絶望世界 もうひとつの僕日記

第1部<内界編>
第4章


第13週

2月12日(月) 晴れ
バイトをさぼった。
コンビニに二人が来るかも知れないと思うととてもじゃないけど行けなかった。
電話は鳴ったけど取らなかった。
僕は今風邪を引いて寝てる。寝てるから電話はとれない。そう思ってくれ。
テレビを見ても漫画を読んでもどれも頭に入らなかった。
罪悪感に包まれたまま一日を無駄に過ごした。
何も考えたくない。


2月13日(火) 曇り
またバイトを風邪だと言ってサボった。
家ではやることがないのでネットでもやろうかと思った。
Kは逃げた。まだやるべきことはたくさん残ってる。
でも僕はパソコンの電源をつける気になれなかった。
その理由はわかってる。もうわかってる。
結局のところ、僕は美希ちゃんと一緒に何かをしたかっただけだったんだ。
ネットはただの媒介に過ぎない。
処刑人だって彼女があそこまで熱くならなきゃ僕も興味がわかなかった。
メル友を始めたのだって恋人が欲しかったからだ。
それだって奥田が美希ちゃんを一緒にいるのを見て羨ましく思ったからだった。
今では僕の行動の元となるあらゆる動機が失われている。
何もしたくない。


2月14日(水) 晴れ
電話には出なきゃいけない。それはわかってる。
コンビニの店長からの電話には出れる。
流行りのインフルエンザにかかったらまだ復帰はできないと言っておいた。
奥田。美希ちゃん。二人からの電話は何度も無視してしまった。
留守電には「大丈夫かー?風邪は寝るのが一番だぞー。」と
何も知らない奥田の声が入っていた。脳味噌に突き刺さってくる。
美希ちゃんの声まで入ってる。「チョコあげようと思ったけど無理っぽいね。お大事にねー。」と。
そう言えば今日はバレンタインだったか。これまで一度も縁のないイベントだから関係ないか。
それにしても美希ちゃん。あの日のことは全く気にしてないみたいだった。
信じられない。よくも同じ態度でいられる。
僕ならもし今奥田に会ったら、目を合わすことはできないだろう。
それに美希ちゃんにも会えない。何を話せばいいのかわからない。
ほんの数日前まで気兼ねなく話せる親友だったのに。
たった一つの出来事を挟んだだけで、僕は何もできなくなってしまった。
腑抜けだ。


2月15日(木) 曇り
これ以上風邪だと言い訳するのも辛くなってきた。
いい加減顔を合わせないと逆に怪しく思われる。
体は大丈夫なんだから。あとは服を着替えて髪をとかし、そこのドアから出るだけ。
あのことに関して僕は悪くないことはもう納得済みだ。
家にとどまる理由なんて無いだろ?バイトにも行かなきゃ生活費が無くなるぞ?
ありったけの力を手に足に込めて奮起した。外へ出るんだ・・・
駄目だった。体が動いてくれない。外に出ようとしてくれない。
散々悶えたあげくにようやく行動を起こせたのは電話だけだった。
奥田が「もう大丈夫なのか?」と聞いてくる。
大丈夫。体は問題無いんだ。
そう答えようとしたけど、口から出たのは「まだちょっと。完治はまだっぽい。」という嘘だった。
「そうか。ま、ゆっくり治せや。ネットのやつも焦ることないだろ。」
ネットのことなんてすっかり忘れてた。問題はほとんど未解決のままだった。
そんなことを考えてると、突然美希ちゃんが電話に出た。
「亮平君、大丈夫ー?」と明るい声が。
僕は額から汗が流れて来るほど体が熱くなった。
反射的に「うん。なんとかね。」と答えることができたけど、大丈夫なわけなかった。
けど話はすぐに終わり、ギクシャクしたものが全く感じられなかった。
むしろ拍子抜けしたくらいだ。僕の体だけが勝手に熱くなり、電話は切られた。
なんであんなに何も気にいないでいられる?
僕の中でまた言い訳根性がうずき始めた。
やっぱりあれは、本当に遊びのつもりだったんだろうか。次から次へと納得できる理由を作り上げていった。
奥田が仕事で構ってくれなかったから。ちょっとした反抗のつもりで浮気を。
じゃぁ僕が悪くないってのは正しいんだな?
悪いのは誘惑してきた彼女の方。今日の態度でそれが証明されたってことでいいんだな?
僕は悪くないぞ。
悪くない。


2月16日(金) 曇り
二人が見舞いに来た。突然のことで心臓が止まりそうになった。
「風邪も治りかけてるんだろ?酒はから体にいいんだよ。飲もう。」
奥田の気遣いには恐れ入る。でもあいつは知らない。
「小さな親切、大きなお世話。」

僕のせいで随分と遅れたけど、やっと奥田の免許皆伝打ち上げが実現した。
ついでに「風美さんネカマだったのね残念打ち上げ」も同時開催。
「俺もやっとネットできる時間ができるよー。仕事の合間にやるからな。」と楽しそうだった。
僕はこいつの「小さな親切」のおかげで実に息の詰まる思いをしてたというのに。
美希ちゃんは実際に会っても普段通り接してくれた。「あのオフ会は楽しかったねー。」などと。
オフ会よりもその次の日に起きたことの方がはるかに重要だと言うのに。
僕も開き直ろうと思ったけど、やっぱり全然楽しめなかった。
人間、そんな簡単に気持ちを切り替えられれば苦労しない。
ぎこちなく笑うのも全部風邪を引いてるせいにして、とにかく耐え続けた。
二人は台風のごとく、サッと来てサッと飲んでサッと帰っていった。
泊まり込まれずに済んだ。一応病人に対する最低限の気遣いはしてくれたようだ。
やっと終わった。
風邪は嘘だとしても酒はリアルに体に入ってる。飲み過ぎて頭が痛くなった。
頭痛と共に言いようの無い感情がわいてきた。
なんでそんな風に思ったのかわからない。酔っぱらったおかげで頭がおかしくなってたのかもしれない。
でも僕は確かに感じてた。美希ちゃんがあのことについて何も触れないことに、寂しさを・・
酒のせいだ。


2月17日(土) 晴れ
美希ちゃんは一人でやってきた。
ドアを開けた時、そこに立ってるのが一瞬誰だかわからなかった。
美人になってる。普段は化粧なんて絶対つけなかったのに。化粧一つでこんなにも人が変わるなんて。
なぜ美希ちゃんは一人でやってきて、しかも化粧なんかしてたのか?
そんなのは愚問だった。美希ちゃんは呆然としてる僕に目を潤ませながらこう言った。
「本気だったのよ。」あれ以来数日間溜まってた鬱憤が一気に爆発した。
お互い言葉を喋る必要が無いくらい意志が通い合っていた。
僕は彼女が好きだった。それは随分前からわかってたことだった。
問題は、彼女も僕を好きだったということ。
奥田の手前、それを僕に伝えることはできなかった。
僕は自分の感情を伝えてしまったら、僕らの関係が崩壊するのがわかってた。
だから何も言わずに感情を押さえ込んでたけど、決して振り切れることはなかった。
ネットにあそこまで熱くなったのも、美希ちゃんと一緒に話すのが楽しかったからだ。
それは美希ちゃんの方も同じだった。今日それがハッキリした。
彼女が本音を漏らしたあの瞬間から、僕らの関係はしかるべき方向に流れていった。
今日はまだ二回目のだったけど、随分前からの恋人だったみたいに実にしっくり来てた。
端から見たらこれ以上ないくらいお似合いカップルに見えると思う。
決定的な問題が一つ、重くのしかかっているけれど。
美希ちゃんが言った。「徹君、どうしよう。」
僕は答えた。「わからない。けど、僕らのことは言わない方がいいと思う。」
彼女は頷いた。


2月18日(日) 快晴
もう彼女から誘ってきたんだなんて馬鹿な考えは消え去った。
僕らは真剣にお互いのことが好きだということを知ったから。
バイトにも復帰。彼女の心の内がわかった今、ふさぎ込んでてもしょうがない。
久々に外に出たら体中から埃がわんさか舞った。
叩けば叩くほど出てきてこれまで家に篭もってたツケを一気に払った。
新しい空気を吸い込むと体の中が浄化されてる気がした。
コンビニに向かうまで僕は外の世界を堪能した。
大丈夫。僕の心はまだ荒み切ってない。
致命的な問題を抱えてるとは思えないほど爽やかな気分だった。
これからは全力で問題の解決方法を考えなきゃいけないってのに。
奥田。申し訳ない。 お前は頑張ってる。美希ちゃんとの生活を真剣に考えてる。
けど、美希ちゃんにはそれが辛いらしいんだよ。
彼女には僕のようなダメ人間じゃないと釣り合わないんだよ。
それをわかってくれ・・



第14週
2月19日(月)
奥田がネットの話をしたがってる。
これから修行も終わったからこれから前よりは早く帰れるそうだ。
その時間を利用して僕らの仲間に入りたいらしい。
おかげで僕はバイト帰りにわざわざ奥田家に寄らなければならなかった。
「で、作戦はどこまで進んでるんだよ。」と意気込んでた。
美希ちゃんとは例によって何事も無いフリをして接してる。
僕も相変わらずの愛想笑いでこれまでの説明をした。
処刑人の手下・Kの誘い出し作戦。
掲示板に名を連ねた謎の三人。
僕の元メル友との関係ある疑い。
今はKこと「ネカマ」風美に逃げられたところで止まってる。
「じゃぁこれからそのネカマ野郎を追わなきゃいけないな。」
奥田の言う通りだ。電話番号、メールアドレス、まだまだ追跡する材料はある。けど。
僕は気が乗らない。


2月20日(火) 晴れ
本当に毎晩かり出されることになった。
僕も美希ちゃんも奥田から見れば「ネットに夢中」なわけだから断るわけにはいかない。
気乗りのしない作戦会議に参加させられるのはあまり楽しくはなかった。
処刑人追跡は広げればまだまだ面白くなりそうな要素はある。
でも致命的なのは・・・悪いけど、奥田のネタはつまらないってことだ。
これまでの美希ちゃんと僕が考えついたような作戦が優秀過ぎたのかもしれない。
奥田は見当違いなことばかり言う。
「電話番号わかるなら逆探知もできるよな。」
「前にハッキングソフト探しただろ。あれもう一回探してみようぜ。」
「風美ってのはネカマだろ。それをネタに脅してみるってのはどうだ。」
どれもこれもイマイチ君なネタばかり。
一度奥田がトイレに行った時に美希ちゃんと目が合った。
言葉は交わさなかったけど彼女も苦笑いしてた。
奥田は戻ってくるとまた実現不可能な妄想作戦を展開し始めた。
これがずっと続くのか。


2月21日(水) 晴れ
三日目にしてもうウンザリしてきた。
奥田は次から次へと面白くもない作戦を提案する。
「電話帳であの実名の三人の名前調べてみたんだけどさ。東京のには載ってないだよ。」
「美希に教えてもらった風美の電話番号な。非通知でかけてみたけど出なかった。」
なかなか積極的な行動に出てるようだけど、残念ながら空回りしてる。
タチの悪いことに、奥田はこうした作戦会議を開くのを楽しいと感じてるらしい。
僕らはとっくに興味を失ってるというのに。一人だけしか楽しんでないことになぜ気づかないんだ?
挙げ句の果てに僕らに「お前らも新しい作戦考えてくれよ。」と怒り始めた。
いい加減にして欲しい。僕は露骨に嫌な顔をしてやった。
奥田は笑って「そんな顔すんなよー。」と冗談に受け取ってくれたけど、僕は本気で嫌だった。
美希ちゃんに睨まれたので僕も笑って「悪い悪い。」と猿芝居で誤魔化した。
これからもこうやって騙し騙しやるしかないのか。
興味も無いこに楽しいフリして参加する。
勘弁してくれよ。


2月22日(木) 晴れ
奥田は本格的に店に雇われてるけど、美希ちゃんはまだバイト扱いのまま。
仕事する日よりお休みの日が多いのは当然のこと。
そして僕もフリーター。休みは自由に決められる。
今日のようにお互いの休日を合わせるのは造作の無いことだった。
表向きは作戦会議。中を覗けば単なる密会。
小春日和で外も暖かかくなってきたというのに真っ昼間から狂ったように情事にふけった。
美希ちゃんは僕と二人で会うときには化粧をしてくれる。
化粧すると別人みたいに綺麗に見える、と冗談のつもりで言ったら美希ちゃんは素で喜んでくれた。
「徹君の前ではやっったこと無いのよ。」奥田が知らない彼女の一面を僕は知ってる。
あいつより優位に立ってるみたいで嬉しかった。
ことが終わると奥田をどうするか話し合った。とりあえずお互い奥田のダメ作戦は苦痛に感じてる。
「けど、私たちが修行中の徹君をのけ者にしてたせいよね。やっと仲間に入れるようになったのに
今更『もう処刑人なんてどうでもいいです』ってのはかわいそうよ。」
言えてる。散々ネットの楽しさを煽ったのは僕らの方だ。
最初はちゃんと三人でやってたし。社会人修行の為に戦線を離脱してただけに過ぎない。
奥田にしてみれば待ちに待った復帰だろう。仕方ない。
もう少し付き合うか。


2月23日(金) 晴れ
今日も今日とて作戦会議。
奥田先生のお偉い講義を右耳から左耳へ通行させる作業が続いた。
「昨日はどうだった?なんかいい作戦思いついたか?」と聞かれた時はドキリとした。
美希ちゃんは「全然ダメ。」とフォローしてくれたおかげで僕の冷や汗は気づかれなかった。
こうして奥田を目の前にすると密会のやましさが膨らんでくる。
隠すのに必死でネットの作戦なんて考えられるわけが無かった。
奥田は奥田で「風美にさぁ。電話番号公開するって脅そうぜ。」と馬鹿な作戦を提案してた。
そりゃ脅迫だ。思いっきり犯罪行為じゃないか。
僕は反対したけど「ちょっとくらい危ない橋渡った方が楽しいじゃん。」とやる気だった。
確かに悪いことほど楽しい。けど僕と美希ちゃんは犯罪には決して手を出さなかった。
あくまで知能で打ち勝ってきた。(勝ってないけど)美希ちゃん僕と同意見で、奥田の作戦に反対してくれた。
「犯罪はダメだよ。訴えられちゃう。」二人の反対は聞き入られなかった。
「なんだよお前ら弱気だな。大丈夫大丈夫。ネカマだって詐欺みたいなもんじゃないか・・。」
あまりの屁理屈発言に僕らはもう呆れるしかなかった。
しかも明日は奥田も休みだから一日中作戦会議ができるなどと言ってる。
僕も美希ちゃんもバイトは休み。断れるわけがなかった。
いい加減にして欲しい。


2月24日(土) 雨
鬼の一日作戦会議。我慢などできる分けなかった。
我慢の限界を超えたのは、意外にも美希ちゃんの方が先だった。
やたら風美への脅迫文を考える奥田に、美希ちゃんが言った。
「そんな真似止めようよ。犯罪だって言ったじゃない。」
その言い方が気にくわなかったのか、奥田は「なんだよ。別にいいじゃん。」と喰ってかかってきた。
一度言い争いの火蓋が切られるともの凄い勢いで燃えていった。

「楽しいじゃねぇかよ。」
「そんなの全然楽しくない。」
「ならお前がもっと面白いこと考えればいいだろ。」
「犯罪はダメって言ってるだけじゃない。面白い面白くないって話じゃないのよ!」
「なんだその言い草。まだやってねぇのに。もう犯罪者扱いかよ!」
「やるつもりなんでしょ?同じじゃない。未遂も立派な犯罪よ。」
「脅迫に未遂なんてあんのかよ。」
「そーゆーこと言ってるんじゃないのよ!わかんないの?気持ちの問題よ。」
「気持ち?なんだよそれ。悪いこと思いついたのがいけないってのか?」
「わかってんじゃない。」
「ならお前これまで生きてきて一度も犯罪犯したことないのか?悪いこと思ったことも無いのか?」
「うわ。屁理屈。ねぇ。なんでそんな嫌な言い方するの?」
「悪かったな。どうせ俺は口が悪いよ。お前みたいに客に爽やかな笑顔なんて振りまけないよ。」
「なんでお店の話が出てくるのよ!」
「俺は暇じゃないからね。短絡的な作戦しか思いつかないんだよ。悪いね。」
「ちょっとやめて。私が暇みたいな言い方じゃない。」
「わかってんじゃん。」
「ひっどーい!!本気で言ってるの?」
「はぁ?俺は事実を述べただけだよ!」

・・・・二人がここまで熱くなるのを見るのは初めてだった。
僕は居づらくなって「帰った方がいいかな。」と呟いたのに二人は全く聞いてなかった。
口げんかはますます激しくなっていく。
情けないようだけど、仲裁に入る勇気もなく僕はこっそり帰ってしまった。
それから電話も何もない。美希ちゃんから何か連絡あるかと思ったのに。
二人がどうなったのか未だ分からないでいる。
ただ僕は漠然と考えていた。
あの二人、もうダメかもしれない。


2月25日(日) 曇り
いつもの作戦会議の時間、二人そろって僕の家に「謝罪」に来た。
奥田は僕が気を悪くしてないか気にしてた。
そうだった。こいつは口は悪いが中は気弱な奴だったんだ。(だから僕と仲良くなった)
昨日は変なとこ見せちゃってごめんね、と美希ちゃんもしおらしくなってた。
一応仲直りはしたらしい。でもどう見ても二人はギクシャクしていた。
具体的にあれからどうなったのかは聞けなかった。
二人とも怪我をしてないところを見たら僕も少し安心した。
バイト中もずっと気になってた。何しろ美希ちゃんが奥田に敵意を示しようになったのには僕にも責任があるから。
僕らの関係が無かったら彼女だって喧嘩しようとは思わなかったかもしれない。
二人を家に上げようとしたら、美希ちゃんはすんなり靴を脱いだけど
奥田はすぐに帰るつもりだったらしく少しまごついてた。
それでも美希ちゃんがさっさとこたつに入ってしまうのを見届けると
観念したらしく自分も当たり前の様な顔をして靴を脱ぎ始めた。
話してる時も無理に取り繕ってるのが見え見えで、こたつに座る位置を迷ったりもしてた。
奥田のたどたどしい態度を見て僕は思った。こいつもそんな立派な人間じゃない。
あんなに喧嘩したのに、次の日にはちゃんと仲直りしようとしてる。
奥田も彼女を失いたくないんだ。
二人が帰る時、僕は見送りに出てずっと二人の後ろ姿を見つめてた。
以前は老夫婦のような感じだったけど今やそんな仲の良さは見てとれなかった。
お互い距離を取って、顔もあわせず。会話もせず。
奥田のアパートまで歩いて十五分ってとこか。その間ずっとあの調子なのか。
・・・終わってる。



第15週
2月26日(月) 晴れ
奥田に相談を受けた。
毎晩の作戦会議があやふやなまま終わったと思った矢先のことだった。
ゆっくりテレビを見てるところに携帯が鳴った。

「今いいか?」といつも通りの少し高圧的な話し方に戻ってる。
「どうしたんだよ。」
「いや、ちょっと相談したいことがあってな。」
「なんだよ相談なんて。」
「まぁ、お前も分かってると思うけど・・美希のことなんだけど。」
「・・ああ。」

相談と聞いた時点ですぐに察しはついていた。でも僕はその相談には乗りたくなかった。
僕と美希ちゃんの関係がバレる可能性もある。ひょっとしたらもう気付いてるのか?
一瞬のうちに最悪の事態まで想像が広がって冷や汗まで出てきた。
でも奥田の相談は、僕の心配などと全く別の方向だった。
「あいつとはまだ完全に仲直りしてないんだよ。なぁ亮平。どうしたら元に戻せるかな・・。」
あんなに致命的な喧嘩までしたのに。こいつはまだ関係が修復できると思ってる。
僕は呆れてしまって話も真剣に聞かなかった。適当に相槌打ってただけ。
僕にどうしろと言うんだ。


2月27日(火) 晴れ
僕の人生において親友と呼べるのは奥田だけだ。
横浜にいた頃の友達などはもう連絡すらとってない。
自分の家に友人を招く気になったのは奥田が初めてだった。
同じ波長。ダメ人間同士。変わり始めたのは美希ちゃんと出会ってからだ。
メル友なんて実際に会ってもロクなもんじゃない、ネットの奴らなんざ信用できない、
散々文句言ってたのがいつの間にはネット肯定派に変わってた。
あれは去年の今頃だったかもしれない。美希ちゃんを「彼女」として紹介されたのは。
それから奥田は徐々に生き方に対して真剣になっていった。
二人が同棲を始めた時ハッキリと分かった。奥田は間違いなく真面目になろうとしている。
僕だけが取り残されたと思ってた。けどそれは正確じゃなかった。
美希ちゃんもまた、取り残されたんだ。
彼女が好きだったのは「ダメ人間」の奥田。今の奥田は、違う。
幸せになろうと努力した結果、逆に嫌われてしまうなんて。
皮肉な話だけど、これが現実だ。
奥田。二人の仲はもう戻らない。お前が変わったからだよ。
しきりに美希ちゃんのぎこちない態度を説明する親友に向かって僕はそう言ってやりたかった。
親友として言ってやるべきなのかもしれなかった。
言えなかった。


2月28日(水) 曇り
奥田が美希ちゃんとの仲を修復しようと努力すれば、
僕と美希ちゃんが二人きりで会う機会が無くなるのは必然だった。
段々不満になってきた。奥田はまだ諦めてないのか?
作戦会議の名目で三人集まる機会が無くなってしまった。
奥田の相談も電話のみ。頼むから美希ちゃんの声も聞かせてくれ。
何度もこっそり彼女に電話しようかと携帯を握ったけど
そのたびに奥田に探られるんじゃないかと不安になってやめてしまう。
電話はあっちの状況がわからないからやりずらい。
僕がこうして悩んでるというのに奴は平然と「相談」してくるのが不快感を倍増させる。
「ネットのやつもさ。こっそり進めてるんだよ。」
「俺の作戦が成功したら美希も喜んでくれるよな。」
往生際が悪い。いっそのこと「無駄なことはよせ。」と言ってやろうか。
キッパリ諦めさせた方が幸せかもしれない。
傷口が広がらないうちにサッサと別れた方がいい。
同棲までしてから別れるのは辛いだろうけど、このまま続くわけがない。
仮に何かの拍子で二人の仲が戻ることがあったら・・
冗談じゃない。
それは僕が、許せない。


3月1日(木) 雨
仲直りに必死になってるのを見ると僕の方が焦ってしまう。
僕らがないがしろにしたネットの問題を奥田は一人で解決するつもりだ。
大丈夫だとは思ってももしかしたらという気持ちはぬぐい去れない。
僕では辿りつかなかった処刑人。奥田が見事に正体を突き止めたら?
美希ちゃんの心を取り戻すには十分な魅力だろうか。
彼女はまだ、ネットに興味を抱いてるだろうか。
気になる。本人に直接聞いてみたい。
何か理由をつけて美希ちゃんと二人すことはできないか?
それに関して奥田は憎いほどスキを見せない。
「仕事の時間も全部美希に合わせるようにしたんだよ。お互いじっくり話せるしさ。」
僕への嫌がらせ以外何物でもない。
もしかして奥田は全てを知ってて敢えてそんなことをしてるのじゃないか、とすら思えてくる。
できるだけ僕と美希ちゃんを会わせないように、話をさせないように。
・・なんかそうとしか思えなくなってきた。
ヤバイぞ。僕もこのまま余裕ぶってる場合じゃない。
元々僕に自信なんて無いんだ。自分に魅力があるとは思えない。
美希ちゃんが僕に惚れてくれたのも一時の気の迷いだったりしたら!
何か何か手を打たないと。


3月2日(金) 晴れ
奥田より先にネットの問題を解決してやろうと思ったけど僕にそんな良い作戦なんか思いつく分けなかった。
三人の中で一番優秀なのは美希ちゃんだった。僕にできるわけがない!
他に奥田の優位に立てるもの。美希ちゃんの心を奪うもの。無い。
僕の支えは美希ちゃんの「亮平君の方がいい。」という言葉だけ。
僕自身に誇れるものは何もない。ダメ人間という共通点くらいか?
考えれば考えるほどこのままでは僕の方が不利なことに気がついた。
前は自分のダメさを認めてたから奥田に彼女がいようとあまり嫉妬はしなかった。
今は違う。彼女を取られたくない。彼女は特別だ。ダメさを認めてくれる人なんて他にいない。
恐らくこれからの人生にも現れないだろう。美希ちゃんを逃したら、僕に彼女は一生できない。
他に女の子はたくさんいるだなんて考えるのは無理だ。
美希ちゃんは一人しかいない。僕を好きになってくれる人は彼女だけ。
奥田なんてマトモな人間なんだかたあっちこそ他の女を捜すべきだ。
奴は僕の一生で一度のチャンスを踏みにじるつもりだ。ダメ人間に舞い降りた小さな幸せをむしり取るのか!
僕は嫌だぞ。彼女は絶対渡さない。奥田の彼女だったのは昔の話だ。今は僕のもんだ。
僕のもんだ僕のもんだ僕のもんだ僕のもんだ僕のもんだ僕のもんだ僕のもんだ。
美希ちゃんは僕の女だ。


3月3日(土) 晴れ
バイトなんかに行ってる場合じゃない。
家にいてどうしたものかと散々悩んだ。じっとしてると不安になって皿洗いをした。
朝食にパンをのせた小皿を卵焼きの大皿。コップが一個。
すぐに洗い終えてしまいそうだったのでゴシゴシ丹念に洗って時間を持たせた。
水を切って布巾で拭いて棚に片づけても何も思いついていなかった。
手持ちぶさたになったので部屋の片づけをした。
こたつの横に敷きっぱなしの布団を久々に畳んで押入に突っ込んだ。
万年床が無くなると部屋が少し広くなった気がした。
いつもはちゃんと朝になったらちゃんと片づけてたのに。
なんで敷きっぱなしにしてたんだろうと思った美希ちゃんと真っ昼間から
寝転がってた時以来あのままだったことを思い出した。
彼女と話したい。そのことで頭がいっぱいになると素晴らしい作戦を思いついた。
早速受話器を掴んで奥田家に電話。
美希ちゃんだけいる、という状態は無い。二人居るか、二人とも仕事かのどっちかだ。
今日は運良く二人ともいる日だった。
「おう。どうした。」といつもの声が。
僕だと分かった途端に声が低くなるのは近くに美希ちゃんがいるからだな。
用件は決まってる。すぐに本題へ。

「いや、ちょっとさ。なんか美希ちゃんと仲直りしたがってたじゃん。」
「あ、その話か。なんだよ。なんかいい作戦思いついてくれたか?」
「うん。作戦というか・・・今、美希ちゃんいる?」
「いるよ。テレビ見てる。」
「そうか。実はさ。僕が美希ちゃんに直接説得やろうかと思って。」
「ホントか!?」
「うん。まぁ。僕から説得したらうまく行くかもって思ってさ。」
「おお。そりゃ大歓迎だよ。是非やってくれよ!こっちから頼みたいくらいだ。」
「じゃ、ちょっとかわってくんないかな。」

作戦は見事に成功。奥田の「亮平が話したいって。」というお馬鹿な声が聞こえた。
その次には「亮平君?」と美希ちゃんの声が。久々に声を聞いたら体中張りつめてた緊張が一気に解けた。
彼女もまたヒソヒソ話のように声を小さくした。
「大丈夫。徹君は自分からあっち行っちゃって聞いてないから。わざわざ気を使って話を聞かないようにしてくれてる。」
素晴らしい。おかげで心おきなく二人きりの会話ができた。
「声が聞きたかった。」「私もよ。」
以前の僕なら間違いなく吐き気を催してたような陳腐なメロドラマみたいな会話。
いざ自分の身となると、実に気持ちがよくわかるのは可笑しかった。
どんな恋愛ドラマも実体験が無かったからつまらなく思ってたんだ。
今は大丈夫。美希ちゃんがいる。
お互いの意志を確認した。僕らは互いのことが好き。間違いがない。
それで僕の胃痛はようやく収まった。
「徹君といると確かに生活はそんなに困らない。けど、やっぱり何かが違うのよ・・。」
彼女の感じてる違和感は僕が一番よく分かった。
美希ちゃんが望んでるのはパトロンじゃない。気持ちを分かつ相手だ。
僕だ。


3月4日(日) 晴れ
ついに言ってしまった。
これ以上叶わない望みを抱き続けるのは奥田にとっても不幸以外なにものでもない。
第一美希ちゃんが側にいるのにこっそり電話をする神経が良くない。
僕の家より一部屋多いって言ったって要ははワンルームにおまけ部屋がついた程度。
会話の内容なんて筒抜けなはず。こっそり相談なんてできるわけない。
奥田の話を詳しく聞くといかに致命的な関係になってるかがよくわかる。
「いや、なんか美希も分かってるんだよ。俺が電話するときはわざわざテレビつけるし。」
隣の狭い部屋に電話を引っ張り込んでコソコソ喋ってる奥田の姿が想像できた。
もうダメだよそれは。一緒に住んでて露骨にプライベートを分かつなんて。
それで僕は言っやった。

「奥田。二人がうまくいかない理由。僕にはわかるんだ。」
「お、お、何だよ。何がいけない?教えてくれ。」
「ハッキリ言ってもいいか?」
「構わない。」
「後悔するなよ。」
「おう。」
「お前が代わってしまったからだよ。マトモな人間になったからだよ。」
「え?ちょっと待て。そりゃどうゆう意味だ?」
「わからないかな。美希ちゃんはその、ダメ人間というか、変な言い方だけど傷の舐め合いみたいなのを望んでるんだよ。
奥田。お前は真剣に働くようになった。もう僕らはダメ人間三人組じゃないんだ。
お前は僕らを置いて日の当たる場所に行ってしまった。彼女はお前が眩しいんだよ。眩しすぎて耐えられなくなってきたんだよ。」
「・・・働き始めたせいで美希に構ってやれる時間が減ったってことか?」
「いや、そうじゃない。そんな単純な話じゃない。」
「一緒に生活するには誰かが収入を得なきゃいけないじゃないか。食べていくにはお金が必要だろ?
なんでそれが関係を悪化させる原因になる?」
「お前の言うことはもっともだ。けど、もっとこう、感情の問題なんだ。わかるか?」
「わかんねぇよ。」
「彼女には真剣に生きる人は似合わない。」
「じゃぁどうやって食べていくんだよ。誰かが働かなきゃ飢え死にじゃねぇかよ。」
「それは・・そうだけど・・。」
「同棲はまだ早かったってことか?若いうちはまだまだ遊んで暮らしたいってことか?」
「えっと・・・まぁ、そんな感じだと思う。」
「そうか。わかった。アドバイスありがとな。これで美希とマトモに話し合える。」

その後奥田から連絡は無い。
話し合いが長引いてるのか。話が決着してないのか。
僕にはわからない。



第16週
3月5日(月) 晴れ
奥田から短い電話があった。
バイト中だから家に戻ったらまた連絡くれと言ったのに「用件だけでも。」と。
「お前の言う通りだった。で、俺ようやく自分のやるべきことがわかったんだ。
それだけ言いたくて。お前のアドバイスのおかげだよ!」
それでプツリと切りやがった。かけ直そうとしたら店長に睨まれたからできなかった。
いきなり自分がやるべきことがわかったって言われても。
とりあえずそれが何かを教えてくれよ。肝心の部分が分からないじゃないか。
しばらく落ち着かなかった。美希ちゃんと何を話し合ったって言うんだ。
レジの打ち間違いが続いて店長にどやされた。
ようやく休憩時間になって電話をしようとした矢先、ふと思いついた。
ひょっとして深く考える必要は無かったか?
うん。そうだよ。分かり切ったことじゃないか。
話が飲み込めてくると同時に喜びが沸々と沸いてきた。
結論は一つしかないじゃないか。待ちに待ったその決断。奥田、でかした。ついに踏ん切りがついたんだな!
今の二人の状態でやるべきこと。それは。
美希ちゃんと別れる。これ以外考えられない。
となるとヘタに電話して横槍を入れる必要はない。
ようやくその気になったのにまた思い返されても困る。
いいぞ。最後にとことん話し合ってくれ。積もる話もたくさんあるだろうに。
僕はいくらでも待ってやるさ。


3月6日(火) 晴れ
美希ちゃんがこのドアを叩く瞬間が待ち遠しい。
奥田と別れたとなれば彼女の行く先は僕の所しかない。
今更家に帰るなんてことは無いだろう。別れ話に時間がかかるのは仕方ない。
何しろ同棲までした仲なんだから。早々話がまとまるとは思えない。お互いに自分の買ったものやらあるだろうし。
けどそろそろいいんじゃないかな。奥田も決断したんならいい加減彼女を解放してやれよ。
黙って待ってる僕の身にもなってくれよ。わざわざバイトを休んでまでスタンバイしてるのに。
バイトだって長く休み過ぎると文句言われるんだから。
何より僕の気が晴れない。
テレビを見ても弁当を食べてもゴミを片づけても彼女の訪問ばかり考えてる。
コインランドリーに行くのも大急ぎで行ってきた。家の電話もわざわざ留守電にまでして。そんな機能初めて使ったよ。
僕のこうした細々とした努力。全て無駄に終わってしまった。
まだかまだかまだかまだかまだかまだかまだか。
彼女はまだ来ないのか。


3月7日(水) 晴れ
やはりこっちから電話の一本でも入れてやろうか。遅い。あまりに遅い。
もしや二人の身に何かあったのか?別れ際に良く聞く話だ。血みどろの愛憎劇。
いやでも奥田は別れる決心をしたんだし。けど土壇場になってまさか。
おいおいそりゃシャレにならないぞ。
奥田、お前勢い余って美希ちゃんを殺しはしないだろうな。
彼女が最後に僕との関係を明かして逆上なんて・・
あまりに心配になって電話より確実な別の行動を起こしてしまった。
駅前まで走った。僕のバイト先を横切って線路の向こうへ。
遮断機が下りてる時間が異様に長く感じられた。
ここ数ヶ月電車に乗った記憶など皆無な僕には迷惑以外なにものでも無かった。
遮断機が上がったと同時に再び走り始めた。あと少し。
息を切りながら坂を上った。あと少しで奥田のアパートが見える。
美希ちゃん、無事でいてくれ。ひたすら祈った。
アパートに着いて階段をかけのぼる。ドアの前に。
息を整え、落ち着き払ってドアを叩く。
「今開けるね。」と中から声が。美希ちゃんの声だった。
ドアが開いた。僕を見て驚く彼女。「亮平君!」
彼女の無事な姿を見て心底安心した。ホッ一息ついて手を握ろうとした。
その矢先、嬉しそうな顔をしてた彼女の顔色が急に変わった。

「亮平君ダメ。今来ちゃダメ。徹君が戻ったら酷いことに。」
「ダメ?どうして。奥田は居ないの?どっか行ってるの?」
「うん。今お店に出かけてるの。でもすぐ戻るって言ってた。」
「なんで店になんかに。」
「それがね、あ、まだわかんないけど、戻ってきたらハッキリするんだけど。」
「どうしたんだよ。何があったんだよ。」
「私にもあの人が何考えてるのか。ねぇ一緒に見られるのはマズイよ。」
「わかってる。でも・・。」
「亮平君。明日徹君と一緒にあなたの家に行くから。明日絶対に。」
「明日か。電話は?」
「とても電話では伝えきれないことになりそうなの。」
「なんか凄いことになってるのか・・。わかった。今日は出直すよ。」
「ごめんね。わざわざ。電話の一本くらい入れておけば良かったね。」
「いいよ。大丈夫。よっぽど酷いことになりそうなんでしょ?」
「うん。」
「じゃあ奥田が戻る前に行くよ。また明日。」
「明日ね。」

帰るとき少し遠回りして奥田の勤めてるソバ屋の方も見てきた。
かち合わないように注意して行ったけど奥田とはすれ違わなかった。
店は閉店時間にも関わらず電気がついてた。何か話合ってるのか・・想像つかなかった。
今日はまぁ美希ちゃんの無事を確認できただけ良しとしよう。
明日になればきっと何かわかるだろう。


3月8日(木) 晴れ

約束通り二人は来た。
嬉しそうな奥田の顔。美希ちゃんも笑ってる。
「連絡しなくて悪かったな。最近ちょっとゴタゴタしてて。」
「いいよ。で、今日はどうしたんだ?」
「お、それそれ。今日はちょっとな。話があって来たんだよ。」
奥田の声は明るかった。酷い話を聞かされると思ってた僕は拍子抜けした。
振り切れたおかげでお互いスッキリしたのか?
なんだなんだ。重苦しい空気になるかと思ってたのに。全然平気じゃないか。
などと一瞬安心してしまった僕は馬鹿だった。
安心なんて冗談じゃない。あんなことしてよく笑っていられる。
狂ってる。奴の中で、何かが壊れてしまったんだ。
奥田の話は、僕が想像したのよりも遙かに酷い話だった。

「話って何だよ。」
「うん。実はな、俺気付いたんだよ。仕事始めたせいで美希に構ってやれてなかったってこと。
美希がお前とネットにハマってたのも当然だよな。俺は自分のことしか考えてなかったんだから。
そりゃ家計を考えるのも大事だけど、それだけじゃダメなんだよな。こいつがいてくれたから家計を考える気になったんだ。
なのに俺は、一番大事なことを忘れてしまってた。」
「そうなのか。」
「ああ。そうなんだよ。だから俺は考えたんだ。どうやったら元に戻れるかなって。同棲を始めたあの頃みたいに。
俺はまずネットをやってみた。お前らネット好きだったからさ。処刑人か。風美って奴もそうだけど、奴らの追跡が中途半端になってたから。
ここら辺はお前らも一緒にやってくれたけど、まぁご存じの通りそれでも美希との溝は埋まらなかった。
その後も一人でちょっとやってみたけどな、何かが違うなって思ったんだよ。一人でやる意味が無いし根本的に何も解決しない。」
「で?その解決策は見つかったのか?」
「それだよ!今日こうして来たのはその話をしに来たんだ。解決策、見つかったんだよ」
「どんなだよ。」
「要は根本的な問題が解決できればいいわけだ。俺達の間にできた溝を作った原因を取り除けばいい。
それで八ッと思い当たって・・・実はな。もう実行したんだよ。」
「何をやったんだ。」
「昨日ちょっとね。」
「何やったんだよ。教えろよ。」
「へへ。知りたいか?驚くなよ?」
「いいから言ってくれ。」
「仕事を辞めた。」
「・・・は?」
「だから仕事を辞めたんだよ。綺麗サッパリ。店の方にも話をつけてきた。これでしがらみ何にもナシ。
どうだ。シンプルでいて最も効果的。物事ってのは意外と簡単な方法で解決できるんだよ!」

美希ちゃんは黙って笑ったままだった。
僕も笑った。
「すげぇな!よく決断できたもんだ!」
「いやぁ。やっぱさ。早く手を打つのが大事だしさ!」
三人で大笑いした。お酒も入ってないのに異常なほど楽しげな空気に包まれた。
少なくとも笑ってる間は楽しい気分でいられる。余計なことを考えないで済む。
笑え。もう笑うしかない。笑って一件落着。これで全員幸せ!
何をやってもおかしかった。ご飯を食べてもテレビを見ても。
テーブルにカップを置くときに音が鳴っただけでも大爆笑。誰かがトイレに立った時にはお腹がよじれるほど笑った。
二人が帰るときにはもちろん笑顔で送り出した。
見送りされる方もスキップしながら帰るんじゃないかと思うほど楽しそうだった。
世界で一番幸せなカップルに見える。
ただ、帰り際美希ちゃんの笑顔が一瞬歪んだのだけは見逃さなかった。


3月9日(金) 寒い
美希ちゃんが家に飛び込んで来た。
ドアをどんどんと叩く音が尋常じゃない事態が起きたことを物語ってた。
彼女の顔はげっそりとやせ細り、目に下にはくまができるほどひどい顔になっていた。
両手に持っていた大きな鞄が二つとも同時に地面に落ちた。
ドンっと音がして中身の重さを物語っていた。
彼女は落ちた鞄のことなど気にせず、下を向いたまま僕に倒れ込んで一言。
「もうダメ。耐えられない」
僕は喜んで迎え入れた。一時間もしないうちに奥田がやってきた。
携帯電話の電源は切っておいたのに。察しの悪い奴だ。
自分が犯した過ちに気付かずノコノコと現れた。
「美希がいなくなった。ここに来てないか?」
彼女を見ると疲れ切った表情のまま黙って頷いた。
もうこれ以上事態をこじらせるわけにはいかない。今日こそきっちりとケリをつけないと。
僕はドアを開け、奥田と対面した。

「亮平。聞いてくれよ。あいつひでぇんだよ。いきなり荷造り始めてさぁ。
何やってるんだよって言ったら『もう嫌』とか叫んで飛び出したんだぜ。慌てて追いかけたんだけど見失っちゃって。」
「美希ちゃんならここにいるよ。」
「良かった!やっぱここだったか。ちょっとあいつと話をさせてくれよ。
今度ばかりは俺も黙ってられない。言いたいことが山ほどあるんだ。」
「無理だよ。」
「何?」
「だから無理だと言ってるんだ。美希ちゃんと話しをさせるわけにはいかない。」
「ちょっと待て。お前何言ってるんだよ。美希はここにいるんだろ?おい、美希。返事しろ!」
「やめろって。わからないのか?美希ちゃんはお前と話をしたくないんだ。」
「なんでだよ!大事な話なんだぞ。せっかくこれから一緒にうまくやってこうってのに。こんなんじゃ全然ダメじゃないか!」
「奥田。いい加減認めろよ。お前達の仲はもう終わったんだ。とっくにダメになってるのに気付かないのか?」
「黙れ!お前何様のつもりだ!冗談じゃねぇ。入るぞ。亮平、どけ!」
「できない。」
「いいからどけって!」

奥田に突き飛ばされた僕はバランスを崩して玄関に倒れ込んだ。
美希ちゃんの悲鳴が聞こえた。
奥田は一瞬自分のしたことが信じられない、という様に両手を呆然と眺めた。
けど美希ちゃんの姿を確認すると正気に戻り、靴を脱いで部屋に入っていった。
僕は急いで起きあがって二人を見た。胸ぐらを掴もうと手を伸ばしかけてためらってる奥田が見えた。
その後には歯を食いしばって目の前の男を睨む美希ちゃん。

「最低!亮平君に謝ってよ!」
「美希、お前どうしてこんなことを・・」
「ほっといてよ。もうほっといてったら!」
「待てよ。俺たちこれからじゃないか。仕事も辞めてまた一緒にいる時間が増えたじゃないか。
再スタートってやつだよ。な?新しい気持ちでやり直すっていうか・・」
「違うのよ。お願い、わかって。私たちは別れた方がいいのよ。もう元には戻れないのよ。」
「おい。何言ってるんだ。変なこと言うなよ。別れるだなんてそんな。」
「もうハッキリしましょうよ。ね。別れましょ。その方がお互いの為になるから。」
「お互いって・・俺は・・お前のために仕事まで・・」
「仕事をやめたあなたに何の魅力が・・!!」

奥田の顔から表情が消えた。
美希ちゃんは自分の言葉の重さに気付き、すぐに「今のは違う。」と首を何度も横に振った。
奥田は何の反応も示さなかった。やがて彼女は説得を諦め「ごめんなさい。」と言い続けた。
あいつはその場に立ちつくして宙を見つめていた。
彼女の言葉の意味を理解するのに時間がかかってるようだった。
声も出さず、涙も流さず、ただ彼女の言葉に耳を傾けていた。
僕は膝をついたままずっと二人の様子を見てた。
壊れたテープみたいに同じ言葉を繰り返す美希ちゃん。ぴくりとも動かない奥田。僕も息が詰まりそうだった。
やがて奥田の口からかすれた声が聞こえてきた。
「どうして?」
美希ちゃんがゆっくり顔を上げた。その視線の先には、僕。
奥田も僕を見た。美希ちゃんの顔と交互に見つめる。
僕と目が合うと徐々に目元が震え始めた。泣くのを堪えてるのが目に見えてわかる。
顔がぐしゃぐしゃに歪んだ。またすぐに平静を保とうと顔を引き締める。
歪んでは戻り、歪んでは戻り、とうとう歪みっぱなしになった。
とても小さな声が聞こえた。
「・・・そうゆうことだったのか。」
奥田は走り出した。僕の横を通って玄関へ。
靴を履こうとして懸命に足を動かしてたけどなかなかうまく履けてなかった。
靴ひもがからまってるのをほどくのに指が忙しそうに動いてた。
ガタガタ大きな音を立てて悪戦苦闘してる。指先が震えててそれもうまくできてなかった。
「ひひひ。」と奇妙な声がした。
目をギョロリと見開いて、口元が裂けたように・・笑ってた。
靴は諦めてかかとを踏みっぱなしで外へ出てった。
誰も追わなかった。


3月10日(土) 快晴
奥田が自殺した。
電車に飛び込んだそうだ。
駅名は聞いたこともない所でもう忘れてしまった。
茨城だが栃木だか。かなり遠くまで行ったらしい。たぶんどこでも良かったんだろう。
ずっと電車に乗り、ふと思いついた駅で降りて飛び込んだんだと思う。
美希ちゃんの携帯に連絡をくれたのはソバ屋の店の親父さんだった。
従業員証がまだ財布に入れっぱなしだったのが幸いした。
それが無かったらもっと時間がかかってたかもしれない。
バラバラの死体から身元を割り出すのは大変そうだから。
美希ちゃんは横で寝てる。一日中泣いてたから泣き疲れるんだ。
僕はテレビであいつのことが取り上げられないか見てたけど
残念ながらどこのニュースでも放送されていなかった。
地方ニュースとかなら出てるかもしれない。
わざわざ確認する気にはなれなかった。


3月11日(日) 晴れ
外に出たくない。動きたくない。
美希ちゃんも同じようにご飯も食べずにテレビをつけっぱなしにして呆けたまま過ごした。
いっそ警察にでも呼び出されれば動く理由ができるのに。電話が鳴る気配は無い。
僕らがした会話は「ご飯食べる?」「いらない。」など
会話と言うにはあまりに内容の無いものだった。
奥田の名前など一言も出てこない。話す気になれない。
けど僕は自分の中ではなんどもその名を連呼してた。
奥田徹。
悲しみの感情は沸いてこない。涙も出ない。
ただ、心の奥底にドロドロとしたものがうねってるのを感じる。
あまり考えないようにしたけどそれが何なのか僕にはわかってた。
口が裂けても言えないものだけど。わかってる。
そこから目をそらすと今度は大きな波がやってきて容赦なく僕を呑み込んだ。
波に、罪悪感に包まれた僕は頭を抱え、布団に倒れ込んだ。
狭い床に二人も寝転がっている。肌が触れ合ったけど、それだけ。
お互い考えなければならないことがたくさんある。自分の中で整理するだけで手一杯。
気遣う余裕なんて無かった。
僕は頭の中でずっと同じ言葉を繰り返してた。
恐らく美希ちゃんも同じことを考えてると思う。
今の僕らにはこれしか言うことがないから。
「奥田。許してくれ。」

許してくれそうにない。


第1部<内界編>
  第5章