絶望の世界A −もうひとつの僕日記−
第2部<外界編>
第13章
第49週
4月15日(月) 晴れ
料理を作り配達をすれば杉崎さんからお金がもらえる。
そのお金で二人分の食材を買って家に帰ってご飯を作って食べる。
シャワーを浴びてテレビを見てパソコンをいじって疲れたら寝る。
外の人たちの顔が猿に見えるけど生活に支障は無い。
僕は順調に生きてる。
4月16日(火) 曇り
仕事を続けていれば毎日ご飯にありつける。
たまにレンタルビデオを借りてきて彼女と二人で映画を見る。
お互いの好きな俳優の演技を誉めたりつまらない映画のどこが悪かったのかを評論家気取りで語り合う。
それ以外に趣味などない僕らは貯金を無駄に浪費しなくて済む。
このままでいれば一生問題なく過ごせる。
4月17日(水) 晴れ
彼女が奥田の墓参りに行こうと言い出した。断る理由も無いので僕は承諾した。
映画を見に行く以外で二人でどこかに出かけるのは久々だった。
仕事の時も外に出る時も常に僕は一人で行動していた。
彼女は家で本を読むのが好きで、家事以外の時間はほとんど読書に費やしている。
いつもはあまり外に出たがらない。
4月18日(木) 晴れ
墓の前に立つとあいつの顔を思い出した。僕に言えない悩みを抱えて死んでいった親友。
以前は思い出すたびに僕を非難する目で見ていた奥田の顔も、今では哀れみの目で僕を見つめてる。
親御さんは頻繁に墓参りに来るらしく、墓前に綺麗な花が添えてある。
僕らも持参した花を添え、手を合わせて二人そろって目をつぶった。
奥田を名乗ってた時期があったせいか、奥田の名の入った墓標を見るとすこし不思議な気分になった。
もう僕を奥田と呼ぶ人はいない。
奥田はここに眠ってる。
4月19日(金) 曇り
「元気になるかと思ったのに、効果なかったかな。」
彼女は読んでる本から視線を僕に移してそう言った。
僕は晩御飯の後片付けも終わって寝転がってテレビを見てるところだった。
幾重もの彼女のまなざしが僕を寂しげに見つめる。
僕は元気だよ、と答えると彼女は何度か軽く頷いてまた読書に戻った。
僕は元気に見えないのだろうか。
4月20日(土) 曇り
パソコンの前に座って映画のサイトを眺めてると、彼女に生きてて楽しいかと聞かれた。
僕は「別に。」と答えた。少し間を置いた後、彼女はそれじゃあ生きてる意味がないわよと言った。
「死んでるのと同じかな。」
「同じよ。ただ単に命を消耗するだけの日々なら、もう死んでるのと同じ。」
「なら今から電車に飛び込んで本当に死んでくる。」
「あ、私も一緒に行く。」
二人で駅に向かった。
4月21日(日) 雨
鼻の先を鉄の塊がすごい勢いで通り過ぎていくのを思い出して腹の底からガタガタ震えた。
肩を掴んでくれた彼女の手を、僕は今でも命綱のように大切に握り続けてる。
あまりの怖さに小さく丸まって泣きじゃくってる僕の頭を、彼女は優しく撫でてくれた。
安心しきった僕は彼女にみんなの顔が猿に見えることを告げた。
自分の顔は虫に見える。彼女の顔は鬼に見える。
全て告白しても彼女は僕の頭を抱きしめていてくれた。
僕の涙と鼻水が彼女の胸元を濡らす。
そこはとても温かかった。
第50週
4月22日(月) 晴れ
彼女の声で目がさめる。そろろそろ起きないと仕事に間に合わないよ、と。
最近は彼女が朝ご飯を作ってくれるようになった。
トーストをコーヒーを平らげて僕は今日も猿の餌を作りに出かけた。
何も変わりない一日。
4月23日(火) 曇り
今日のネギは形が不揃いだった。
杉崎さんは「その程度なら気にしないで出していい。」と言っていた。
その後も続けて包丁を握ってると野菜と一緒に自分の指をザックリ切りたい衝動にかられた。
「よせ。」と口に出して呟くとその衝動は腹の底へと転げ落ちていった。
足の先までたどり着くとそこで止まった。
4月24日(水) 晴れ
出前から帰るとき原付の調子が悪くなった。
エンジンのかかりがうまくいかない。足で蹴ってみるとブルルと少し反応した。
力を入れて蹴ってみると最初より良い反応が返ってきた。
キーをひねりながら何度も何度も蹴るとやがてエンジンは普通に動き始めた。
それでも僕は蹴り続けた。
通りすがりのおじさんが「もうエンジンかかってるよ。」と後ろから肩を叩いて教えてくれた。
僕はそのおじさん猿に御礼を言って店に戻った。
足が熱かった。
4月25日(木) 曇り
ゴールデンウィークに向けて定休日を返上しての出勤。
子供がグラスを落とし床一面に破片が散乱した。
杉崎さんがホウキとチリトリを持って床の掃除を始めた。
僕の足元には鋭い刃を持ったグラスの破片が転がっていた。
踏むと靴の裏のゴムの部分を貫通して僕の足まで食い込んできた。
鋭い痛みが体中に走り、靴下に血がにじむのを感じた。
一瞬、みんなの顔が人間に戻った。
休憩室で破片を抜き、杉崎さんの奥さんに傷口を消毒してもらった。
今も鈍い痛みが体中に残ってる。
4月26日(金) 晴れ
朝起きたら異常なほど足の傷口が痛んだ。
見ると傷口が開き血がダラダラと流れていた。
僕はもだえ苦しんで布団の上で暴れまわった。足に何かが入り込んでくるのを感じた。
それは足を辿り腹を上り体の中を這いずり回って脳までやってきた。
彼女が消毒液を持ってきてくれた時には血は止まり、僕も平静を取り戻していた。
彼女は休んだ方がいいと言ったけど僕は「大丈夫。」と言って仕事に出かけた。
杉崎さんにも心配されたけど、軽く痛みを感じるくらいで特に問題もなく動き回ることができた。
傷の方はもう大丈夫。
4月27日(土) 晴れ
包丁を持つたびに体が熱くなった。刃物を持つと何もかも切り裂きたくなる。
原付に乗ってる時はとそのまま壁にぶつかりたい誘惑にかられた。
客に愛想笑いを振りまくと頭に激しい痛みが走る。
猿の群がる輪の中で張り裂けるほど叫びたかった。
体中に満ちる膨大なエネルギーを僕は必死に押さえ込んでいた。
このどうしようもない衝動は何だろう。
4月28日(日) 晴れ
明日からは店もゴールデンウィークで一週間休みになる。
彼女が「そんなに長く家にいるのは久々なんじゃない?」と言った。
働くようになってからは始めてだ。
学生、アルバイトの頃は逆に時間が多すぎた。
下らないことで真剣に悩み、面白半分でどうでもいいことにも進んで足を突っ込んだ。
それが破滅への入り口だとも知らずに。
適当に働いて友人と酒を飲んでれば幸せだったけど、もうそれは過去の話でしかない。
僕は世の中というものを知らなすぎた。
「亮平さんは働きすぎよ。」
彼女が語りかける。そして肌に触れてくる。手を握った。
その先何をすべきなのかは知っている。
でも僕は無表情に壁を見つめ、彼女の行動を無視していた。
僕が何もしない、できないことは彼女も知っている。
だからそれ以上何もしてこない。何も言わない。
何も言えない。
第51週
4月29日(月) 晴れ
休みだからといって取り立ててすることはない。家でゴロゴロしてるだけ。
それでも体の中の衝動はくすぶり続けていた。
大声を出したくなるのを堪えてると汗がダラダラと流れ落ち、大粒の水滴がじゅうたんに吸い付いていった。
「足の傷が痛むの?」と彼女がタオルを持って来てくれた。
彼女の優しさにはいつも救われる。
4月30日(火)
熱が出てるようだった。苦しくてたまらない。
頭が重い。足が熱い。胃が虫に食い破られてるように痛む。
「せっかくの休みなのにね。」と彼女が優しく声をかけてくれた。
彼女はいつも冷静で僕の苦しみをわかってくれる。
僕のような人間にここまで付き合ってくれるのは彼女だけだ。
彼女がいなければ僕はとっくに死んでる。
死のうとしても止められる。
5月1日(水)
苦しい。このまま楽にして欲しい。
鬼の顔に見えた彼女の顔も、もはやぼやけて何なのかわからない。
声だけが聞こえる。「病院行こうか?傷見てもらった方がいいんじゃない?」
僕はかたくなに首を横に振った。病院なんて。
どうしてここまで苦しまなければならないんだろう。
足の傷のせいだろうか。傷は既に癒着してる。なのにまだズキズキする。
痛みは足を伝い、胃を通り胸を通り両腕に伸び、そして脳まで響く。
傷の痛みじゃない。吹き出でそうなほどの何かが体の中をうごめく。
僕の体が耐え切れず悲鳴をあげてるんだ。
誰かの声が頭に響く。女性の声。
耳障りだ。
5月2日(木)
死なせてくれ。どうせ生きてても無駄なんだ。
このままなら自然に消えていける。ホームから踏み出す勇気の無い僕には絶好のチャンスだから。
彼女が水を持ってきた。「頑張って。」と。
頑張れって。応援してくれる。彼女はいつも側にいる。
「すごい熱だよ。風邪薬飲む?」
彼女がいれば僕は死なない。死ねない。
衝動が。また衝動が襲ってきた。
何かに気付いた。すぐに苦しみの中に沈んでしまったけど、その先端だけはしっかり見える。
風邪じゃない。これは風邪じゃない。薬なんかじゃ治らない。
どうすれば治るか知ってる。
「大丈夫だよ。私がそばにいるから。」
彼女が言う。そばにいなくていい。これは僕が治す。君がいると、余計に。
息が詰まる。吐き気がする。吐いた。
口の中が酸っぱい。ロクに食べてないから胃液が出てきた。
彼女は嫌な顔せずに処理してくれた。
その姿が誰かと重なる。でも一致しない。だってほら。変な顔。誰だよ。
お前か。
5月3日(金)
頭を振り回されてるように視界がめまぐるしく移り変わる・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・何か見えたぞ。
見えない。見えない。見える。見えない。見える。
見えた。ははははははは。そうか。やっぱりそうだったのか。
それが原因か。
5月4日(土) 曇り
熱も引いて足も痛まない。僕は回復した。
「疲れが出たのよ。」と彼女が言う。
確かにその通りだった。
思えば彼女と二人きりでずっと家にいるのは初めてだった。
疲れが一気に出たんだろう。僕はずっと無理していたのかもしれない。
二人でつつましく快気祝い。
これでまた僕の日常が戻る。仕事に出かけてはお金を稼ぎ家に帰ればパソコンでネットでも見ながら時間を潰す。
彼女はテレビを見たり携帯をいじったりして暇を持て余す。
そんな日々が また。
5月5日(日) とても晴れた日
真昼間からテレビを見ていた。
彼女は相変わらず携帯をいじって何か操作してる。
僕は「何してるの?」と聞いてみた。
彼女は振り向きもせず「別に。大したことじゃないよ。」と答えた。
僕は「ああそう。」と言った。
しばらく沈黙が続いた。テレビから明るい音楽が聞こえてくる。
彼女が「足はもう痛まない?」と聞いてきた。
僕は「もう大丈夫。」と答えた。
さらに静寂が続く。
彼女が携帯を眺めながらあくびをした。僕もつられてあくびをした。
僕は壁にもたれて天井を仰いだ。首をコキコキと鳴らす。
何も変わらない休日の午後。まどろみの時間が過ぎていく。
ブツンと頭の中で音がした。
太い縄が切れたような鈍い音だった。
僕は立ち上がり、彼女に向かって口を開いた。
お前ここで何してるんだよなんでここにいるんだよ
なんで僕の家に当たり前のような顔していついてるんだよなんでこんなところでのうのうと生きてられるんだよ
誰が許したよ誰が許可したよ言ったのか僕が言ったのか僕がここにいてもいいよとでも言ったのか
言ってねぇよ馬鹿僕は何も言ってないぞなのにお前は我が物顔で僕の周りをうろつきやがって
わかってんのかよおいお前が悪いんだぞ全てお前が悪いんだぞお前だお前だ
お前のせいで僕はこんなになってしまったんだ帰せあの子を返せあの日々を返せ
あれはあれで幸せだったんだ三人でひっそりと酒を飲むのが楽しみだったんだ世間と離れて僕らだけで
あれが僕らの世界だったんだとても小さいけど小さかったけど小さかったけど小さかったけどちくしょう
ぶち壊しだよ畜生畜生お前が壊したんだこのクソ女お前のせいで僕の人生は滅茶苦茶だ
何が処刑人だふざけんじゃねぇよ人様を不幸にして何が楽しいんだよおいわかってんのかよ
遊びで始めたのか狙ってたのかなんて関係ねぇ今のこの結果に対して責任取れよ
身内まで妹まで早紀まで巻き込みやがってこの野郎早紀は泣いてたぞ泣いてたんだぞ
なぜ僕を選んだなぜ僕なんだなぜ早紀なんだたまたまとか言うんじゃねぇ俺の身になってみろ
死ねよ馬鹿俺じゃなくてお前が死ねよ俺の美希を返せよ元に戻せ何もかもくそくそくそくそくそ
お前も奴らと同じだ俺の邪魔ばかりする邪魔をして楽しんでやがる畜生なぜそっとしておいてくれない
猿だ猿と同じだ猿だ猿だ猿だ猿が猿どもがあぁあああああぁぁあ
そして僕は絶叫した。
第52週
5月6日(月) 晴れ
僕は膝を抱えて部屋の隅に座り込んでいた。
ブルブルと震えながら一日中ずっとそこにいた。
彼女の「ご飯食べて。」という声が聞こえたけど無視した。
途中どうしても我慢できずにトイレに行った。
用が済んでも一時間以上座ってたら、彼女がノックしてきて「大丈夫。」と声をかけてきた。
僕は「うるせぇ。」と叫びトイレから飛び出て、また部屋の隅に座り込んだ。
部屋に虫が這ってるのが見えた。
5月7日(火) 曇り
起きるのが億劫になった。
彼女が「今日から仕事じゃないの?」と声をかけられても布団を頭から被りって黙り込んだ。
携帯が鳴ってもすぐに電源を切った。
お昼に「ご飯くらい食べなよ。」と声をかけられた。僕は「持ってこい。」と叫んだ。
彼女がハンバーガーとポテトとジュースの入った紙袋を持ってきて、僕の布団の横に置いてくれた。
僕は布団から這い出てハンバーガーにかぶりついた。
昨日から何も食べてなかったので猛烈にお腹が空いていた。
全てたいらげると僕は再び布団にもぐりこんだ。
気付いたらゴミは片付けられていた。
5月8日(水) 晴れ
布団を移動させてテレビの前に陣取った。
彼女は隅に追いやられても普通に本を読んだり携帯をいじったりしてた。
僕がご飯を作らなくなったので代わりに彼女が作ってくれた。
僕はお皿を布団に持ち込み、一人で食べた。
布団の横に空いたお皿を置いておくと彼女が勝手に後片付けをしてくれた。
彼女とは会話をしなくなった。
彼女が買い物に行く時も、帰ってきた時も、彼女から声をかけてくれるものの僕は無視し続けた。
目もあわせてない。
5月9日(木) 曇り
テレビで暗闇のシーンがあると自分の顔が写った。
無精ひげが生えて髪もボサボサ。少し前にしてた格好に似てるなと思った。
彼女の話し掛ける声はテレビの音にかき消され、僕の耳には入ってこなかった。
テレビ画面に反射して時たま彼女の姿が見える。
携帯を眺めながらクスクス笑ってるような気がした。
誰かの新曲のCMが始まって彼女の姿をかき消した。
僕は振り向きもせずテレビに視線を向けたままでいた。
外では雨が降り始めた。
5月10日(金) 雨
一日中雨が降ってるので布団がじめじめしてる。
今日はご飯を食べてないかお腹が減って仕方なかった。
彼女は買い物に行ったっきりまだ戻ってこない。
「買い物に行ってくるね。」と言い残し、傘を持って外に出ていったままだった。
僕は冷たい布団に篭り、ご飯が差し出されるのを待ち続けた。
雨が落ちる音だけが変わらず聞こえる。
ご飯は出てこない。
5月11日(土) 晴れ
テレビを消すととても静かだった。
聞こえるのは外で吹いてる風の音と僕の息遣い。
彼女が出て行ったと認識するのにそんなに時間は要しなかった。
布団から這い出て冷蔵庫をのぞいて見た。
彼女が買いだめしていたレトルト食品が見つかったので温めて食べた。
空腹から解放されて一息ついたあと、久々に温かいシャワーを浴びた。
体にこびりついたほこりや垢が綺麗に洗い流される。
何もかもが流されていく。
窓を開けると新鮮な空気が部屋に吹き込んだ。
大きく深呼吸すると足の先から頭の中まで風が吹きぬけた。
あまりの爽やかさに草原にでも迷い込んだような錯覚に陥る。
目を開けるとそこはただの殺風景なアパートの一室だった。
僕はけけけと笑ってまた布団にもぐりこんだ。
これで僕は一人になった。
5月12日(日) 晴れ
パソコンの画面に浮かぶ無数の文字。
誰かが誰かに呼びかけて、見知らぬ誰かがそれに答える。
ひとつ「出会い系」と書かれたサイトがあったのでそこの掲示板をのぞいて見た。
すっと前からかわらない。人が入れ替わり同じ事が繰り返されている。
顔も見えない者同士、何かを求めて語り合う。
そこに得体の知れない異物が紛れ込んでいたって誰もわからない。
僕は気付かなかった。たぶんみんな気付かない。
キーボードをカタカタ打つ音が妙に大きく響いた。
マウスを動かして灰色のボタンを押す。カチッと音がして文章が登録された。
画面が更新され、僕の入力した文字が誰かの発言の下に連なった。
「みんな死ねばいい。」
画面の向こうでキーボードを叩いてる連中の姿を想像してみた。
どいつもこいつも猿の顔をしてやがる。
殺してやろうと思った。
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第14章