「解放」-7

4月29日(日) Raindrops Keep Fallin' On My Head
私は台所から包丁を持ち出し、ゆっくりと父親の眠る部屋へ向かいました。
足音は立てないようにしました。つい先週にも同じことをしようとしたのであっちも警戒してるはずです。
ただし、今の私は熱にうなされていない。すべて慎重にことを運ぶことができる。
息づかいから服の擦れる音まで。一つ一つに気を使いました。
いよいよ決着をつける時。感情は失ってしまったけど身体はちゃんと反応する。
心臓の鼓動が早まってきました。
かすかに手が震えてるのに気付きました。
襖を開ける。真っ暗で何も見えない。
目が慣れてきてぼんやりと家具や人の顔の輪郭が浮かんでくる。
布団が定期的に上下する。心臓の位置を目測。あそこら辺ね。
横に膝をつく。包丁を振り上げる。余計なことは考えない。
失敗したらまた刺せばいいだけの話。
抵抗されても大丈夫。首を絞めるのと違って、今の私は圧倒的な力を持ってる。
包丁の刃を下に向けて、大きく息を吸う。
手に力を入れる。
最後に生きてる時の顔を目に焼き付けておこうと、横目で父親の顔を見ました。
私はその場で固まりました。
そこに眠ってたのは、亮平でした。
思わず隣も見ました。母親が眠ってるはずなのに。早紀が眠ってます。
二人ともあどけない顔をしてかわいらしい寝息を立てている。
まだ運命などとは縁のない、何にも束縛されてない安らかな顔。
包丁を元に位置に戻した時には、私は全てを悟っていました。
子供達が気付かせてくれたんです。危うく選択を誤るところでした。
例え相手が誰であっても一度殺したら次へ次へと繋がってしまう。
血みどろの運命です。恨みは恨みを呼び、恨みは狂気に至る。
殺すのは運命の断絶でなく継続を意味する。
それに気づいたから、私の選択は「殺さない」
ただし、呪われた運命には決着をつけます。
思えば私は恨みに束縛されてました。
そしてそれが、子供達へも影響してしまった。
もうたくさんです。これ以上続けてはいけません。
父を殺さなくても終わらせることはできる。実に単純な答えです。
父を許す
こんな簡単なことをどうしてやらまいままでいたんでしょう。
誰かが恨みを断ちきらないといつまでも続いてしまいます。
だから私のところで終わりにしました。
天井を仰ぎ、目をつぶって頭の中を空っぽにしました。
呼吸をするたびに恨みの感情が抜けていきます。
そうしていくうちに、悲惨な記憶を思い出しても「過去は過去にすぎない」と思えるようになりました。
いまこの家にいるのは、私と、哀れな老人二人。これでいいでしょ?タケシ君。
唯一残った感情が消えてしまうと、私は何も感じなくなりました。
けどそれで構いません。私はここで狂人として暮らします。
感情を失った人間が正気と言えるかわかりませんが、
父と母は私が自分を取り戻したことに気付いてません。このまま生き続けるつもりです。
窓から外を眺めました。外は雨が降ってて日の光を浴びることはできません。
それもいいでしょう。これからの私の人生そのものです。
暗い空を眺めてると、幼い私の子供達が雲の向こうに立ってるのが見えました。
ごめんね。辛い目にばかり会わせてしまって。
早紀のところにはお父さんも来てる?
亮平はちゃんとご飯を食べてる?
二人は笑って頷きました。
私も笑顔で応えようとしまいたが、顔の筋肉が言うことを聞いてくれませんでした。
二人の顔が急に曇りました。心配そうに私を見てる。
ダメ。あの子たちに心配させてはいけない。
私は最後の言葉を語りかけました。
聞いて。あなたたちはね。もう家のことは考えないでいいのよ。
呪われた運命からは、今日限りで解放されたから。
思い出して。子供の頃を。素直に生きてたあの頃を。
全ては始まりに戻ったから。終わりのあとには必ず新しい始まりがあります。
そんな所に立ってないで自分の道を進みなさい。私はここで見てるから。
何を気にしてるの?大丈夫。私は何の心配もいらないわ。
この家には私を養ってくれる人がいるわ。食事も出してくれるし私の部屋まで用意してくれてるのよ。
ね?何の問題もないでしょ?
だからほら。自分のことだけ考えて。
誰も邪魔なんてしないから。もう自分の進む道のことだけを考えていいのよ。
そう、そうやって顔を上げて。前へ。あとはその足を動かすだけ。
行きなさい。思った通りの方向に。
辛かった過去にはとらわれないで・・・・振り向かないで。
あなたたちは、自由よ!

狭間の世界−完−

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