが欲しい。
しびれを切らしたタケシ君が声を上げました。
「頼む。もうこれは君だけの問題じゃないんだ。早くアサミを元に戻してくれ。
君がアサミと話してくれれば徐々に戻れるかもしれない。何もしなければ強制的に消える羽目になるぞ。」
タケシ君の言うことも素直に信じることができない。
かと言ってボクに何が正しいのか判断する力は無い。
アサミさん。あなたのせいだ。答えはあなたが全部知ってるんだ。
「思い出せ。蛇口から水の補給が無ければプールは干からびる。隣から汲んできた水は、ほっといても消えてしまうんだ。
うまく蛇口を治せば、アサミの水は少しずつ補充される。少しずつ君と混じり合っい意識を共有して、いずれアサミだけになる。
けど、このままだと干からびるより酷いことになる。水が暴発するんだ。出たがってるアサミの水が、一気に。
そうなればプールそのものを破壊してしまう。だから今すぐ蛇口の修理をして、アサミの水を出すんだ。」
タケシ君は焦ってるようでしたが、ボクはもっと焦りました。
蛇口の修理を、と言われても何をすればいいのかわかりません。
「感じてくれ。アサミの水がうねるのを。」
そんな抽象的なこと言われてもできるわけありません。
アサミさん。どこにいるんだよ。出てきてどうすればいいか教えてよ。
どこか心の奥底に。いるかもしれない。いないかもしれない。
何かが足りない。あの人のところへ行くのに。
できない。できないよ。タケシ君の言うとおりにできない。
どうすればいい
どうすればいい
どうすれば
4月1日(日) ハレ
一日経っても結局何もできませんでした。
ボクはボクのままだし、アサミさんの存在を感じることはできない。
「ごめんなさい。」ボクは謝りました。
タケシ君は「いいよ。」と寂しそうに笑いました。
「たぶん俺が肝心なことを話してなかったからだ。」
タケシ君がボクの前に座り込み、ボクの両肩を掴んで視線を合わせました。
「アサミには兄がいた。気弱な兄貴でね。ものごとをあまり深く考えない奴だった。」
突然何の話を始めたんだろう。ボクは耳を傾けました。
「アサミが憧れた人ってのは、その兄貴のことだ。アサミは一番身近にいた味方、兄のようになりたいと願った。」
そうだったのか。前からの疑問があっけなく解けてしまいました。
驚きよりも素直に「へぇ」と思いました。
けど話は続きます。
「自分の昔の姿を見てるようでね。照れ臭かったんだよ。」
ちょっと視線を落として片方だけ口元を上げてました。少し間をおいてから視線をボクに戻しました。
もう笑ってない。真剣な顔をして言いました。
「兄の名はタケシ。」
え?
「俺だ。君は俺の過去の姿なんだ。」
タケシ君はボクの反応を伺うようにボクの顔を見つめました。
ボクは一瞬頭が真っ白になってました。けど、彼の言葉を何度か頭で繰り返すウチにようやく意味がわかりました。
嘘だ!思わず叫んでしまいました。おじいさんが来ないかと心配になったけど、幸い声は届いてなかったようです。
ボクは声のトーンを落としてまくしたてました。
そんな。性格が違いすぎるよ。ボクはそんなに頭良くないし強くない。
「変わったからさ。俺の方がね。」
タケシ君はボクの肩をがっちり掴みました。
「いいか。俺は最初、アサミが助けを求めてたのに気付かなかった。
だからあいつは自分の中で助けを求め、俺が助けてくれるのを想像した。想像は膨らみ、膨らみ過ぎて・・君になった。
妹が酷い目にあってたことを知って、俺は変わった。救おうと思った。だがその時はもう、君になっていた。」
君のその仕草、セリフ回し。昔の俺にそっくりだよ。
畜生。なんで俺なんかになろうと思ったんだよ。あんな気弱で、何も考えてない奴に。」
ボクはタケシ君と目を合わせることができませんでした。
「なぁ、アサミは中にいるんだろ?教えてくれよ。なんですぐに言ってくれなかったんだよ。
おいお前。感じるだろ。お前の後に引っ込んでるアサミの存在を。アサミを出して出してくれよ。
頼むから、早く、アサミを出してくれ。お願いだよ!」
タケシ君はボクでボクはタケシ君の昔の姿で今のタケシ君はボクじゃないけどアサミさんの兄でアサミさんはボクで
ボクの中にアサミさんがいてアサミさんの中のボクがタケシ君でタケシ君のアサミさんがボクになってボクは
「早く戻って来るんだ!でないと、でないと・・・!!」
でないと?
突然強烈な痛みが頭を襲いました。
雷が落ちたようにその痛みは一気に全身を駆けめぐりました。
雷鳴がガラガラガラと凄い音を立てて頭の中に響きます。
お腹にビリビリと電撃が走りました。目の前が真っ白になっていく。
お腹が痛い。頭も痛い。全身が痛い。痛い痛い痛い!
タケシ君。どこにいるの?見えない。何も聞こえない。
アサミさん。そこにいるの?これはあなたの仕業?
痛いよ。苦しいよ。助けてよ。
ねぇ。誰か。いないの。
あ、女の子が。
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