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希望世界 続・虫の日記

第二部<迎撃編>
第八章「蟲」


第二十九週「継承」

7月17日(月) 晴れ
まだしぶとく生き残ってる。
病院に行けば助かる可能性は高くなると思ったが、本人は拒否している。
この家まで辿り着いたのさえ奇跡に近い状態だ。
血は止まったものの、傷を塞がなければ長くはもたない。
祖父と祖母はただうろたえるだけ。
母親はキャッキャッと笑いながらノートパソコンをいじくってる。
ヤツはもう動けない。
たまに思い出したように目を開け、「まだ生きてる。」と呟く。
その声も弱々しい。すぐに消えてもおかしくない。
だが本人は「大丈夫だ。すぐに回復するさ。」と言う。
僕は部屋に戻り、一人有意義な時間を過ごした。

いつも通りのアレ。想像の中の早紀はとても大胆だった。
早紀の顔を見下ろし、僕は頭を優しく撫でる。早紀はさらに激しい動きになる。
その気持ちよさに酔いしれながら、僕は早紀に囁いた。

「アイツ、まだやるってさ。」

早紀はそっと頷いた。それでも行為は止めない。
早紀の頭を抱え、さらに激しく揺さぶった。いいよ。早紀。
誰が死のうと、僕らは何も変わりはしない。早紀を汚す輩はアイツが消してくれた。
これからも消してくれる。だから早紀。二人のお楽しみはまだまだ続くんだよ。
早紀。もっと楽しもう。ほらもっと。もっと・・・・そう・・・
そのまま・・・・・・・・・・

早紀はやっぱり最高だ。


7月18日(火) 晴れ
今日も部屋に籠もり早紀と戯れた。家の中はやたらドタバタしてたがほっといた。
祖父の祖母も心配性だ。ヤツが大丈夫だと言ったんだから大丈夫じゃないか。
それともまた母親がウロチョロし始めたのか?寝たきりのヤツに近づけるとまた大変なことになるぞ。
アレにはノートパソコン与えておけば勝手に一人で遊んでる。
みんな僕らの邪魔をしないでくれ。

さぁ早紀。今日はどんなコトしようか。僕の身体に残された早紀の肌の感触を思い出す。
今の僕にはもうあの時の記憶は無い。これまで何度も早紀の顔を必死に思い出そうとした。
だが駄目だった。写真でしか早紀の顔の記憶は無い。
だから僕は想像する。早紀の肌。早紀の汗。早紀の息づかい。
身体は覚えてるはず。一度は直に交わった。その感触を、僕の中で。

もう一度・・・。


7月19日(水) 晴れ
母親がうるさい。祖父と祖母が父親の心配ばかりしてるので、あのガイキチがのさばる。
僕の部屋をドンドンと叩く。折角の早紀との楽しい時間も中断されてしまう。
うるせぇと叫んだら今度は泣き声が聞こえてきた。
放っておくと祖母の声が聞こえてきた。それでなんとか騒ぎは収まった。
僕は「ノートパソコン与えておけよ!」と部屋の中から叫んだ。
祖母が歯切れの悪い答えをする。聞いててイライラしてきた。
「それが・・・その・・おばあちゃんにはコンピューターのコトわからないけど・・・・」
しきりに何か言っている。さすがに我慢しきれなくなり、ドアを開けて怒鳴りに行った。
何が言いたいんだよてめぇ
祖母はゴメンねゴメンねとオロオロしながらガイキチ女を指さした。
ノートパソコンは、持ってる。なのにスンスン泣いている。
なんだよ。ノートパソコンさえ与えときゃ一人で遊ぶはずだろう。
「どうしたんだろうねぇ・・・・どうしたんだろうねぇ・・・・。」
祖母がうろたえた。当の本人はパソコン抱えて廊下に座り込んでる。
僕は「知るかよ。」と言い捨てて部屋に戻った。
僕は早紀と遊ぶのに忙しいんだ。無駄な時間をとらせるな。
こんな時はヤツに任せるべき。たたき起こして世話させろ。
僕に迷惑かけないで欲しい。祖母になだめられて自分の部屋に戻る音が聞こえた。
祖父も下から上がってきて「健史が気にしてたけど・・・何かあったか?」と言っていた。
母親の変わりに祖母と祖父の会話がうるさくなった。

ドアの向こうで二人の会話。壁一枚隔てたこっち側で、僕は早紀と戯れた。
わざと部屋のカギはかけず、いつ祖父達が部屋に入ってきてもおかしくない・・・
その背徳感がタマらなく良かった。ゾクゾクする。
こんな楽しみ方もアリだと思った。ケガの巧妙だ。
早紀も喜んでる。


7月13日(木) 晴れ
死に損ないの顔を見に行った。
祖母が「ご飯を健史の寝てる部屋に用意して置いたからね。一緒にお食べ。」などと抜かしたから。
見舞いをする気にはなれない。でもご飯は食べたい。自分の分だけ僕の部屋に持ってきて食べようと思った。
一階の和室に行くと、ヤツが布団に寝かされていた。
想像以上に顔が青ざめていた。尋常じゃない。
髪もボサボサで無精ひげも生えてる。腕もガリガリに見えた。
目は覚めていた。ヤツの横にお盆が二つ。片方を持って帰ろう。
「血が・・・足りない・・・・。」
ヤツがボソリと語った。確かに声も以前より弱々しかった。
独特の余裕の笑みはもう無かった。何かを訴えるような目は光を失いつつある。
「気力で持ってるような・・・モンだ・・・・。」
言葉を発するたびに呼吸が速くなってる。
祖父と祖母が心配するのも頷ける気がした。全然大丈夫じゃなさそうだ。
けど、コイツなら復活しそうだと思った。
気力で持ってると言う。コイツの気力は異常。ゆえに大丈夫。
「一人でメシも食べれねぇ・・・・。」
僕にできるコトなどナシ。頑張って一人で食べてくれ給え。
そそくさと部屋に戻った。

ふと、祖母の言葉と父親の言葉を総合して考えみた。
ヤツにご飯を食べさせる役、僕がやれってコトだったのか?
それに気付いたのは、早紀との夜の営みを終わった後だった。
今更どうしようもない。祖父か祖母がやっただろう。
早紀に「悪い人ね。」と爽やかになじられた気がした。
hahaha。仕方ないよ。親が気狂いピエロと殺しちゃいマシーンなんだから。
僕はその血を引いてるんだぜ?こんな僕で当たり前だろ?

当たり前なんだよ。


7月21日(金) 曇り
ヤツに呼ばれた。ダルイので行きたくなかったが祖父がやたら粘るので仕方なかった。
ちょいと顔出してすぐに帰ってやろうと思った。
襖を開けて中に入る。部屋の奥の壁にタッチ。義務終了。すぐに戻ろうとした。
「亜佐美に会いたがってる奴がいるんだ。」
突然ヤツが口を開いた。昨日よりも少し良くなったらしく、言葉もハッキリしていた。
あの気狂いピエロなんかに会いたがってる奴がいる?
ちょっと気になったので、そのまま部屋にとどまった。
「ウチの爺さんと婆さんとは別にな、根性腐ったジジイとババアがいるんだよ。」
キツイ言葉の割に、話し方は淡々としていた。
「そいつらは、もう十年以上も前の過去を未だ引きずってやがる。」
ふうと一息ついた。喋るにも体力を必要としてるらしい。
「俺達夫婦のちょっとした知り合いでね。俺達に会いたがってるんだよ。」
ごくんと唾を飲み込む音が聞こえてきた。
視線は天井に向いている。虚空を見つめてるようだ。
「いや、亜佐美だけに会いたいんだろうな。」
ここだけは独り言だった。
顔を僕の方にゆっくりと向けた。頭をプルプル震わせながら持ち上げる。
弱々しい目が僕を見た。
「亮平。」
思わず目を反らした。目が異様な輝きをしていたから。
それでもヤツは、横を向いてる僕に問答無用で訴えかけてきた。
「俺にもしものコトがあっても、亜佐美を奴等に会わせないでくれ。」
言い終わると同時にパサっと頭が枕に落ちた。
一瞬死んだかと思った。でもすぐに深く息を吸う音が響いてきた。
スゥゥゥッと鼻から空気を取り込んでいる。目はもう瞑っていた。
「喋りすぎたな・・・。」
そのまま寝てしまった。しばらくその場に居ても、もう寝息しか聞こえてこなかった。
で、その老人達は誰のことなんだい?
会わせないでくれも何も、それが誰なのか教えてくれなきゃどうしようもない。
だから僕は何も知らない・・・

自分の部屋に戻った時、妙な感覚に襲われた。
いつもならヤツの頼みなんて聞くつもりないとか思うのに、何故か今回は覚えてる。
頼みを聞いてやろうって気になってた。
なぜだろう。早紀に聞いてみた。
早紀もわからないと言ってた。
早紀が笑った。早紀はいつも爽やかに笑う。
僕も一緒に笑ってみた。早紀と同じように、爽やかに。
焦げた早紀の髪の毛を握りしめながら、早紀の炭を擦り付けながら。

僕の笑顔は爽やかだろうか。


7月22日(土) 晴れ
酷い騒ぎになっていた。
祖母が僕の部屋のドアをドンドンドンドンと叩いては叫んでいた。
「亮平お願い早く来て!」
ノックの音がとてもうるさかったので抗議しようとドアを開けた。
祖母がおろおろ、口をパクパクさせながら焦っている。
異常な気配を察知した僕は、面白そうだから話を聞いてみた。
「おばあちゃん、コンピューターのコトはわからないから・・・・。」
下の階で大変なことになってるらしかった。
ヤツの部屋に行ってみた。

布団の横にノートパソコンが置いてあった。
手をプルプルさせながらヤツがマウスをいじってる。
たまに弱々しくキーボードを叩いては「ああ・・」と嘆く。
ヤツの顔は今まで見たこともないくらい哀れだった。
顔を歪め、あの余裕の笑みなど全く影を潜め、泣きそうな顔をしていた。
祖父が「駄目か?駄目か?」としきりに聞いている。
ヤツはその声には反応せず、ただひたすらマウスをいじっては「あああ・・」と嘆いていた。
祖母が後から解説してくれた。
「なんかね、『気力を出すために』って、亜佐美からパソコンを借りてきてくれって。」
大切な玩具を壊してしまった子供のように、すぐにでも泣き出しそうだった。
何かトンデモナイ事になってうのだけは理解できた。祖母の言葉が続く。
「早紀のホームペェジを見たいって・・・。」
僕はパソコンに飛びついた。
パソコンに繋がってるケータイは通話中を示している。
ネットに接続されていた。父親の手を払いのけ、パソコンにかじりついた。
手をはじかれた父親は、ブツブツとひたすら同じ言葉を繰り返していた。

希望の世界が・・・早紀が・・・

マウスを操作して「お気に入り」を押した。
「絶望クロニクル」よりも上に、一番押しやすい所に、見つけた。
「希望の世界」
すぐに押した。そしてほんの一秒後。

ページが表示されません

キーボードで直接アドレスを打った。アドレスは暗記していた。
エンターキーを連打した。カリカリっとハードディスクが動く音。
数秒後、画面に表示される白い背景に無機質な黒い文字。

ページが表示されません

何度やっても駄目だった。また「お気に入り」から入っても、アドレス打ち直しても。
画面を見ていたヤツが、再び「ああ・・・」と嘆いた。
そして涙声で呻いた。

早紀が・・・消えちまった・・・

その事実を認識したのか、ヤツの表情が急激に変化した。
今度は鬼のような怖い顔になった。
目をカッと見開き、憑かれたように青ざめた顔を懸命に強ばらせる。
起きあがろうとしていた。
祖父が「どうした。無茶だ。」と必死に起きあがりかけた身体を支える。
ヤツの顔は鬼の顔のまま固まっていた。
怖いくらい何かに思い詰めていた。
その顔をギギギとぎこちなく僕に向けて、一言。

亜佐美に会わせてくれ

単純に、会わせなきゃ死んでしまうだろうと思った。
僕より先に、祖母が「亜佐美ね。今呼んでくるからね。」と言って駆けだした。
祖母が行ってしまったので、僕は動けなくなった。
待ってる間が異様に長く感じた。
ヤツの呼吸が激しくなっていた。ギリギリと歯を食いしばっている。
身体もプルプル震えている。
立ち上がろうとしていた。祖父の肩につかまり、必死に足を踏ん張っている。
祖父が「大丈夫か。無茶するな。」とヤツを・・・僕の父親をなんとか寝かそうと説得していた。
けどヤツはそれを拒否し、鬼の形相のままフウフウ言いながら立ち上がった。
辛うじて残っている生きる意思全てを、立ち上がる行為に注いでるみたいだった。
祖母が気狂いピエロを、僕の母親を連れてきた。
母親は相変わらずノン気にヘラヘラしていた。
ヤツはその姿を捕らえると、急激に顔を緩ませた。

おお・・・亜佐美・・・

本当に、心から安心仕切ったような、とても甘い声だった。
救われた。たった一言だったけど、ヤツが救われたことがわかった。
あの殺人鬼が。こんな人間らしい声を出せるなんて。
僕は驚いていた。そしてまた、考えを改めてもいた。
こんなヤツでも、人間だったんだ。
ヤツの口元に笑みが戻った。
いつもの何処か自嘲気味た余裕の笑みではなく、優しい微笑みだった。
その表情を見た時、何処かで見たことあるような、不思議な感覚に襲われた。
遙か昔、今の人格でなかった頃、僕が子供だった頃、そのような顔を見ていたかもしれない。
強い郷愁を思わせる、掛け値ナシの、絶対的な優しさ。
そんな微笑みだった。
このおかげで顔色が良なり、見る見る回復に向かうことに・・・
なるかと思った。
しかし事態は一変した。
屈託のない、無防備な母親の一言によって。
母親はヤツの顔を見るなり、素っ頓狂な声を上げた。

お化け!

いやぁいやぁと叫んで泣き出した。
次にわーんと声を張り上げ、そのまま二階へ走り去った。

あまりの突然の出来事に、僕たちはその場で固まった。
お化け。確かにヤツの髪はボサボサだし、青い顔に無造作に生えたひげなど、
あまり綺麗な格好はしていなかった。むしろ冗談交じりにお化けと言っても過言では無かった。
しかし母親は真剣に怖がった。
ヤツのその姿、もしくは殺人鬼の醸し出すオーラ?
それら全てが「お化け」に見えたのかもしれない。
その「お化け」に、今はもう子供の知能にも満たないアタマを持つあの女は、
怯え、逃げた。

無言の時間が流れた。
二階から母親の泣き声が虚しく響いてた。
バタンと音がした。
音のした方を見ると、ヤツが仰向けのまま祖父の足下に倒れていた。
その顔は、まさに「呆然」と呼ぶのに相応しい・・・目は虚空を見つめ、口は半開き。
糸の切れた操り人形のように、力無く倒れている。
「気力で持ってるようなモンだ。」
数日前のヤツの言葉を思い出した。
気力が操り人形の糸であるならば、その気力が無くなった今・・・
祖父が「おい。」と声をかけた。
祖母が「健史?」と名を呼んだ。
そして僕は、「父さん。」と言った。

ヤツは死んでいた。


7月23日(日) 晴れ
祖母の要望で、ヤツはちゃんとした葬儀で葬ることになった。
今更そんな事が可能かと思ったけど、祖父は大丈夫だと言った。
祖父は以前そんな時に必要ないわゆる「書類」とかを扱う仕事をしてたそうだ。
僕にはそんなオトナの事情など知ったことではない。
結果だけ分かればそれでいい。

母親の処遇をどうするか。
当然このまま家に居着くものだと思ってたが、どうもそうはならないらしい。
あんな状態だからどっかの施設にでもブチ込むのか。そう思ったけど、それも違った。
祖父達は何か当てがあるようだった。
やっぱりあそこに戻してやろうか。その方があっちも喜ぶし、こうなった以上仕方ない、と。
その時僕はヤツの言葉を思い出していた。
「ここに置いておこう。」
僕は提案した。
祖父達は何やら言い返してきた。色々理由を述べていたけど僕は何も聞いてなかった。
一通りの事を言い終わり、さらに何か語ろうとした矢先に、僕は言った。
「アレでも僕の母親だから。」
何も言い返して来なかった。

ヤツは同じ部屋に寝かされていた。
昨日までと違うのは、顔に白い布がかかってるくらい。
タオルや溲瓶やらはまだそのまま放置されている。
じっとその姿を見つめてると、後で祖母が嘆いた。
「人様を殺めたりするからだよ・・・。」
それだけじゃない。
あの惨めな最期は、それだけのせいじゃないと思った。
平然と殺してたからだ。罪に対して何の反省意識も持っていなかった。
「狩り」から帰った時も、どんなヤツをどんな風に消した、と何てことない普通の会話として語ってた。
人の命をゴミのように扱い、本当にゴミのようにしか思ってなかった。
たぶんそのせいだと思う。

自分の部屋部屋に戻ると、突然口元が緩んだ。
自然と声が出てくる。ケケケ
可笑しくなった。僕の今日の発言、僕の考えたこと・・・思い出すだけで、可笑しい。
「アレでも僕の母親だから。」だって?
冗談じゃない。あんなのを母親と思われたらたまらない。
嘘ついた。ヤツの頼みを一応聞いてやろうと、嘘をついた。
「人の命をゴミのように扱い、本当にゴミのようにしか思ってなかった。」
だからあんな惨めな最期を、なんてのも滑稽極まりない。
僕もそう思ってる。僕も早紀を汚す輩の命など、ゴミにしか思ってない。
僕もまた、最期は惨めな事になるのだろうか。
ケケケ。嫌だね。
ヤツの死に関しては、義務を果たした今、もう何の感情も沸いてこない。
ただひたすらこう思うだけ。
あんな死に方だけはゴメンだ。ケケケケケ

どうもヤツの笑い方が移ったらしい。
自嘲気味に、苦笑いのようにして「ケケケ。」と笑う。
これまで真似たことはあったけどけど、今は自然と出てくる。
何てことだ。ヤツが父親として、最期に遺していったのは、この変な笑い方だけなんて。
ご大層に継承してしまった。

ケケケ



第三十週「歯車」
7月24日(月) 晴れ
「希望の世界」が消えると、僕の中の早紀まで消えてしまった。
幾ら想像しても、「希望の世界」が消えたという事実がアタマをよぎり、早紀が、出てこない。
早紀の魂が消えてしまった。
二日経ち、ヤツの事も一応の区切りがつくと、いよいよその現実が身に染みてくる。
あれだけ必死に守ってきた早紀の魂。早紀の遺した「希望の世界」。
僕のパソコンでも駄目だった。何度も何度もクリックしても、ページは表示されない。
完全に消えてる。改めてそう思うと、身体がガタガタ震えてきた。
思わず画面にしがみついた。早紀、この中にいた早紀。
出ておいで、早紀。悪い冗談はおよし。
画面を軽く叩いてみた。でも何も変わらない。
それから何度も早紀を呼びかけても、消えたまま。
次第に僕は声を荒げていった。叫んでた。
強烈な寂しさが込み上げてきた。
早紀が、早紀が僕に何も言わすに去ってしまった。
早紀。どうしてだよ早紀。戻ってよ早紀。
涙は自然に流れ出た。考えてみると、今の僕が泣いたのは、これが初めてかもしれない。
それほど、ショックを受けていた。
鼻をすすりながらパソコンに抱きいた。
無機質な文字を写す画面にしがみつき、早紀を想った。
早紀早紀早紀早紀早紀早紀早紀早紀早紀早紀・・・・

祖母が僕の泣き声を聞きつけてきた。
「気持ちは分かるけど、落ち着きなさい。」などとドコか勘違いしてるような事を言ってる。
無視しておいた。
祖母をやり過ごすと、すごい勢いで冷静になってきた。
許さない。ただこの感情だけがフツフツと込み上げる。
早紀の魂を消しやがッた。
これは、許されることじゃない。
パソコンを置き、スッと立ち上がった。
カーテンを開けると、雨降る闇に僕の身体が映し出された。
焼けただれた顔。でも、荒木さんでも通じる・・・女でも通じる顔。
元は、女顔だったんだ。
早紀に似てる。僕の元の顔は早紀に似ている。
顔を窓に近づけ、その顔をじっと見つめる。
早紀だ。ここに映ってるのは早紀なんだ。
その顔と戯れるところを想像する。
アタマの中は段々濁ってきた。
窓の中に吸い込まれた。吸い込まれた奥は水の中のようでとても心地よい。
その異様な気持ちよさと、アタマの濁りの中で、僕は独り言を呟いた。
誰が消したのか知ってるぞ。
水に沈んでいく感覚の中、「ああ。」と思わず声が漏れる。
風見祐一。あいつの日記に書いてあった。
「希望の世界」のパスワードを、お前にメールで送ったんだってな。
いよいよ水の底に着くかという時、誰かが立っていた。
渡部さん。

ホコリまみれの床を見つめていると、笑いが込み上げてきた。
ケケケ
渡部さん。まだ僕らに横槍入れてくるのか。川口を失っても、まだヤル気なのか。
ブチ切れやがって。最後の最後に、とんでもない事しやがった。
ホコリを指でぬぐいながら床に文字を書いた。
闇の向こうで蠢く彼女に、僕からのメッセージ。

しね


7月25日(火) 曇り
渡部さんはわかってない。こっちはいつでも彼女を消せる立場にいることを。
これまで放って置いたのは、露骨に手を出してこなかったからだ。
僕らはここに逃げてきて、つつましく早紀の魂を守り続けてるだけ。
彼女達がこれ以上「希望の世界」に関わってこなければ、それはそれでいいと思ってた。
が、手を出してきた。もう黙ってるわけにはいかない。
渡部さん。今更「何の為にそんな事を?」等と愚劣な質問はしないよ。
僕らは「早紀の魂を守る」という崇高な目的で動いていたけど、
君ら俗物にはそんな立派なモノは無いだろう。
僕が荒木さんになったのも、別に渡部さんを殺すのが最終目的では無かった。
「希望の世界」から遠ざかってくれれば良かった。
その最も有効な手段が消すことだっただけの話。
運良く生き延びたのなら、大人しくそのまま引き下がってれば良かったのに。
もう駄目。許さない。
早紀の魂を消した罪は重い。
渡部さんは色々失った。弟も失ったし、川口も失った。
それだけじゃ足りない。もっともっと失って貰わなきゃ。
彼女を絶望の淵に立たせる方法を考えてると、楽しくなってきた。
何をしようか。ヤツがやったように、放火の件で警察に・・・いやいや、ご両親に事細かく説明してやろうか。
そんなんじゃもはや動じないか?もっと酷い仕打ちも考えよう。
やっぱり本人に対する直接の拷問?
どうしてくれよう。

早紀が出てこない今、渡部さんへの制裁を想像するのは自然の流れだった。
部屋でどうしてやろうかと考え込んでると、部屋の外では例のガイキチの泣き声が響いてきた。
祖母と祖父が二人がかりで説得してるのが聞こえる。
「健史はもういないんだよ。ほら、お前の好きなパソコンだよ。一人でお遊び・・・。」
オマエラが遊び相手をしてやりゃいいだろう。そう思った。
母親はわぁわぁ騒いで全然泣きやまなかったのでうるさかった。
多少胸の痛みを覚えたのは何かの間違いだろう。
気にせず頭の中で渡部さんへの攻撃を続けた。
ケケケと笑いながら制裁。
終わると違う笑い方になっていた。

ウフフ


7月26日(水) 曇り
ヤツの「葬式」が行われた。
僕は行かなかった。そんなダルい事などしたくない。
「ついでに」と早紀も正式に葬ることになった。
早紀と離れたくなかった。断固として反対したが、無理矢理持っていってしまった。
祖父と祖母は、きちんとしてやらないとカワイソウだ等とぬかし、今回ばかりは僕の言うことを聞かなかった。
一通りの言い争いだけで、結局僕はそれ以上突っかからなかった。
早紀の髪だけは、こっそり保存してあるから。
必要以上に争ってこれまで失いたくは無い。
焼けてボロボロになってる髪の中に数本、無傷の髪の毛が混じってる。
僕のタカラモノ。
僕の早紀。

家が少しドタバタしたけど、皆外に行ってしまうと僕は一人になった。
ガイキチ女も連れて行かれた。おかげで家の中がしんとしてる。
僕も誘われたけど「外に行きたくない。顔の傷を見られるから。」と言ったら無理強いをしなくなった。
一人になって、ヤツが燃やされるところを想像した。
早紀の時と違って、もっとしっかり、完全に灰になるまで焼かれるだろう。
残るのは、骨だけか。
僕はケケケと笑った。祖父も祖母も悪いヤツだ。
ヤツは刺されて死んだ。立派な殺人だ。
けどヤツ自身の殺人行為を隠蔽する為に、こっそり死体を始末しちまった。
非合法なら非合法なりに、ゴミで捨てられるとかロクでもない処理をされるべきなのに。
自分たちの息子だけ、「きとんと」処理するなんて!
単なる傍観者だと思ってたけど、自分たちに関わることだけはキッチリこなす。
良くない事だと黙って見てるだけ。いや、見ないフリ。
そんな事も自覚せず、今頃ヤツの骨をつまんでオイオイ泣いてることだろう。
偽善者め。

明日まで帰ってこない。静まり返ってる。
渡部さんは今どこにいるのか。そんなことを考えた。
川口家にいたことはヤツから聞いたが、それ以降は不明。
もしかしたらまだ川口家に居着いてるかもしれない。
嫌がらせに電話してやった。
電話には、誰も出なかった。虚しい呼び出し音が何時までもなっている。
いるんだろう?僕は話しかけた。受話器の向こうには、電話を睨み付ける渡部さん。
いるはすだ。弟まで殺されたんだ。どの面下げて家に帰れると言うんだ。
渡部さん、返事をしておくれよ。
無機質な音が響き続ける。川口の弟でもいい。誰か出ろ。
いくら語りかけても出ない。受話器を叩きつけた。
あの女、無視しやがった。

お仕置きが愉しみだ。


7月27日(木) 晴れ
三人が戻ってきた。
ガイキチ女はノートパソコン持たせてたので大人しかったらしい。
帰ってきてすぐは少し騒々しかった。
家にヤツがいるとでも思ったのらしく、ピィピィ騒いでた。
祖母が抱えてる白い風呂敷に包まれた箱の中に、探し人はいるのに。
出かけたのも、何をしてきたのかなんて理解してないだろう。
祖父も箱を抱えてた。それが誰なのか、直感で分かった。
早紀。
白い風呂敷に包まれた箱が二つ。なんともあっけなく収まったモンだ。
すぐにでも墓に入れるらしい。家に置いておこうなんて発想は無い。
あの偽善者どもは、世間と同じ事をするのが幸せだと思ってやがる。
早紀が墓に入るのを望んでると思うか?
望むわけない。早紀が望んでるのは、僕と一緒にいることだ。
骨は僕のベッドに置いておくべきだ。毎晩一緒に寝てあげる。
僕がその事を提案すると、奴等は必死に反対した。
「普通はお墓にいれてあげるものだから。」
普通じゃない死に方をしても、普通に葬るのが幸せだと言う。
愚かだ。
結局ここでも僕は引き下がった。

二つの箱。見てると変な気分になる。
早紀の肉体を失った時、散々泣いたから今更涙は出てこない。
しかしもう片方・・・ヤツは、先週まで生きていた。
動いてたし、話もした。肉もあった。
なのに今ではこんな・・・
そう思うと、急激に恐ろしい感情に襲われた。
それが何だか分かってる。でも僕は認めなかった。
気を抜くと涙が出そうになる。こらえた。必死にこらえた。
認めない。僕が、そんな事を思うなんて、認めない。
溢れそうになるのを押さえ、違うモノでどんどん上塗りしていった。
渡部さん渡部さん渡部さん渡部さんのことを考えよう渡部さんをどうするか考えよう
渡部さんでアタマを染めると、急激に楽になった。
落ち着いた。収まると、もうカケラも変な感情は出てこなかった。
普段と同じ僕に戻ってた。
いつもの僕。早紀と戯れてた僕。渡部さんを陵辱する僕。ケケケ
異常な僕。

明日は渡部さんの家に電話しようと思う。
ただ電話するだけじゃツマラナイ。ちょっと趣向を懲らそう。
どうせ始めに出るのは親だから、「普通」なのを。
クラス会のお誘いなんてどうだろう。
ある意味クラス会でもある。二人っきりの、同窓会。
同じクラスだった頃の記憶がないのが悔しい。
さぞかし楽しいクラス会になるだろう。
誘いに乗ってくれるかな?ケケケ。強制同窓会。
嫌でも行ってあげる。
残った二人で、愉しもう。

ラストダンスを踊ろうよ。


7月28日(金) 曇り
プルルルル プルルルル ガチャ

「はい、渡部ですが。」
「もしもし、美希さんいらっしゃいますか。」
「ええ。どちら様でしょう。」
「・・・居るんですか。」
「え?はい。美希ですよね。いますよ。」
「僕、高校で一緒だった岩本と言います。クラス会の件でお電話を・・・。」
「はーい。少々お待ち下さい。」

美希ー岩本君って人から電話よ
岩本君?うん今行く
クラス会の件だって言ってたけど
へぇ、クラス会やるんだぁ。あ、お母さん。子機に回してくれる?
はいはい

チャリラリラリチャララン ピッ

「もしもしー岩本君?久しぶりー。なんかクラス会やるんだって?」
「・・・渡部さん?」
「うん。渡部よ。岩本君から電話あるなんて意外だなー。連絡網?」
「何とぼけてるんだ。」
「え?何?とぼけてるって・・・・・何が?」
「希望の世界を消しただろう。」
「世界を消した?あの、岩本君。言ってる意味がよくわからないんだけど・・・。」
「・・・なるほど。シラを切る気か。」
「ちょっと岩本君、ふざけてるの?クラス会はどうしたの?」
「川口はどうした?捨てたのか?」
「ねぇ何言ってるの。川口ってあの川口君?捨てたってどうゆう意味?別に付き合ってないよ。」
「死体は捨てたのかと聞いてるんだよ。」
「岩本君、イタズラはやめてくれない?死体なんて言わないで。川口君は普通に浪人生やってるはずでしょ。」
「マジメに答えろ。」
「いい加減にしてくれないと怒るわよ。私も浪人だからストレス溜まるの分かるけど、イタズラは駄目よ。」
「荒木さんを燃やしたのはどうするつもりだ。」
「ソレ笑えないよ。荒ちゃんちに不幸があったのは知ってる。岩本君、その頃には学校来てなかったよね。」
「放火魔め。」
「放火魔?うん。そんな噂もあったね。結局デマだったけど。単なる火の不始末なんだってね。」
「お前が燃やした・・・。」
「冗談はもうやめて!私だって親友の不幸に胸を痛めてるんだから。不謹慎よ!」
「・・・・。」
「ねぇ。クラス会ってのは嘘なの?イタズラでやってるだけなの?」
「・・・・。」
「答えてよ。ちゃんと説明してくれなきゃわからないわよ。」
「・・・・。」
「私だって、いきなり登校拒否だったコから電話来て戸惑ってるのよ。」
「・・・・。」
「ねぇどうなの?クラス会は本当なの?」
「・・・・。」
「お願い、岩本君。何か言って・・・。」
「僕は虫だ。」

ガチャン

渡部さん。
僕は騙されないぞ。


7月29日(土) 晴れ
彼女の狸芝居など周りから崩していけばいい。そう思った。
川口が浪人生やってる。と言うことは、まだ生きてるとって事だ。
そんな事はありえない。だから川口家に電話して確認してやった。

川口は居た。

「もしもし。川口ですけど。」
「・・・豊君いますか。」
「ああ、俺です。」
「・・・・。」
「もしもし。ドナタですか。」
「本当にユタカ君ですか。」
「俺です。」
「・・・・。」
「ドナタですか。」
「・・・・。」
「んだよ。イタズラかよ。」

プツリ
ツーツーツー

名乗るべきだと思い直した。
名前を出せば何かしらのリアクションがあるはず。
そうだ。弟もいるんだった。もしかしたら今のは弟の方なのかもしれない。
渡部さんと一芝居打ってるんだ。
そんなの少し話し込めばすぐにボロが出てくるさ。ケケケ
もう一回電話した。

プルルルル プルルルル プルルルル ガチャン

「もしもし。川口ですけど。」
「岩本です。川口ユタカは居ますか。」
「ああ、俺です。」
「・・・・・・岩本亮平、この名前を知ってるだろう」
「ドナタですか。」
「・・・・。」
「もしもし?」
「お前は弟か?ヘタな芝居はよせ。僕には分かってるんだ。渡部さんと口裏あわせて僕をハメようと。」
「イタズラかよ。」

ブツリ
ツーツーツー

それから何度も電話し直したが、もう誰も出なかった。
今日はそれ以上何もしなかった。
緊急作戦会議。奴等の陰謀をどう暴くか。
まだだ。もっと現実を突きつけてやらなければ。
騙されるな。チャチな嘘などすぐにバレる。
落ち着いて攻めれば崩すことなどカンタン。
・・・川口、実は生きてたとか?ヤツが殺し損ねてたとか。
え、でもあの態度は?僕のことを知らない等と。
いや、芝居だアレは。全部芝居だ。
では弟の可能性は?いや待て、そもそも渡部さんの母親も普通にしてたし
渡部さん放火魔は間違い?でも荒木さんが燃えたのは事実らしい、と、そうなると
ん?あれ?待て、落ち着け。僕が登校拒否児?
違う。僕は毎晩渡部さんを陵辱して愉しむ虫だ。
ほら今日だって。僕が顔を近づけたときの渡部さんの怯えよう。
渡部さんの恐怖に引きつる顔、タマラナイ。
ソソる、はず、なのに、

萎えた。


7月30日(日) 晴れ
恐ろしい事実に気付いた。
僕には、友達がいない。
知り合いすらもいない。
いや、いたことはいた。
渡部さん。考えてみると、学校に行ってた頃からの知り合いは渡部さんだけだ。
ある意味川口も知り合いだった。その弟も。
他は、ネットで知り合った奴等は、皆マトモな状態じゃない。
風見祐一は死んだ。遠藤智久は狂った。他には・・・ああ、僕の母親・岩本亜佐美も狂ってる!
会ってない奴でも、何人かは死んだはず。今更確認のしようが無い。
話したい。ネットのこと。渡部さんのこと。早紀のこと。
誰も話せる相手がいない。
唯一の相手、父親・岩本健史は死んだ。
渡部さんには、全て知らないフリをされている。

本当に渡部さんの罠なんだろうか。
全ては僕の夢だった、なんてオチは。
・・・・バカな。そんな事、あってたまるか!
罠だよ。罠。絶対罠だ。
でもその罠を暴くには、奴等に真実を認めさせなければならない
奴等が認めなくてもいい。誰か。僕以外の誰かが、これまでの事実を認めてくれればいいんだ。
僕の記憶は確かだ。間違いない。けど、その記憶を否定されたら・・・!!
酷い。事実がかき消される。誰にも知られない様に生きてきたのが仇になった。
僕の存在が否定される。
祖母と祖父。珍しく僕から話しかけた。
ヤツがネットで何をやってたか。家にいないとき、ドコに出かけてたのか。
今もっとも身近な他人に聞いてみた。ヤツの行動が現実にあった事を確認するだけでも、少しは楽になる。
と考えたのは浅はかだった。
「コンピューターの事はよくわからないから。」
「単なるドライブだって言ってたけど。」
非道い答えだ。

風見家の場所はわからない。遠藤が入院してる場所など覚えてない。
どちらも、知ってたのはヤツだけだった。
渡部家か川口家、どっちかに乗り込んでやるか。いや、でもそこで更に否定されたらどうする?
想像が付く。白々しく「どうしたのその顔?」とか言って。
弟に会わせろと言ったらどうなるか。決まってる。なんで会わせなきゃいけないの、と。
いくら頑張っても変人扱いでオシマイ。
川口家に行ったら?
怖い。川口が本当に居たら・・・!!
僕だけが噛み合わない歯車なのか。

母親の胸ぐらを掴んで何度もさすった。「早紀の死体を発見したとき、渡部さんも居たんだろ?」
わぁわぁ泣くだけで答えてはくれなかった。次第に嫌な気持ちになってきたので手を離した。
ヤツの骨。早紀の骨。もう家には無かった。
早紀の髪。それだけが、今の僕を支えてた。ついさっきまで。
祖母に捨てられてた。

怒ることを忘れ、ただ呆然としていた。



第三十一週「撃破」
7月31日(月) 晴れ
どんなに怖くてもこの確認だけはしておかなければならない。
川口家に行った。川口が本当に生きてるのか。
居ても立ってもいられなかった。
ヤツの帽子を借り、なるべく自分の顔を見せないよう、暑くても我慢して帽子を深く被っていった。
電車の中でも心細かった。みんなが僕のことを見てた。
顔の傷。嫌だった。
荒木さんを名乗った時は堂々と歩いていたけど、今ではとてもできない。
あの時の事実さえあやふやになっているのだから。
だが、結局あやふやなままで終わってしまった。
居留守を使われたから。何度チャイムを鳴らしたかわからない。
何度ノックしたかわからない。声が出せなかった。
虚しく響くノックの音に恥ずかしくなって、駄目だとわかった途端に走り去った。
渡部家にも行かず、記憶を辿って遠藤の病院を探そうともせず、逃げてきた。
時間にしてどれくらいだろう。三時間も外にいなかった。
外にいるのに耐えられなかった。自分に自信が持てなくなっていた。

不安が消えない。


8月1日(火) 晴れ
不安になるのは、僕自身の記憶が曖昧だからだと思う。
僕の記憶は、燃える早紀を抱きしめてるところから始まってる。
早紀の声を聞いた。「戻って。」と。早紀に戻れと言われた。確かに聞いた。
それが始まりだ。
夢から覚めるような気分だった。スーッと脳が覚醒していくのがわかった。
長い眠りから覚める感じ。炎の中で、自分の記憶を確かめていた。
ヤツに水をかけられた時には、僕のアタマ十分ハッキリしていた。
「早紀が燃えた。」
僕は確かにそう言った。
目の前の黒い塊が、早紀であることは認識できていた。
焼けた顔が痛んだのは覚えてる。でも笑ってた気がする。
何がおかしかったんだろう?もう思い出せない。
本能というか、目覚めたアタマの中には「希望の世界」があった。
そしてそれが、自分にとってとても大切なものであることも分かってた。
記憶が戻った。確かにそうだ。でも厳密にはそうじゃない。
ソレ以外の事は、夢だと言われても認めてしまいそうなくらい曖昧だった。
日記を読むことで、曖昧な記憶を具体化していった。
日記は冷静に見てみると信じられないような内容だ。何しろ人格が変わってるんだから。
しかしその時は違和感無かった。ああこれが自分なんだと納得できてた。
それを元に記憶を植え付けていくのも、全然抵抗が無かった。
思い出してたんじゃない。記憶を自分で植え付けた。時間をかけて、丹念に。
日記から想像できるあらゆることを、僕の記憶として保存した。
・・・・所詮は後付だ。曖昧には変わりない。
早紀と戯れる時も、想像するしかなかった。
渡部さん。僕の記憶がこんなに曖昧なことを知ってるのか?
彼女には「全部思い出した。」と言った。知らないはずだ。
なのにこんな罠をかける。
タチが悪い。

僕の始まり、早紀が遺したものはもう何もない。
骨も、髪も、「希望の世界」も。僕の中心が、支えが、消えた。
哲学的なことを考えてるつもりなど無い。僕はただ、渡部さんの罠を破りたいだけ。
無かった事になどさせたくないだけ。

川口。あの男が全てを狂わせてるんだ。
渡部さんは生き残ってるんだから、嘘はいくらでもつける。
でも川口は死んだはず。ヤツが殺したと言ってた。
その川口が生きてるから話がオカシくなってるんだ。
そうだ。川口は途中参加だ。無かった事になったら、川口などアカの他人。
話したこともない同級生。ああ、今はまさにその状態に戻されてる。
けど僕はそれが嘘だと分かってる。ちょっとツッコめばすぐバレる。
電話して確かめよう。電話した。
でない。誰も。
何度も。
無視された。

明日がある。


8月2日(水) 晴れ
自分の記憶を確かめるべく、日記を読み返した。
僕の日記、早紀の日記。サキの日記。ついでにカイザー日記も。
見れば見るほど、僕は「昔の僕」じゃない。
サキの日記など論外。本当に僕にこんな時期があったんだろうかと思うくらいだ。
一番近いのは早紀が僕になってた頃の日記。
僕の日記を読んで、早紀は僕になった。僕でない僕が、一番僕に近いなんて。
虫。早紀は「虫」だと自覚した。他人の日記を自分の過去に。
そんな強引な事をするから、虫などと中途半端な人格になった。
日記を読んでると笑いたくなってきた。ケケケ、ケケケと声を上げて笑った。
ケッケッケッケッケ
中途半端な人格。まさに今の僕じゃないか。
とするとどうだい?他人の日記を自分の過去に?
僕は岩本亮平じゃない、と?ヤツの陰謀で、僕は岩本亮平にされた・・・・
ああ、そもそもこれらの日記も全てでっちあげなのかもしれない。
この顔の火傷も、なりすましの為につけられたのだとしたら。
川口の家に電話中、何十回目かの挑戦中、虚しく響く呼び出し音を聞いてる中、僕は気付いてしまった。
信用できるモノなど、何もない。
あの女も僕の母親じゃないのでは?祖父も祖母も、本当はアカの他人なのでは?
僕は僕じゃないのでは?

渡部さんの家に電話をした。出たのは渡部さんだった。

「はい、渡部です。」
「ユウイチ君いらっしゃいますか。」
「もしもし、どなた?」
「渡部ユウイチ君はいますか。美希さんの弟さんのはずですが。」
「はい?美希は私ですけど。」
「弟さんをお願いします。」
「あの、どちら様でしょうか。」
「弟さんと話をさせて下さい。」
「えっと、間違いじゃありませんか?ウチには弟はおりませんが。」
「あ、いないんですか。じゃあ美希さん。アナタでいいです。」
「え、あ、その、お名前聞かせて頂けますか?」
「岩本亮平です。」
「・・・岩本君?」
「たぶんそうだと思います。」
「ちょっと、もうやめてくれない?」
「切らないで下さい。聞きたいことがあるんです。」
「何よ、今日はやたら丁寧ね。」
「聞きたいことがあるんです。」
「わかったわかった。何?答えるから。もう二度と電話してこないでね。」
「ありがとう。」
「いいから何よ。さっさとしてよ。」
「僕は岩本亮平なんですか?」
「・・・・はぁ?」
「教えて下さい。僕は岩本亮平なの?」
「何言ってんのかよくわかんないけど・・・。」
「答えて下さい。」
「え、だから・・・。」
「僕は、岩本亮平なのですか。」
「・・・・・。」
「・・・・・。」

駆け引きなのか真剣なのかもうどちらともいえない。
完全に罠にハマり、僕は狂ってしまった。そう思わせる。つもり。
罠への抵抗は予想してただろう。だが何も抵抗せず、すんなり受け入れてしまったら?
且つ、狂ってしまったら?そんな自分を演じたのか、本当にそうなってしまったのか。
答えを待った。数秒の沈黙。
渡部さんは答えてくれた。

「わからないわ。」

ブツリ

受話器を持ったまま、僕は崩れ落ちた。
ガタンと音を立てて、その場に座り込んだ。
祖母が「どうしたの?」と寄ってきたが、何も答えられなかった。
黙って首を横に振っていた。何度も何度も。
わからないなんて。渡部美希、お前は知ってるはずだ!
それとも本気で・・・知らないのか?
部屋に駆け戻り、布団を被った。クーラーをつけ忘れてたせいで、異常に暑かった。
汗がダラダラと流れ落ちる。構わず布団にくるまった。罠じゃないのか・・・・
もう僕にはわからなかった。たった一週間で、全てが覆るなんて。
シャツが汗でグショグショになるまで布団の中にいた。
汗は暑いせいだけじゃなかった。

自分がどこにいるのかわからない。


8月3日(木) 晴れ
僕は自分の記憶にしがみついた。
「希望の世界」は消えてしまった。でももう一つ、「希望の世界」の存在を証明するものがあった。
何のために作られたのかわからないシロモノ。今僕はそんな謎だらけのモノに希望を見いだしてる。
「絶望クロニクル」
「希望の世界」をストーキングした記録。元々リンク先に「希望の世界」は無い。
これすらも作り物の様にも見えるが・・・これだけが頼り。
ジャンク情報BBS。
そこには何も無い。曖昧な情報ばかり。何の意味があるんだここは。
例え真実が紛れてても、こんなとこじゃ誰も信じない。
本当のことすらあやふやにされてしまう。都合の悪い真実を隠す為には丁度いい?
それがなぜ「希望の世界」のストーキングに繋がるんだ。
こっちはイイ。もう知らない。
用があるのは、湖畔専用BBS。
ああ、もう頼れるのはここだけだ。現実の奴等は、どいつも信用ならない。
顔も知らないネットのヒトタチ。何の事情も知らない彼らなら、客観的に見てくれる。
湖畔へ。

そこには一人しか居なかった。「ミギワ」と名乗る女性。

「最近誰もこないけど何かあったの?」
「誰か返事してー。」
「みんなどうしちゃったの・・・。」

悲痛な書き込みが続いてる。他の奴等は・・・・消えた。いや、消したんだ。
渡部さんや川口、川口の弟。そしてヤツが殺した連中。
現実からいなくなれば、ネットでの存在も消える。当たり前だ。
渡部さん達は意図的に存在を消した。
酷いことだ。嫌になったら書き込みをやめればいい。
それだけで、ネットじゃ「死ぬ」ことができる。縁が切れる。
お互いの素性など、誰も知らないのだから。
ああ、それでも「ミギワ」は残ってる。健気に一人、ポツンと。
つい前までの僕ならバカにしてただろう。
「何を期待してたんだコイツ?ネットでの仲なんざそんなモンなんだよ!」と。
でも今は、その存在がありがたい。
話せる人がいる。それが救いになる。

「処刑人」の名で書き込んだ。
恐れられても構わない。なんでもいい。反応して欲しかった。

「教えてくれ。ここには以前、色んなヤツがいたよな?
ユウイチだとか。王蟲とか。紅天女だとか。他にはどんな奴等がいた?
覚えてる限りでイイ。お願いします。教えて下さい。」

ただの叫びだ。それも、悲痛な叫び。
打ち込むとき、実際に言葉に出していた。
頼む。ミギワ。「いたよ」と答えてくれ。頼むよ。お願いだ。でないと僕は・・・

キーボードを打ちながら、僕は、祈ってた。
今なお祈ってる。


8月5日(金) 晴れ
とても、とても貴重な書き込みだった。

「処刑人さんってジャンクの方にいた人?
ユウイチ君も王蟲さんや紅天女さん。最近見ないけど確かにいたよ。
あとはロロ・トマシさんとかシス卿さんとか。SEXマシーンって人もいたよね。
みんながどこに行っちゃったのか私にもわからないんです。
処刑人さんも何か知りませんか?」

「ミギワ」は、僕の記憶を証明してくれた。
例え過去ログが流れてしまっても、その存在を見てきた人の記憶は、消せない。
よくやったミギワ。よく覚えていてくれた。

その書き込みは僕に勇気を与えた。
渡部さんのおかしな行動は、罠だと確信した。
渡部さん。君がいくらとぼけても、他の人の行動までは消せない。
ユウイチが川口の弟だったことは知ってるぞ。
そうして渡部さん行動を罠とわかると、自分のやるべきことが見えてきた。
ああ、何て簡単な事だったんだ。アタマが茹だってて、そんなことにも気付かなかったのか。
罠だとしたら・・・・別にそれを、渡部さんに認めさせる必要なんて無かったんだ。
わざわざ証拠を突きつける必要など無い。問答無用にやってしまえば良かったんだ。
実に単純明快な解決方法じゃないか!
渡部さんが何と言おうと関係ない。僕はただ、自分の信じた道を進めばいいんだ。
ヤツもそうしてきたじゃないか。「希望の世界」を汚す輩を、問答無用に消してきた。
それだ誰であれ、どんな理由で絶望クロニクルに居着いてたかなど、何の説明もいらない。
相手の事情など考えない。消す必要があるから、消す。
渡部さん。君もだ。もちろん、川口も。
今の川口がどうだろうと知った事じゃない。
渡部さんがどんなことを考えてるのか、知らなくていい。
どうせ全て罠なんだ。僕が、それを撃ち破る。
今までヤツに頼りすぎた。ヤツの居ない今、僕がやるしかない。
最後の「処刑人」は、僕だ。

武器が必要だ。家中を探し回った。
祖父も祖母も、ヤツや早紀の骨を収めたことで、全て終わったつもりらしくゆっくりしてる。
ガイキチ女もノートパソコンをいじくって大人しくしてる。
台所から包丁を一個くすねてくることなど、造作のないことだった。
武器と言うと刃物しか思いつかない。遠藤も包丁を武器にしてた。確かに、包丁は使える。
誰かがやったように、僕も包丁を蛍光灯にかざしてみた。
キラリと眩しく輝いた。僕の明日を切り開く光。

希望の光だ。


8月5日(土) 晴々
この前来た時はビクビクしながらだった。
でも今日は違った。堂々とこの身を晒し、やって来た。
川口家に。

鍵が開いていた。前も開いてたのか?気付かなかった。
チャイムを鳴らし、コンコンコンコンとノックをしても反応が無い。
ふとドアノブを回してみると、回った。引いてみると、開いた。
軽く驚いたけど、今日の僕は何もかもうまくいきそうだったから、快く中にいれさせて頂いた。
変なヤツが居た。
テレビ横の壁にもたれかかり、口をだらしなく開けて涎まで垂らしてる。
目の焦点が合ってない。ボサボサの茶色い髪。
あのガイキチ女と似た雰囲気があった。
心が破綻してる者の顔。川口?そう思ったけど、顔も体格も違う。
僕が入ってきても気付いてない。何だコイツは。
僕は念のために包丁を取り出してから、声をかけた。
「おい。」と。
顔は向けてこなかったが、声は届いたようだった。
突然ブツブツ何かを喋り始めた。
姿勢も顔も固めたまま、口だけ不気味に動かしている。
何を話してるんだろう。そっと耳を澄ました。
僕の動作に関係なく、そいつは話し続けた。

笑いそうになった。
あまりに滑稽。あまりに単純。
僕は初めて見るから気付かなかっが、恐らくこいつが川口の弟なのだろう。
兄貴を殺されて気が触れてしまったんだ。
それでこんな哀れな姿に。
ただ単純な言葉を繰り返すだけ。
教え込まれたことを、機械のように繰り返す。
人間であることを放棄したリピートマシーン。
楽しくてしかたない。我慢できず、ケケケと声を出して笑った。
笑ったまま話しかけてみた。
やってみると、なかなかうまくできている。
ああ、でも、こんな単純な罠に引っ掛かるなんて!

「もしもし。」と、声をかける。
「もしもし、川口ですけど。」

「お母さんはいますか。」
「ああ、俺です。」

「え?お前、男なのに?」
「俺です。」

「ふざけてないで母親をだせって。」
「ドナタですか。」

「誰でもいいだろ。母親はいるのか?いないのか?」
「んだよ。イタズラかよ。」

それから少し沈黙があって、数秒後には再び喋り出す。

「今日はいい天気だね。」
「もしもし、川口ですけど。」

「お前は誰だ。」
「俺です。」

「川口豊って男、知ってるか?」
「ドナタですか。」

「僕の名前はイタズラだ。」
「んだよ。イタズラかよ。」

時々順番を間違えたりセリフを飛ばしたりするけど、基本的には変わらない。
これを電話でやられたらたまらない。
うまく噛み合わずに疑問をもたれても、最後は「イタズラかよ。」で済まされてしまう。
しかも、もう電話すらとってない。
何回までは出て良しとか教育されてるのかもしれない。
それにしても・・・おもしろい玩具だった。
しばらくその面白さを堪能した。
うまく会話が成り立つように言葉を考える。
ランダムで間違えるし、そこそこムズカシイ。
・・・・などと完全に玩具扱いしてたのが甘かった。
罠は、まだ残されてた。

遊んでる拍子に、ちょっと叩いてしまった。
軽くポンと、小突いただけ。
それが引き金だった。
テープがブツリと切れるように、突然会話途切れた。
キュっと口を閉じてた。そして初めて、僕の方に顔を向けた。
壊れた視線を感じる。目は、僕を見てるのか、その向こう側を見てたのか・・・
目があった瞬間、口を開いた。
今度は違うセリフだった。

「俺、最強らしいっスよ。」

言ったと同時に、襲いかかってきた。
素早く手を伸ばし、僕の首に。
尋常じゃない力。明らかに僕を殺そうしていた。
いや、たぶんコイツには「殺す」なんて理念は無かっただろう。
目の前の首を、力一杯絞める。
それだけののことを忠実に実行している。
無表情とも違う・・・無機質な顔。
リピートマシーンから、首締めマシーンに変身した。
激痛と苦しさが同時に襲ってきた。
僕の首は、完全に捕らえられていた。
目の前がどんどん暗くなる。声も出せず、嗚咽すら漏れない。
唐突にやってきた修羅場。
もうあと5秒も締められてたらオチてただろう。
ああ、でも僕は・・・・用意周到な僕は・・・
右手に、包丁を握ってた!

迷わず刺した。

「あ・・・」と声を漏らし、手を離した。
痛みすら感じない機械ではなかった。
腕からスゥっと血が垂れた。
僕は舌打ちを打った。
カスっただけか!
包丁を構え直した。
相手はひるんでる。武器も持ってない。
止めをさすなら今だ。
殺そう。
そう思った。
・・・その瞬間だった。

ひぃー

意味不明の叫び声。
身を屈め、ブルブル震え始めた。
何が起きたのか理解できなかった。
僕は向けた包丁を動かすことも出来ず、その場に立ちつくした。
ブルブルと怯えてる。しばらくすると、突然顔を上げた。
何を思ったのか、笑ってる。
目は泣きそうなのに、必死に笑おうとしてる。
そして、懸命に訴えてきた。

「ほら、笑ったよ。嫌がってないだろ?楽しい。ううん。楽しいよ。
その証拠に笑ってるじゃないか。これこれ。この顔。俺も楽しんでるさ。
だから、なぁ。もういいだろ?笑ったから。もう笑ったから。
笑ったら許してくれるって言ったじゃんよ。なぁ。笑ってるだろ?
なぁ。ほら。笑ってるって。笑ってるから。なぁ。兄貴・・・。」

僕は今、川口家にいる。
川口弟は相変わらず部屋の隅っこでプルプルして、たまにこっちの機嫌を伺ったりしてる。
結局、殺す気にはなれなかった。
渡部さん。そのうちここに来るかもしれない。
そう思って居着いてみた。
でも今日は来なかった。
ここにいて、我慢できないことが一つある。
臭い。何のニオイか知らないが、とにかく臭い。
気持ち悪くなっきたので、吐いた。
「ひぃ。」と嫌がられた。
その反応、一応マシーンから人間に戻れたようだ。
心は破綻したままだけど。生理的な反応はできるらしい。
自分の嘔吐物を見てまた気持ち悪くなったので、もう一回吐いた。
今度は川口弟のアタマに。
とても嫌がってた。

明日は、渡部さんだ。


8月6日(日) 曇り
川口弟を連れ、渡部家に乗り込んだ。
渡部さんは僕の訪問に戸惑うことはなかった。
門前払いされないよう、川口弟を連れてきた旨を伝えると、すんなり出てきた。
僕の顔を見ると、キャッと小さく声をあげた。
予想通りの反応。顔の傷に怖がってる。
川口弟を前に差し出し、さらに反応を伺った。
渡部さんは川口を変な目で見た。眉をひそめ、汚いモノでもみるような。
僕と川口弟、交互に顔を見つめる。
何度か見たあと、ようやく口を開いた。
「誰?」
なるほどそう来たか。飽くまでシラを切るつもりだ。
仕方ないから言ってやった。
「僕は岩本亮平で、コイツは川口豊の弟だ。」
渡部さんはちょっと驚いた顔をした。
しげしげと改めて僕らの顔を見る。
「その顔・・・ごめん。気付かなかった。それにこのコ、川口君の弟?へぇ・・・」
放っておくとさらに惚けそうだった。
そうさはせない。畳みかけた。
「おい。お前、この女を知ってるだろう。」
川口弟を小突いた。「ひぃ。」と嫌がったあと、すぐに何度も頷き始めた。
渡部さん。コイツを罠として使ったのは良かったけど、面が割れるのは避けられなかったようだな!
こうなったらもう、申し開きはできないぞ。
「知らない。」では済まされない。
さらに追い打ちをかける。
「この女に、電話の対応の仕方を教え込まれたんだよな?」
ウンウンウンウンと、忙しく頷く川口弟。
僕は満足し、ケケケと笑った。
これで確定した。渡部さん。これ以上罠は続けられないぞ。
さぁどうする。何て言い訳する?
この状況、どう収集するつもりだ?
渡部さんを見た。

「ねぇアナタ。私の事知らないでしょ。」
ウンウンウンウンウンウンウン・・・・

・・・・・・数秒間の沈黙。
時が止まったように、誰も口を開かない。
誰も動かない。
ふぅと渡部さんがため息をついた。
「で?」
で?って・・・・・・・・・・・・・
川口弟はまたキョロキョロ周りを気にし始めた。
僕はまだ何も言えず、黙ってその様子を眺めてた。
いつまでも続く沈黙に、僕は耐えられなくなった。
声を出した。とにかく、説明を。
どんな話をしたのかもうよく覚えてない。
ヤツが死んだことも話した気がする。
いや、もっと遡って、早紀のことまで。
祖父の家に行くことになったいきさつまで話したかもしれない。
・・・・・必死になって言い訳してた。
なんでこんなに話してるんだろう?時折疑問に思った。
けど止まらない。堰を切ったように話した。
渡部さんは僕が話してる間、何度か相づちを打ってくれた。
でも目は・・・哀れんでるような・・・・酷い視線だった。
僕の話が終わった。すごい疲れだった。
渡部さんは、その酷い視線を、ゆっくりと僕の目に向けてきた。
そして、言った。

「岩本君。イタズラはやめてって言ったでしょ?もう二度とこんな真似はやめてよね。
私、勉強があるから。これで失礼するね。顔の傷。気の毒だとは思うけど、私に見せられても困るのよ。
川口君にもよろしくね。じゃ。」

踵を返す渡部さん。
家に入る直前、ドアから半分顔を出して一言残していった。

「悪い夢でも見てたんじゃないの?」

バタン。
渡部さんは家に戻った。

玄関先で佇む二人。
挙動不審におどおどしてる茶髪の男と、顔が傷ダラケの男。
日差しがあつい。
セミの声がうるさい。
遠くでは子供達のはしゃぎ声。
何もかも遠い出来事のようだった。
渡部さんの声が蘇る。
「悪い夢でも、見てたんじゃないの?」
・・・・急に寒気が襲ってきた。
凄い勢いで恥ずかしさが込み上げてきた。
川口弟に声をかける。
「お前、最強なんだってな?」
ウンウンウンウンと勢い良く頷いてくれた。
僕は懐に忍ばせていた包丁を取り出し、渡した。

「これであの家の連中、殺してきてくれ。殺すって分かるか?刺せばいいんだ。
こうして、そう。そんな感じで突きだして。動いてるモノ全部、突いてこい。
兄貴の命令だ。皆殺しにしてこい。やらないとまた殴るぞ。そら、行け!」

川口弟が渡部さんの家に向かうのを見届けた。
玄関は閉まってたらしく、裏手の方に回っていった。
ちょっとすると、ガラスが割れる音や、女性の悲鳴なんかも聞こえてきた。
その時にはもう、走ってた。
背後から次々と色んな音が聞こえてくる。
走ってるウチに、だんだん聞こえなくなってきた。
・・・・・・・うぁ・・・・・・・・・・・・・・・・
とても恥ずかしかった。
そう。渡部さんの言うとおり、僕は悪い夢を見てた。
とてつもなく嫌な夢を見てた。
もういい。もう見ない。悪い夢から、僕は、覚めた。
家に帰るまでの時間。とても長かった。
ナップサックに入れてきたノートパソコンも異様に重く感じた。
電車の中など、じっとしてるのが辛かった。
誰かに笑われた。
顔の傷をなじられた。
すれ違う人みんなに、陰口をたたかれた。
悔しい。悔しいけど、言い返すことなどできない。
イヤだ。もう嫌だ。外には出ない。一生外になんか出ない。
誰にも、会いたくない。
今度は一人で、いい夢を見るんだ・・・・

家につくと、すぐに自分の部屋に駆け込んだ。
祖母がしきりに「ドコ行ってたの。昨日の夜はどうしたの。」と聞いてくる。
僕を責めてるようだった。僕は、叫んだ。
「知らない!」
僕はもう、何も知らない!今までのは全部、夢なんだから!
ベッドに倒れ込み、祖母の声が聞こえなくなっても叫び続けた。
ポロポロと涙も流れてくる。
鼻をすすりながら、叫んでた。
・・・・・泣き疲れてそのまま眠ってしまった。
さっき起きた。
もう夜になってる。
カーテンが閉まってなかったので、窓に僕の顔がクッキリ写ってる。
早紀の顔であって欲しい。
早紀の顔でなくても、誰でもいい。違う人の顔であればいいと思った。
以前のように、人格が入れ替わってて欲しかった。
何度かやってるんだから、今度だってそうなのかも。
期待した。違う自分であることを、期待した。
ああでもそこに映ってるのは・・・・!

岩本亮平。
僕以外、誰でもなかった。
夢は撃破され、残ったのは、顔の傷だけ。
腐った顔の醜い男。

僕。



第三十二週「終焉」
8月7日(月) 夕立
この家にいるのが苦痛になってきた。
やることと言えば、残った「絶望クロニクル」を見るくらい。
「ミギワ」と会話しようかと思ったけど処刑人の名前を使うのが嫌だったから止めた。
ジャンクの方ではいつものように真偽の疑わしい情報ばかりながれてる。
どれが本当のことなのかわからない。見極めるのが面倒くさい。
もうネットすら嫌になった。
昔に戻りたい。
祖母のおせっかいも、祖父の気遣いも、狂った母親の相手も、
僕にはただの苦痛に過ぎない。
子供の頃まで戻りたくなった。
忘れてしまった記憶の中に。
綺麗な過去に戻りたい。

帰りたい。


8月8日(火) 晴れ
帰ろう。僕は決意した。
この家にあるのは「新しい生活」だ。
祖父と祖母に養われ、ただ生きるだけの生活。
僕はそんなもの望んでない。
僕が戻りたいのは、早紀と過ごしたあの日々だ。
父親が病院勤めのせいで家にいる時間が少ない。
母親もやたら外出してなかなか家に居着かない。
必然的に増える二人だけの時間。
親のいない寂しさを共感した。
ああ、今思い出したよ。
僕らは寂しがってた。
子供の頃、僕と早紀は寂しさを癒すため互いの身を寄り添えていた。
いつの間にか、そんな時期があったのさえ忘れてしまったけれど。
気付いたらオトナになっていた。
親のことを気にするよりも、自分の事で手一杯。
けど、子供の頃の感情は・・・・早紀と触れあう喜びは・・・・
どこで歪んだのか。僕は愛情表現を間違えた。
ねじれた愛情をそのままぶつけたとき、早紀は壊れた。
最初に戻ろう。
色んな事が起き過ぎた。
もう、疲れたよ。
帰る。もう帰るよ。
僕が育ったあの家に。
引きこもるならあそこしかない。

身支度を整えた。
なんだかんだと、この部屋にも僕の生活が染みついてた。
祖母に買わせた漫画や雑誌は全部捨てることにした。
あの家を出るときの記憶が曖昧だから、何が残ってるのかよく覚えてない。
川口を撃退しに行った時もフラリと自分の部屋に行ったけど、それもあまり記憶にない。
どれを残し、何を持っていくか。

大切な選択だ。


8月9日(水) 曇り
別れの挨拶をした。
祖父と祖母。そして母親に。
もちろん面と向かっては言わなかった。
心の中で、こっそりと。

この家から持っていくのは、CD。
色んなCDを母親の部屋から持ってきた。コンポはあっちの家にあったはず。
ボレロやワルキューレの騎行、カノンやラカンパネラ。それにトロイメライ。
これらの曲が入ったCDを貰うことにした。もうこの家じゃ聴かれないものばかり。
僕が持っていっても問題ないはずだ。
母親はニィっと笑いながら父親のノートパソコンをいじってた。毎度の光景。
僕がCDを選んでても、視界には入ってなかった。
みんな普段通りの生活をしてる。
いつものように母親の奇行を制し、世話をする。
祖父と祖母。二人はこの世話を煩わしく思ってるようだが、他に面倒見る奴がいないから仕方ない。
僕はここから居なくなる。
僕の養育が無くなる分、少しはマシになるかもしれない。
食料や水もバックに詰めた。
これで何日もつか分からないけど、その時はその時だ。
ここにノートパソコンも入る。重そうだ。気を付けて持たないと。
最後の外出だから、これくらい重くても頑張らなくては。

準備できたらすぐに行こうかと思ったけど、明日にした。
この家での最後を堪能しておこうと思ったから。
誰かと過ごすのも最後。
これからは、一人で生きていくんだ。
夜の闇を見つめた。こうするのも何度目だろう。
外では雨が降り始め、雷も鳴っている。
いつもは闇の向こうに誰かを見てた。
早紀だったり、渡部さんだったり。
でも今日は、自分を見た。
窓に映る自分の顔。火傷だらけのグチャグチャの顔。
その先に、僕は自分の未来を見ようとした。
「僕に未来なんてあるのか?」
闇の向こうに問いかけた。

返事は雷鳴だけだった。


8月10日(木) 晴れ
僕の家へ。
横浜の家まで戻った。
それがまさか、こんなことになるなんて。

暑い中、バックを肩から担いでフウフウ言いながら辿り着いた。
家に近づくにつれ、妙な奴がいるのに気が付いた。
デブ。
遠藤よりかは少し小さいが、似た雰囲気を持ってる・・・プチ遠藤だ。
そいつが僕の家の前をウロウロしてた。
門の外から中をのぞき込んだり、ちょっと中に入ってみたり。
人の家で何をやってるんだ?
プチ遠藤は何やら顔を歪め、門の中から出て帰ろうとした。
怒りを感じた。僕は急いで後を追い、後から声をぶつけた。
「お前、何やってたんだ!」
プチ遠藤はビクリと肩をあげ、凄い勢いで振り向いた。
僕の顔を見るとさらにビクンと反応して、口をパクパクさせていた。
「誰だよお前。僕の家で何やってた。」
「あ・・・・その・・・・・・いや・・・・・」とうろたえ始めた。
僕が家の者であることは理解したらしい。
しばらくはしきりに汗を拭いてオロオロするだけだった。
が、やがて意を決したらしく、背筋をピンと伸ばして口を開いた。
「ボ、ボ、ボクの名前はア、秋山と言います!」
目をパチパチさせながら必死に叫んでた。
秋山?聞き覚えのない名前だった。
「あの、ちょっと前からちょくちょく家を張ってて・・・その、最近になって誰か家にいる気配があって、だから、あの」
言ってることが理解できずイライラした。
こいつは何を言ってるんだ?家を張る?なぜ?
思わず問いかけた。
「なんで僕の家を?」
ア、と小さく声をあげた。
えっと、その、あの、とじらすような言葉ばかり続ける。
その中で一言、聞き捨て鳴らない単語があった。
いや、だから、その、あれの、えっと、絶望クロニクルの・・・・・
「絶望クロニクルを知ってるのか!」
僕の声に、秋山はまたもやビクンと反応した。
なんで知ってるんだ。それがどう関係してるんだ。
僕は立て続けに質問をしたが、秋山を戸惑わせるばかりだった。
「あ、いえ、だから・・・」
泣きそうな声でようやく声を出した。
「ボク・・・王蟲なんです・・・・・。」
王蟲。その名前は覚えていた。
父親が殺した連中の中にその名前はあったか?そこまでは思い出せない。
ただ、湖畔にそんな奴がいたことは確かだ。
こいつがその王蟲か・・・・
・・・・で?それが僕の家と何の関係が?
僕が考え込んでると、秋山は悩む僕の姿を伺っていた。
そして突然、何を勘違いしたのか・・・・ニヤっと嫌らしい笑みを浮かべ、大声を上げた。
「シャーリーンを出せ!」
あまりの唐突な豹変ぶりに僕は驚いた。
さっきまでのオドオドは消え、圧倒的優位だと言わんばかりの態度だった。
少し後ずさりする僕に、秋山は勢いづいて更に叫ぶ。
「隠してもムダだぞ!ボクはちゃんと調べたんだ!パスワード解析もアクセス解析もした!
IPチェックもしたしプロバイダまで問い合わせたし全て調べ上げて住所を突き止めたんだぞ!」
わめく秋山。
最初、何を叫んでる理解できなかった。
わぁわぁ叫ぶ声の断片を拾ってなんとか推測してみた。
秋山は絶望クロニクルの管理人・シャーリーンの正体を突き止めようとした。
そこでやったのがサイト自体のパス解析をはじめとしたソーシャルハック。
パスがわかればサイトの管理人の個人情報もわかる。もちろん自己申告の情報だが。
絶望クロニクルがどのプロバイダによるサイトだったかは忘れたけど・・・
ネットには個人情報を暴露するための技術・情報はゴロゴロ転がってる。
情報漏洩の意識にうとい管理人は簡単にバラされてしまう。
とにかく秋山は見事にシャーリーンの個人情報を調べ上げ、そこに僕の家の住所を見つけた。
それで張ってたワケだ。シャーリーンに会うために。
でも、納得できないことがある。
なんでウチの住所をあの「シャーリーン」が?
当然の疑問だった。
それを問いただすのも自然の流れ。
僕は聞いた。
・・・・・・・・・・その先に何があるのかも知らずに。
真実は変えられないとしても、知りたくないこともある。
知らなければ良かったのに。聞かなければ良かったのに。
何も知らなければ、幸せのままでいられたのに。
僕は、聞いてしまった。

「シャーリーンって誰だ?」

秋山は僕の言葉を聞くと、とてもとても嬉しそうな顔をした。
言いたくて仕方ない顔。手に入れた秘密を教える優越感。
満面の笑み。よくぞきいてくれたと言わんばかりにはしゃいで、
答えた。

「岩本亜佐美って人だよ!妹?お姉さん?とにかくそいつが、シャーリーンだ!」

吐き気がした。
もの凄い勢いでアタマの中が回っていった。
絶望クロニクルの存在意義・・・・
自分では意識しなくても、勝手に思考回路が動いてしまう。
カチャカチャと機械的な計算が駆け抜け、答えを導き出した。
「ねぇねぇ亜佐美さんに会わせてくれよぉ。会わせないと酷いよ?」
甘ったるい声でせかしてきた。
僕は身体は固めたまま、秋山の声を受けていた。
何だろう。秋山は途端に舐めきった態度になった。
ソーシャルハックをしたことで、気持ちが大きくなったのかもしれない。
ボクはお前の正体を知ってるんだ。ハッキングしてやったんだぜ。
すごいだろ。ボクを恐れろ。怖がれ。ボクの言うことを聞け・・・
心の声が聞こえてきそうだった。
僕はゆっくりと腕を動かし、両手でがっしりと秋山の顔を掴んだ。
ブヨブヨと嫌な感触。秋山は何が起きたのかわかっておらず、キョトンとした顔になった。
え?え?と戸惑っている。
僕は言った。
「バーカ。岩本亜佐美は僕だよ。ネカマだったんだよ!」
言い終えると同時に突き放した。
秋山はあう・・・と声を漏らして尻餅をついた。
チョコナンと道路の脇に座り込み、阿呆ヅラを晒してる。
何かを言おうとしてるが口には出てきてない。
肉塊がボテンと落っこちてるみたいだった。
僕はそれ以上何も言わず、踵を返して歩き始めた。
少しすると、後から秋山の叫び声が聞こえた。
「ふ、二人も行方不明になってるんだぞ!せ、せ、せ、責任取れよぉ!!」
二人ドコロじゃない。もっとだよ。
心でそう叫びながら、僕は、走った。
「ま、まてぇ〜。」とか細い声があがる。デブに追いつけるわけがない。
責任とれよぉ・・・・・責任とれよぉ・・・・・
声が聞こえなくなっても、僕は走ってた。
バッグが煩わしかったはずだが、そんなことを意識する余裕もなかった。
ただひたすら必死に走り、電車に乗り、小田原のこの家に、戻ってきた。
逃げ戻ったのとは意味の違う。
たった一つのことだけを考え、走ってた。
シャーリーンをこの目で確認せねば。

家に戻ると、祖母は普通の外出とでも思ってたらしく、「おかえりなさい。」と何て事無く迎えた。
僕はそれを無視し、2階へ駆け上がった。
僕が挨拶を無視するはすでに日課になっていた。
祖母は別段無視されたことなど気にせず、それ以上何も言ってこなかった。
それに比べ、僕は完全に落ち着きを失っていた。
勢いのままにドアを開けた。
母親は、眠ってた。
部屋中紙屑やらが散らかり、ノートパソコンも無造作に置いてある。
僕はドアに手をかけたまま、立ちつくしていた。
静かだった。とても静かな時間だった。
母親の寝息が聞こえてくる。
その音はすぐに静寂に溶け込む。
僕の息づかいもまた溶け込んでいった。
何もできなかった。
ベッドに横たわり寝息をたてる「シャーリーン」。
何も、言えなかった。
ゆっくりとドアを締め、自分の部屋に戻った。

頭を抱えて座り込んだ。
見えた答えが反芻してくる。
早紀とNSCの戦い。
あの頃早紀は追い詰められていた。
当然その様は「渚」も見ていたはず。
そこで取った行動は?
早紀の為に恋人まで作り上げた渚。
ずっと見守ってた渚。
早紀のピンチに黙っているわけがない。
早紀はNSCを撃退しようと策を練った。
自作自演までやった。
しかしそれはバラされてしまう。
早紀は追い詰められた。
その時だろう。「渚」が助け船を出したのは。
早紀の窮地を救うためには、どうすればいいか?
ネットを知ってる者の立場からなら、早紀よりもう一ランク上の策が取れた。
早紀の自作自演。まずはこれをホンモノにする。
早紀が演じたキャラを実在させる。
そうすれば自作自演じゃなくなる。
湖畔専用BBS。ここで早紀が演じたキャラを、他の者に演じさせれば・・・・
さらに「自作自演がバレた」という状況。
これは、「こいつは自作自演だ!」というタレ込みから始まる。
一度出された情報は撤回できない。
できないなら・・・・信憑性を低くすれば?
もっと強烈なタレ込みを乱発させ、偽タレ込みをはびこらせる、
怪しい情報を喜ぶ不埒な輩を招き入れ、一つの情報の価値を薄める。
ジャンク情報BBS。全ての情報が信用できない。例えそこに「本当の情報」があっても・・・
二つの掲示板。あとはこれを最もらしく登場させればいい。
・・・絶望クロニクル。
「早紀を守る」
それがここの、存在意義。
だがそれは活用されることは無かった。
早紀は自力で解決してしまったから。
結果、表に出ることもなく忘れ去られた。
恐らく作った本人もどうでも良くなってしまったのでは?
目的は早紀を守ること。サイト自体の存在は重要じゃない。
たまたま知ったごく一部の人間にだけ知られ、ネットを漂うハメになった。
湖畔は単なる馴れ合い掲示板になり、
ジャンクは、招き入れた不埒な輩だけが残り、今でもそいつらがくすぶってる。

今ではその面影も見えないほど変わってる。
だけと不愉快な現実だけは残ってる。
なんて嫌な真実なんだ。
シャーリーン=岩本亜佐美
そこから生み出される理論は。
いくら頭を振っても離れなかった。
泣いても、叫んでも、事実は変わらなかった。
なんでいつも最後にはこいつが。
僕らは。早紀は。みんなは。
ずっとあの女の手の上で?
踊って・・・・・あああああ・・・・・・

aaaaaa


8月11日(金) a
言うべき言葉など無い。
わかってはいたが、フラフラと足は母親の部屋に向いていた。
起きる気力もなくベッドに寝続け、ようやく身体を持ち上げたのはついさっきのことだった。

カチャリとドアを開けた。
今日も母親は一人で遊んでる。
祖母と祖父は、マトモに遊び相手などすることは無かった。
ノートパソコンさえ与えておけば大人しくなる・・・
そうして部屋で一人遊ぶことを余儀なくされていた。
毎度のこと、なにやらニコニコしならがキーボードを叩いてる。
ノンキなもんだ。
僕が入ってきても気にせず作業を続ける。
何の目的で部屋に来てしまったんだろう。
「シャーリーン」を目の前にして、僕はやることを失った。
ふと、殺したくなった。
包丁は川口弟に渡したっきりだったので、首を絞めることにした。
ユラリと背後に回った。
背後の殺気など微塵も感じず、母親はニコニコと画面を眺めてる。
何をニコニコと眺めてるんだろう。
思えば、こんなにノートパソコンをいじる姿を目にしてきても、
具体的に何をやってるのかじっくり見たことなどなかった。
首に手を回す直前、ちょっとそれを見たくなり、画面をのぞき込んだ。
僕は、小さく飛び上がった。
後ずさりして首を何度も何度も横に振る。
汗がダラダラと流れてくる。
背中がタンスにぶつかってもなお、後に下がろうと力を入れていた。
母親は背後の物音など聞こえていない。
画面をスクロールしたりして遊んでた。
なぜ。ナゼ。何故。
昨日よりも、脳味噌はフル回転していた。
なぜだ。なぜお前が・・・!!
画面に映っていたのは、「湖畔掲示板」
それはいい。これは父親のノートパソコン。
ヤツは絶望クロニクルを見てたのだから、画面にそれがあってもおかしくはない。
けど、なぜ、どうして。どうしてこの画面には。
掲示板の上部。書き込み欄と、タイトル入力欄と、メアド欄と・・・・投稿者欄。
その投稿者欄には。クッキーで記憶され、そこにあらかじめ書かれてる文字は。

投稿者 ミギワ

一番新しい書き込みも「ミギワ」のもの。
「処刑人さん、居なくなっちゃった?みんなどうしちゃったの?」
・・・・ニコニコしながらキーボードを打ってたのはコレだったのか。
現実じゃこんなにオカシイくせに、ネットじゃマトモな書き込みを・・・!!
その場にいるのが恐ろしくなり、自分の部屋に逃げてきた。
ああ、シャーリーンが。
シャーリンはずっと居たんだ。
舞い戻っていた。
記憶を無くし、自分が「シャーリーン」とも気付かずに・・・
・・・・・・・そうか。そうゆう事だったのか。
何故あんなに楽しそうにしてたのか。
どうして心の破綻した者が、平然と書き込みをできるのか。
タイピング技術は身体が覚えていても、マトモなオハナシはできないはず。
それがなんで普通にこなしているのか。
うひ。ひひひひひひひ
簡単じゃねぇか。そんなのさっき書いたじゃないか!
僕は父親に「絶望クロニクル」を教えた。
ヤツは自分のパソコンでそれを見るようになった。
あの母親を、傍らに置いて。
遊びたがってた。あの女はヤツと遊びたがってた。
しかしヤツは「絶望クロニクル」を監視する仕事が。
そこで考えた、一石二鳥の策。
絶望クロニクルで、遊べばいい。
そう考えればどうだ。湖畔の、一人忽然と姿を消したあいつの正体がわかるじゃないか!
ミギワと親しくオハナシをしてたあいつ。
「シス卿」
父親が居なくなったと同時に消えていた。
当然だ。ヤツが、「シス卿」だったんだから!
ウケケケケケケケケケケ
これが笑わずにいられるか。
交代交代で同じパソコンを使い、相手が隣にいるのにネットで会話する。
あの女は単純な機械みたいなものだ。
やり仕方さえ教えれば、すっと同じことを繰り返す。
一人楽しく書き込みに明け暮れている。
今はもう、会話する相手などいないのに。
ケケケ
おかしいよお前。

にしても何だよ。シス卿はともかくミギワって。
シス卿の方は何かのキャラの名前だろう。そんな感じがする。
「ミギワ」なんて意味不明じゃないか。
言葉の意味もわからないほど狂ってんのかよ。
ええ?シャーリーンさんよ?
クソデブに正体を暴かれ、湖畔に戻ったと思えば記憶無いし、
その上自分の名前もロクにつけれれない。
救いようがねぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇよッッッッッッッ!!!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・待てよ。

何だよこれ。
ちょっと待ってくれよ
おい。こりゃ何だよ。何なんだよ!
ミギワって・・・
え?これって・・・ええええ??
あ、いや、え?
こ・・・これ・・・
ミギワ・・・・・・
変換。
ちょっとスペースキー2回押しただけ。
考えなんかなにもない。
ただちょっと、押しただけ
漢字変換、しただけ。
それが・・・・・・
こんな・・・・・・
み・・・・・・・・

みぎわ

ミギワ

ミギワ

水際





渚は「ミギワ」とも読む。

あ、今なんか弾けた。
僕の中で何かがポコンと音をたてて壊れた。
おお・・・・・。おおおお。
おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお
おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!?????
過去が。
僕の過去が戻ってくる。
凄い勢い。走馬燈のようにサァァッと。
プチ遠藤の叫び声
壊れた川口弟
知らない顔する渡部さん
父親が目を見開いて絶命してる
母親が「お化け!」と叫ぶ
祖母と祖父がおろおろと
もっともっと遡っていく
バットを振り回す川口
僕の顔の傷に絶句する渡部さん
包丁かざしてニヤニヤする遠藤
僕は風見祐一
風見となって、川口を誘い出す
僕は荒木さん
荒木さんとなって、渡部さんを誘い出す
父親とと共に「希望の世界」を見つめる
こいつらを殺してくれ、と頼む僕
早紀の炎
燃える炎
早紀の声が聞こえる
「戻ってきて。」

ああなんだ。
さっき弾けたのはアレか。
僕か。
僕が壊れた音か。

ケケケケケケケケケケケヶヶヶヶヶヶヶ

笑い声が、遠のいていく

・・・・・・止まらない・・・・・・・・・・

・・・止まらない・・・・・・・・・・・

止まらナイ・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・

・・・・・・

・・・・

・・

・・・・・・・・・・・・・・・私のアザミが壊れました。
アザミはもう戻りません。
部屋の中でポツンと一人、私は取り残されてしまいました。
ドアが少しだけ開いています。
私はそのスキマから中を覗いてみました。
カイザー君と渡部さんが、変なことをしてます。
暗闇の中でゴソゴソと。
二人は私を助けにきてくれたんじゃないんでしょうか。
私をここから連れだしてくれるんじゃないんでしょうか。
でも少しおかしいです。
あの渡部さん。何か違うように思います。
カイザー君は何か必死になって身体を動かしています。
渡部さんがこっちを見ました。
・・・・・・・笑ってる。
渡部さん。私と目があったら、笑った。
なんで笑うのでしょう。
渡部さん、何かおかしいの?
私はとても嫌な気持ちになりました。
けど渡部さんは笑うのを止めません。
・・・渡部さん。アナタは本当に渡部さん?
私は疑問に思いました。そして確信しました。
違う。この人は渡部さんじゃない。
本当の渡部さんは、もっと無表情よ!
全て無かったことにしようとする渡部さん。
渡部さんは、私に笑いかけたりはしません。
なら、この人は誰?
ああ、何か名前が出てきそうです。
この顔。良く知ってる顔なのに。
思い出せません。
喉まで出かかってるのに。
サキ?違います。これは私の名前。
あれ?でもこの人も・・・・・
あ!思い出した!
アナタの名前は・・・・・・・・・・














虫だ。


8月12日(土) 台風
お母さんが、変なおじいさんとおばあさんに連れて行かれました。
今朝、僕がおじいちゃんに「お父さんに頼まれてたんだけど。」と
お母さんを引き取りだがってる人の話をしたからです。
おじいちゃんは喜んですぐに電話をしてました。
夕方にはもう来てました。
お母さんは泣いて嫌がりましたが、強引に行かせました。
狂ってるから仕方有りません。みんな納得済みです。
変なおばあさんは、お母さんを見ると手を合わせて拝んでました。
おじいさんは、嫌らしい手つきでお母さんを触ってました。
お母さんは泣き叫んで必死に抵抗してます。
僕は「これでいいのかな」とちょっと思い返しました。
けど、三人はすぐに行ってしまったので、今更どうしようもありません。
おじいちゃんは「これでやっと肩の荷が下りたよ。」と言ってました。
おばあちゃんが「あっちでうまくやってくれるでしょう。」と言いました。
僕もお父さんとの約束を果たして満足でした。
少し違った気もするけど、気のせいだと思います。
みんな満足。素晴らしい終焉です。
お父さんのノートパソコンが、部屋に置きっ放しになってました。
僕には自分のパソコンがあります。
使う人がいないので捨てました。携帯電話も一個だけで十分です。
捨てやすいよう、叩き壊しておきました。
とてもスッキリしました。

やるべきことはこれで全て果たしました。
だから死にます。
僕にはもう、生きる意思などありませんので。
どうせ死ぬなら、早紀と一緒の場所にしようと思います。
あの家で早紀は「希望の世界」を作りました。
ネットには「希望」がたくさん詰まってると思ったのでしょうか。
思ってたのでしょう。希望に満ちあふれた素敵な世界。
残念ながら、そこには絶望しかありませんでした。
絶望の世界です。希望なんてありません。
ネットだけでなく、現実にも。
そして、自分の中にも。
あちら側にはあるかもしれません。
早紀のじゃない、僕の「希望の世界」が。
僕の「希望」は何だろう?
もちろん、早紀です。
だから行きます。早紀の元へ。

逝かせて下さい。


8月13日(日) 明るい雨
プチ遠藤の言葉を思い出したのは、彼女に出くわした直後でした。
・・・最近になって誰か家にいる気配があって・・・
家に入るとすぐに、その荒れ具合に驚きました。
思わずバッグを落としました。中の食料がグチャリと潰れ、CDも何枚か割れる音がしました。
緊張の中にありながらも、いよいよ死ぬしかないと思いました。
無造作に上がり、居間の方へ行ってみました。
そこには、かつて無いほど狂気に帯びた、鬼の形相をした彼女が。
渡部さんが、棚の引き出しを漁ってました。必死に何かを探してます。
渡部さんは頭と左腕に包帯を巻いてました。雑に縛ってあり、赤黒い染みも幾つかあります。
なぜ、渡部さんが僕の家に?それはすぐに想像つきました。
僕は彼女に「今はおばあちゃんの家にいる。」と漏らしたことがあります。
その住所を探していたのでしょう。僕の居場所を、突き止めるために。
そんなもの、お父さんがとっくに処理してしまったことなど知らずに。
僕が声をかけるよりも早く、渡部さんは僕に気付きました。
顔をあげた瞬間、僕と目が合いました。鬼と目があった。
彼女は叫びました。

「虫!」

全てを理解するのには、この一言で十分でした。
僕を「虫」と呼んだ。「岩本君」でなく、「虫」と。
なんだ渡部さん。僕のこと覚えてたじゃないか。
やっぱり罠だったんだ。僕を陥れるため、知らないフリをしてたんだね・・・
僕と渡部さんの最終決戦。彼女は罠を張り、僕を孤独に陥れた。
その結果、僕がおばあちゃんちにいることを、自分の居場所を吐露してしまった。
一回戦は渡部さんの勝ち。続く二回戦。僕は川口弟を逆利用し、渡部さんの家に放り込んだ。
黒い染みのある包帯が、痛々しくなびいてる。二回戦は僕の勝ち。一勝一敗。
次で勝負が決まる。追撃してきた渡部さん。迎撃する、僕。
勝負の行方は・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・渡部さんの勝ちだ。
包丁を握って突進してくる渡部さんを見据え、僕は自分の負けを悟りました。
包丁は、僕が川口弟に渡したものでした。
恐ろしいほどスローモーションに見えました。顔中に皺を刻み、渡部さんは怒りの権化となっています。
頭に巻いた包帯が少しほどけ、片目を覆ってました。片目を失った川口の顔を思い出しました。
彼女は両手でしっかり包丁を握り、真っ直ぐ僕に向かってきます。
歯を食いしばり、やがて大きく口を開け、叫び、
僕を刺しに来ました。

色んな人に迷惑をかけました。多くの人を、傷つけました。
できれば早紀と一緒の死に方が良かったけど、僕にそんな贅沢は許されません。
殺されるのは当然の運命なのでしょう。僕は自ら死を望み、ここに来ました。
刺されて死ぬのも悪くない。僕の身体には刺し傷があります。
その傷では死には至りませんでした。今度こそうまく、死ねるかな・・・
僕は渡部さんの包丁を迎え入れました。これまでのこと。全てにケリをつけるために。
両手を広げ、この身をさらしました。胸を張ってました。空を、見上げてました。
何十回も空を見たけど、今日はより高いところが見えました。
天井の向こう。雨降る雲の、それより向こう。行こう。早紀の待つ、空の世界へ。
・・・希望の世界へ。
僕の顔はとても穏やかになっていたと思います。
信じられないくらい優しい気持ちになれました。
人間らしく、なれました。僕はもう虫じゃない。
救われました。



・・・・・ああ。それがなぜ。どうしてこうなるのでしょうか。
また虫に戻れと言うのでしょうか。虫のまま、生き続けろと言うのでしょうか。
僕に死ぬなと言うのですか?答えて下さい。渡部さん!

包丁が僕のお腹に刺さる直前でした。
軽く先端が押しつけられ、少しでも力を入れたら、そのまま刺さる。
なのに彼女は・・・渡部さんは・・・
包丁を止めました。
その顔はもう、鬼の顔ではありませんでした。ゆっくりと刃を引っ込めました。
死を覚悟していた僕は戸惑いました。
彼女は、とても寂しそうな顔をしてました。憑き物が落ちたように。怒りは全く感じられませんでした。
悲しそうな。今にも泣きそうな顔。大切なモノを壊してしまった子供のように、目を潤ませて。
一筋の涙が流れました。頬を伝い、滴がポタンと落ていきます。
僕の顔を見ました。僕は何も言えず、涙を流す渡部さんを見てました。
見つめ合いました。お互い何も言えず。動けず。
長い沈黙です。
先に動いたの渡部さんでした。またゆっくりと腕を動かしました。
包丁をくるっと回し、刃を反対側に向けて・・・・
クスリと笑いました。イタズラっぽく、可愛らしい笑顔。
楽しそうに笑いました。優しく、微笑んでいました。

そして刺しました。自分のお腹を。

いつか見たような場面です。
早紀が自分のお腹を刺した、あの日記のシーン?
そうだ。そこだ。それを僕は、逆の立場で見ている。
仰向けになって倒れる渡部さん。赤い血が、宙に舞いました。
僕は彼女に駆け寄りました。身を屈め、迷わず僕は・・・・
包丁を抜き取り、傷を服で押さえつけました。
血が止まらない。救急車を呼ばなければ。
僕は立ち上がり、電話機へ。
この家の電話はまだ使えるか?受話器を取ると、ツーツーと音が鳴りました。
使える。119番を。早く呼ばなきゃ。渡部さんを助けなきゃ!
・・・・・・・・・・なぜ?
疑問が頭をよぎりました。
無意識の内に身体が動いてましたが、僕はなぜこんなことをしたんでしょうか。
渡部さんの死は、望んでいたはず。なのになんで助けるんだろう。
受話器を持ったまま、僕は決断を迫られました。
渡部さんは、このまま放っておいたら死ぬでしょう。
僕や早紀がお腹を刺させても死ななかったのは、やるべき処置をしたからです。
彼女がなぜこんな真似をしたのかわかりません。
あんなに、僕を殺したがってたのに。僕らは憎しみ合ってたのに。
短くうめき声をあげる渡部さん。
痛みに顔を歪めてはいるけど、口元は笑ってる。
渡部さん。どうして。どうしてこんなことを・・・・・・・・・・
・・・・・・・これは・・・・・・・・・・・待てよ・・・・・・・・・・・
同じだ。あの時のお母さんも、同じ疑問を抱いたはず。
自らの腹にナイフを突き刺した早紀。その理由は・・・・
渡部さん、まさか君も・・・・・・・・・・・・・・あ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・いや・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・君は・・・・・・・・・・・・・・?
僕は救急車を呼びました。
ハッキリとこの家の住所を告げ、僕の名前も告げました。
彼らが来たら、全てを話すつもりでいます。何も隠さず、僕らの因縁、全てを。
事件になるでしょう。それでも構いません。もう僕らだけで抱えるのはよそう。
二人で罪を、償おう。
彼らが到着するまで、僕は日記を書くことにしました。
食料やCDジャケットは壊れましたが、そのおかげでノートパソコンは無事でした。
だからこうして、日記を書けています。これが最後になるでしょう。
明日の僕は、どこにいるのかわかりません。日記を書ける状況にはいないでしょう。
今度はもう、逃げないから。

彼女に話しかけました。息を荒げ、助けを待つ彼女に。

「早紀。」

彼女は少し顔をこっちに向けました。そして弱々しく呟きました。

「私は、美希よ。」

そうか。そうだったね。
けど関係ないよ。僕は君の中に、早紀を見たんだから。
早紀は僕の希望・・・・それが、渡部さんの中に。
たった今気付いたよ。
お互い憎む対象だった。だけどそれは、孤独より遙かにマシだった。
孤独の罠に陥った時、僕はとても寂しい思いをした。
生きてる心地がしなかったんだ。自分の存在が、消えてしまったようで。
だれでもいい。僕のことを、覚えていて欲しかった。
渡部さん。これだけ長くやってきて、残ったのは君だけだ。
身内じゃない。他人で、だ。
今じゃ君だけが、僕のことを覚えてくれている。
君が死んでしまったら、僕を、「虫」を知ってる人がいなくなる。
好意を望むのは無理だろうね。だから憎んでくれてていい。
それでもいいから、僕の事を忘れないで。
死んではいけない・・・!

「美希ってね。『美しい希望』と書くの。」

か細い声で囁きました。そして少し、笑いました。
クスクスと楽しそうに笑っています。
無理しちゃだめだよ。彼らが来るまで、ゆっくり休むんだ。
それでも彼女は笑い続けました。クスクスと、楽しくそうに。寂しそうに。
やがて声を上げて笑うようになりました。アハハハと、とても明るい笑顔になって。
大きな声を上げようとしても、力が入らないようです。
声は小さなままです。でも、頑張ってる。
小さいけど、精一杯笑ってます。

「私が『希望』だって・・・・・・しかも、『美しい』!」

アハハハハハハハ・・・
それはどこか自嘲じみた響きがありました。
僕も一緒になって笑いました。二人の笑い声が、部屋中に響きます。
愚かな行為を繰り返してきた二人の笑い声。
幕を下ろす、最後の笑い声。
いつまでも響きます。虚しく響きます。
いつまでも、いつまでも

ありがとう。僕は彼女に言いました。
何に対しての「ありがとう」だろう。
刺さないでくれてありがとう?それとも、憎んでくれてありがとう?
いや違う。関わってくれて、ありがとう。
僕は生きてみるよ。「虫」であっても、構わない。
だからお願いします。もう少しだけ、僕のことを覚えていて下さい。
憎んでいて下さい。・・・忘れないで下さい。
そうすれば僕も、生きられるから。
生き続けて下さい。

残ってるのは、絶望だけかもしれません。
望むことすら許されない。無の世界かもしれません。
だけど僕は探します。僕はきっと見つけます。
光は君の中にある。
渡部『美希』

貴女は僕の、希望です。




「希望の世界」
−完−


「狭間の世界」
 序章


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