絶望の世界A −もうひとつの僕日記−
第2部<外界編>
第14章
第53週
5月13日(月) 晴れ
色んな「出会い系」の掲示板をめぐると腐るほどの書き込みがあった。
地域や趣味で区別されてるのもあれば無目的なものまで。「無職」の項目も健在だった。
ありふれた自己アピール文が氾濫し、醜い文章を書く奴もいる。
僕は画面を指差し確認しながら面白そうな奴を探した。
どいつにしようか。
5月14日(火) 晴れ
話をあわせやすいから趣味を映画と書く奴がいいと思った。
真昼間から書き込んでる方が暇人らしくていいかもしれない。
条件に当てはまり、「仲良くなったら一緒に映画を見に行きたいです。」と書いてる奴がいたのでそいつにした。
フリーで何個かアドレスを取得し、その一つを使ってメールを送った。
「ARAです。初めまして。募集見たのでメールを送りました。」
パソコンにかじりついてるのか、夕方にはもう返事が来た。
メールにはあまりなれてないけどよろしくねと。
僕も不慣れなことにした。
5月15日(水) 曇り
昨日の奴に「渚」と「紅天女」の名前でもメールを送った。
どちらもすぐ「メールにはあまりなれてないけどよろしくね。」と返事が来た。
「ARA」の方は既にうまく回り始めてる。
朝と夜にもメールを出し合い、世間話で親交を深めた。
相手はフリーターらしいが最近は働いてないそうだ。
色々とバイトの面接を受けに行って今は結果待ちらしい。
「ARA」はフリーターの20歳なので早いうちに気が合った。
映画の話も通じるのでやりやすそうだ。
5月16日(木) 晴れ
僕も相手も一日中家にいるのでかなりハイペースでやりとりをした。
「ツーショットチャット」なるものに誘われ、そこで長時間会話をした。
こんな便利なものがあるとは知らなかった。これがあればわざわざメールしなくても済む。
相手がリアルタイムにいる時はこれを使おうと思った。
「渚」と「紅天女」の方でもメールを送った。
重ねて送ると疑われるかもしれないと思って一応時間をずらした。
ただ、そこまで気にする人間はいないかもしれない。
「ARA」にもメールが来てた。結構マメな奴のようだ。
「またチャットをしようね。」と言ってたので「こちらこそ。」と返信しておいた。
既に「ARAちゃん」とまで呼ばれてる。
5月17日(金) 雨
チャットは時間が過ぎるのが早い。もう合う約束ができた。
最近面白い映画はあるかな、という話の流れから
「私たちはフリーターだからいつでも映画見に行く時間作れるよね。」と振ったら
「今度一緒に見に行こうよ。」とあっちから誘ってくれた。
「いいよ。」「いつ暇?」「今日も明日も明後日も暇だよ。」「俺も。じゃあもう明日にしちゃう?」「いいよー。」
とあとはトントン話が進んだ。待ち合わせは渋谷のハチ公前。
お互い暇同士だから一日あれば約束など簡単にとりつけられる。
相手は黒いシャツで白いスラックスを履いてくるそうだ。
着いたら電話してくれれば迎えに行くよと電話番号まで教えてくれた。
さらに「非通知でもいいよ。女の子の場合初めて会う相手に教えづらいのくらい承知してるから。」とも言っていた。
「不慣れ」とか言ってたくせに実はかなり慣れてるのかもしれない。
最後に例の話をしておいた。
「とろこでさ、処刑人って知ってる?オフで会う時は奴に気をつけなきゃいけないって友達に言われただけど。」
「はぁ?知らないよそんなの。」
「処刑人はネットに巣喰う正体不明の殺人鬼で、オフ会に紛れこんで誰構わず殺していくらしいよ。」
「何それ。そんなのあるわけないじゃん。」
「そうだよね。それに今回のオフは二人きりだし。気にしないで明日は楽しむよ。」
ネットの噂話などには興味がない様子だった。案外普通の人なのかもしれない。
どんな奴かは明日見れる。
5月18日(土) 曇り
黒いシャツで白いスラックス。年齢は30代前半といったところ。
メールの相手らしき人物は身長だけは高いが痩せこけて骨と皮だけのような男だった。
似合わない金髪をしきりにかき上げては携帯が鳴らないかをチェックしていた。
僕はその横で同じように人を待つフリをして立ってた。
約束してた映画の時間が始まっても尚、そいつは諦めずに待っていた。
たまにどこかどこかウロウロしては戻ってきて、腕時計を何度も確認する。
イライラしてるのか地面を蹴ったり何本も煙草を吸っては捨て吸っては捨てを繰り返してた。
待ち合わせ時間から三時間くらい過ぎたあたりでようやく諦め、肩を落として帰っていった。
家に帰るとしっかりメールが届いてた。
「何でこなかったんだよ。来れないなら朝イチでもメールしてくれれば良かったのに。」
満を持してとっておきの返事を送った。
「やっぱり処刑人が怖いからやめといた。」
僕は画面の前で笑い転げた。
5月19日(日) 晴れ
確かにこの方法だと簡単にひっかかる。
出会い系サイトの男は女のフリをすればほぼ確実に返事をくれるし、
多少あやしくてもオフとなればホイホイと足を運んでくる。
本家処刑人から教えてもらっただけある。
自分がやられた時はたまらないが、他人にやるとこれほど面白いとは思わなかった。
ネットには掃いて捨てるほど「出会い」に飢えた人間達がいる。
その中で本当に「出会い」を見つけられるのはごくわずかだと言うのに。
種は尽きない。
これからが始まり。
第54週
5月20日(月) 曇り
この前の痩せ男はARAに嫌味のメールをよこしたものの
他のメル友とは懲りずにやり取りを続けている。
「渚」にも「紅天女」にも同じような語り口でなれなれしく寄ってくる。
そのままコピーしただけのような文章なので
どちらが「渚」でどちらが「紅天女」だかわからなくなった。
僕の方は少しだけ映画の趣味をかえてキャラが被らないようにと気を使った。
たぶん同じでも気付かれないだろうけど。
5月21日(火) 晴れ
「渚」の方でチャットに誘ったら喜んでついてきた。
さすがに同じ場所は使えないのでARAの時と同じようなチャットルームを探しておいた。
探せば腐るほど見つかった。
ツーショットをこっちから誘ったということもあり、相手はかなり興奮状態だった。
進んで卑猥な話をしてきて、「渚」も嫌がらずについてきたのでますます調子に乗ったようだ。
プライベートこともしつこく聞いてきたが、設定を深く考えてなかったので「それは秘密。」と適当にはぐらかした。
逆に気に入られしまい、また明日もチャットをしたいと申し込まれた。
「渚」は喜んで承諾した。
5月22日(水) 曇り
数日前にすっぽかしをくらったことなど既に忘れてるのかもしれない。
あるいは名誉挽回に燃えてるのだろうか。相手からまたオフに誘ってきた。
「ねーねー。ヒマならどっか遊びにいかない?」
「いいよ〜。」
「やったー!嬉しいなーやっとヒマ潰し相手ができたよ(←失礼)」
「あははは。」
「どこ行く?どこ行く?」
「うーん何がいいかな・・。」
「映画なんてどう?今面白そうなの結構やってるよー。」
「いいよ〜。」
「映画でも見てお茶でもするってのはどう?(←適当)」
「あははは。いいよ〜。」
「よーし決まり!渚ちゃんはノリが良くていいね〜(喜)」
「あははは。」
あの貧相な男が夜な夜なキーボードを叩いてる姿を想像して、また大笑いした。
一通り笑い終え、冷静になったところでふと窓を見ると、そこには似たような男が間抜けな面をして映ってた。
僕か。
5月23日(木) 雨
また何人もの猿達にメールをばら撒いた。
今度は無職に限らず中学生、高校生、大学生、社会人、あらゆる層に送った。
大勢から即日で返事が届き、メールボックスは読みきれないほどになった。
僕は「ARA」「渚」「紅天女」に加え新しく「ケイ」のメールを取得して、四人でうまくローテーションさせた。
届いたメールを参考にしてそれぞれの口調もなるべく使い分けた。
「もっとプロフィールを知りたい。」と書いたら体重、身長、趣味、職業など細かく教えてくれる奴がいた。
「一晩五万まで出せるけどどう?」と書いてくる奴もいた。
本名と住所を書いて「会いに来て。」という奴もいた。
おかしいのは僕だけじゃない。
5月24日(金) 晴れ
四人の女性はそれぞれの人生を持ち始めた。
容姿も生い立ちも違い、何かのゲームのように細かいプロフィールがある。
説明書に書くならどんなタイプかも考えた。
「ARA」は気さくに話のできる友達タイプ。
「渚」は天然ボケで人なつっこい妹タイプ。
「紅天女」は敬語を使う気弱な後輩タイプ。
「ケイ」はミステリアスなお姉さんタイプ。
どんな喋り方をすればそんな人物に見えるかも研究し、メールの回数を重ねるにつれてキャラが確立されていく。
捨てるつもりで作ったその場限りのものではない。
そこがかつて「処刑人」がやったものとは決定的に違う。
そんないい加減なものじゃない。もっとリアルに。精密に。
願いを叶えるためには、完璧でなければ。
5月25日(土) 晴れ
あの痩せ男とまたオフをした。
もちろん「渚」はそこには来なかった。
「ARA」の時と全く同じ。ただ、待ってた時間はこの前より少し長かった。
僕はその場で笑い転げたくなるのを抑え、男の動きを細かく監察した。
渋谷のハチ公前には人が多いから、見つけられないのでは、という不安があるのかもしれない。
駅の方をキョロキョロしたりハチ公に寄ってみたり離れてみたりと待つ場所を微妙に変えてた。
鳴らない携帯電話を気にして何度もポケットから取り出す。
携帯の番号を教えてくれない人間は疑ったほうがいい、と僕は心の中でアドバイスした。
「処刑人」も僕が待ちぼうけをしてるとき、真横に居ながらそんな風に思ってたのかもしれない。
痩せ男が帰る時、僕は後をつけた。
人を尾行するのは初めてなのでバレないかと心配だったけど、意外とバレないものだった。
追う方ですら見失わないように必死なくらい人込みをかきわけていくのだから、
よほどのことが無い限りつけられる方は気付かない。
同じ電車に乗ったって、そこに乗ってる人の顔を全て覚えれる人間などいない。
最寄の駅らしきところで降りたところで尾行は終わりにした。
さすがに自宅まで追ってったら怪しまれる。
その夜来た「なんですっぽかしたんだよ。」のメールには返事を書かなかった。
5月26日(日) 雨
あの「処刑人」は不完全だった。
思いつきだけの罠でそれをうまく使おうとしなかった。
完璧な意図があってのことなら、そこに気付いた者は辿り着けるだろう。
中途半端では追う方も悩んでしまう。
探し当てて欲しいのなら道を用意すべきだ。
人を巻き込むのなら独りよがりは避けるべきだ。
辿り着けなければ僕のようになるから。
意図せず辿り着いたゴールには破滅しかない。
納得できず、戻ることもできず、ただ大切なものを失うだけだ。
僕は違う。
僕は、そうさせない。
第55週
5月27日(月) 晴れ
既に何人も会いたがる奴が出てきた。
チャットに誘った奴はほとんどオフの話になる。
携帯番号を交換しようというのも多い。
断ったら諦めてチャットルームから出て二度とメールをよこさないの場合もある。
それでもかなりの人数が残ってる。
人それぞれで誰が気に入られるかも違った。
「紅天女」だけを溺愛して他の三人にはめったにメールをしなかったり
「ケイ」にやたらなついて人生相談までをしてきたりと様々だ。
昨日の痩せ男と「紅天女」はまだ続いてる。
5月28日(火) 曇り
非通知でいいから電話が欲しいという奴がいたので電話をかけてみた。
こっちが無言でいると「あらちゃん?」と話し掛けてくる。
「何か喋ってよ。」と言う。僕は無視した。
携帯の向こうでカタカタとキーボードを打つ音が聞こえた。
チャットの画面に「緊張してるの?何か喋ってよ。」という文字が出る。
僕もキーボードを叩いて「電話するだけでいいって言ったじゃない。」と入力した。
舌打ちする声が聞こえ、画面に「声を聞きたいんよー。」と出てきた。
僕は画面上で「電話するだけでいいって言ったから電話したの。」と答えた。
突然耳元で「ざけんな!どうせ男なんだろ!」と怒鳴り声が聞こえ、電話を叩き切られた。
画面で「違うの。処刑人が怖いの。」と答える。
「んだよそれ。知るかボケ。」というレスがつき、相手はチャットルームから出て行った。
僕は「二人目」と呟いてパソコンの電源を切った。
5月29日(水) 晴れ
昨日の電話男とは他に「渚」とやりとりしている。
こいつもまたかなりの暇人で真昼間からチャットができるくらいだった。
「渚」も非通知でいいから声を聞きたいと言われたがこっちでは断った。
「もっと親しくなったらいいよ。」と言ったら「それまで待つよ。」と言われ関係が続いた。
「紅天女」を溺愛する男ともチャットをした。
二人きりで会ったら何でも買ってくれるそうだ。
「会ってもいいよ。本当に買ってくれるならね(笑)」と言ったら絶対買うからと言って止まなかった。
「ケイ」になつく男は「惚れました。」と会いたがってる。
最初の痩せ男と「紅天女」はまだオフの話にはなってない。
僕もメールやチャットを繰り返していくうちにネット上の会話能力が上達し、
相手が気に入りそうな言葉も出てくるようになったり、
電話したがる相手をはぐらかす時の口実も覚えた。
準備としては上出来だ。
5月30日(木) 曇り
「ケイ」になついてた男に結婚を申し込まれた。
「結婚してくれなきゃ死ぬ。」と言う。
死ぬのを思い留まらせようとしたが「会ってくれないと嫌だ。」とゴネられた。
「紅天女」を溺愛する男も「欲しいもの何でも買うから。」としつこくオフを誘ってくる。
どちらもにも今週末には会えるように予定を調節すると言ってオフの約束をとりつけた。
電話男とオフの約束はできなかった。「渚」とはかなり親しい仲だったが
「電話もしてくれない相手と会えるわけないだろ。」と断られた。
こいつはそれでいい。
痩せ男にはチャットで「今度一緒に映画でも見ようよー。」と誘いを入れた。
乗ってきれくれたが、さすがに何かを学んだようで携帯の番号を求められた。
「持ってない。」と答えたら「それじゃ会えないよぅ。」と言われた。
今の「紅天女」は携帯電話は持つ年じゃないが、痩せ男は一人目なので、この頃はそこまでキャラが確立してなかった。
年齢も20前後と話してあるので、携帯電話を持ってないのはおかしいと感じたのか。
さすがに三人目ということもあって万全を期したいのだろう。
結局その場ではオフの話は流れ、多少の気まずさが残ったままチャットを終了した。
僕は黒くなった画面を指差し、痩せ男に向かって「それでこそ効果がある。」と言った。
また笑いそうになった。
5月31日(金) 晴れ
「ケイ」になつく男と「渚」溺愛男にそれぞれ「実は今しつこいメル友がいて困ってる。」と相談をした。
そいつを退治してくれたら会ってもいいともちかけたら二人とも承諾した。
急遽その「しつこいメル友」を罠にかけることになった。
明日誘い出すから先に追っ払ってもらい、その後合流する。
二人に「しつこいメル友」の容姿を伝えた。
電話男にもメールを送った。
明日しつこいメル友と会う約束があり、どうにか追っ払ってもらいたいと。
自分はどっちにしろその場にいるので是非来て欲しいとお願いした。
「気が向いたらね。」という返事が来た。
「それでもいいから。」と返した。
痩せ男に明日渋谷のハチ公前にくるようにメールを送った。
来ないと個人情報バラすと言っておいた。最寄駅を書いて「この駅、使ってるだろ?」と。
追伸として「処刑人がお前を狙うだろう。」という文章を添えた。
返事は来なかった。
6月1日(土) 晴れ
本当に来たのは三人だった。
眼鏡をかけたおじさんと金髪の少年と痩せ男。
どちらがどうなのかはなんとなく想像がついた。
電話男だけはどこかで高見の見物をしてるだろうと思った。
誰がどう声をかけたのか、気付いたら三人で揉みあってた。
僕は予想以上に騒ぎが大きくなったので始終興奮していた。
結局金髪の少年が勝利したが、大勢の人が喧嘩の様を見てたので気まづくなったのか、
うずくまってる二人を置いて独りで走りってしまった。
おじさんの方に「大丈夫ですか?」と声をかけてみたら「放っておいてくれ。」と言われた。
痩せ男が立ち上がって汚い言葉を掃き捨てておじさんを蹴り上げた。
おじさんの眼鏡にヒビが入り、うめき声をあげてのた打ち回った。
痩せ男は涙声でギャラリーに向かって「見るんじゃねぇ。」と叫んでよろよろになりながらもその場を後にした。
倒れてるおじさんにもう一度「大丈夫ですか?」と声をかけたらまた「放っておいてくれ。」と言われた。
間もなくおじさんは騒ぎをかけつけた警官に連れて行かれた。
僕はおじさんに向かってこっそり手を合わせた。
6月2日(日) 晴れ
痩せ男以外の三人からはメールが届いてた。
みんな昨日のことを知りたがってた。あの場にいたのは何者で、「渚」や「ケイ」とどんな関係があるのか。
僕は三人とも同じ文章で返事を送った。
「あれは処刑人の手下よ!やぱり噂は本当だったんだ・・・。」
「渚」溺愛男から返事が来た。これがおじさんの方か金髪の方かわからないが、そんなことはもう関係無い。
僕はチャットに誘い、「処刑人」にまつわる噂を延々と語った。
「処刑人」はネットに巣喰う正体不明の殺人鬼で、オフ会に紛れこんで誰構わず殺していくらしい・・・・
「くだらない。」と言われた。僕は「けど本当に怖いの。」と書いた。
「荒らしか?」と言われた。「酷い。そんなんじゃないのに。」と答えた。
「イタズラなら殺すぞ。」と言い残し、相手はチャットから去った。
そう思うのなら思えばいい。
いずれわかる。
第56週
6月4日(月) 晴れ
四人の女は既に何十人とやりとりをしている。
会いたがる奴はこの前の奴らだけじゃない。何人オフの誘いがあったか。
当然そのたびに断る。みんな言い分けは一緒。
「処刑人が怖いから。」
馬鹿にした奴はそのまま縁が切れた。
処刑人のことを知りたがる奴にはひたすら噂を吹き込んだ。
それが終わればメールのやり取りをやめた。
毎日増えては消えていくメル友たち。
延々と繰り返す。
6月5日(火) 晴れ
膨大に蓄積されたメールは読まずに捨てられていく。
四人のキャラも確立し、会話もパターン化してしまえばあとは使いまわしの文章を送るだけ。
届くメールなど僕の興味の対象外だった。
一日中パソコンの前にかじりつくと肩が懲り、目と腰が痛くなる。
通信料も相当なものになってるはず。
そうした現実的な悩みなど全てどうでも良くなっていた。
作業を続けることだけが僕の使命だった。
足りない。
まだまだ足りない。
6月6日(水) 晴れ
あの痩せ男からメールが届いた。
「紅天女」あてに「お前は渚と同一人物だろう。ARAもそうじゃないのか?」と。
「そうだよ。」と一言だけで返した。
一時間もしないうちに「てめぇふざけるなお前のせいで俺は・・・」というやたら長いメールが送られてきた。
全部読み終わる頃には僕はこの男を殺したい気持ちでいっぱいになっていた。
僕の使命も知らずに好き勝手言う奴は許せない。
そんな奴はみんな死ねばいいと思う。
パソコンの画面に浮かぶ不愉快な文字を眺めてるうちに
こいつに死んで欲しいのなら僕が殺せばいいのだと気付いた。
とても簡単な話だった。
6月7日(木) 雨
一日に大量にメールが届く中、あの痩せ男からのメールがひときわ目立つ。
メールで罵声を浴びせてくるのあいつしかいない。
「決着つけてやるから顔を出せ。」と書いてあった。
何をどうがんばったところで奴には文章による攻撃しか出来ない。
個人情報を知られてると思って焦ってるのだろう。
僕が無視し続ければ奴は永遠に目に見えない恐怖に怯えることにあんるだろうか?
そこまではいかないだろう。いずれは忘れてどうでもよくなる。
であれば今しかない。
準備が必要かと思ったけど特別必要なものなど無かった。
前に一度やったことがあるから同じようにやればいい。
あの時の奴はどんな顔をしてたっけ?
思い出せなかった。顔も、声も、名前も。
はるか昔のことだから。
6月8日(金) 雨
メールひたすら謝ってみた。
奴は「許せない。」と一点張りで、メールのログを公開すると言って来た。
それだけは勘弁して下さいと言うと「顔を出せ。」と返事をよこした。
僕はそれに従い、早速明日会うことになった。
すっぽかされるのだけが心配だったけど、会いたがってるのは奴の方だからそれはないと思う。
今度は僕の素の姿を伝えておいた。男であることも正直に話した。
僕がやったのと同じように、待ちぼうけをくらう可能性もある。
それについては僕は全く問題ない。晒し者にされても僕は平気だ。
僕の負った使命の前に羞恥心などちっぽけなものだから。
明日のことが成功すればまた一歩先に進める。あの子に近づける。
うまくいくといいなと願った。
6月7日(土) 晴れ
人通りの少ないところへ誘ってきたのは奴の方だった。
駅で「お前か。着いて来い。」といわれてそこまで歩くのに僕らは一言も喋らなかった。
ビルの裏まで連れてこられたとき、奴が再び口を開いた。
「仲間呼んであるからな。抵抗しても無駄だぞ。」
僕は黙って頷いた。奴の目はとても真剣だった。
「わかってんよ。どうせ遊びのつもりだったんだろ?馬鹿が。調子に乗りすぎだ。」
「もう顔覚えたからな。俺の個人情報漏らしたら殺すぞ。」
「ネットを甘く見るなよ。てめぇみたいな馬鹿は何度も見てきたよ。そいつらみんな痛い目に会ってもらったけどな。」
「とりあえず今日はヤキ入れだ。いいか。てめぇが悪いんだぞ。」
相手が話をしてる間僕は何も言わなかった。
やがて奴は僕を殴り始めた。
僕が倒れても尚蹴り続け、何度も何度も罵声を浴びせてきた。
最後には唾を吐いて「二度と馬鹿な真似するんじゃねぇぞ。」と叫んでた。
その時僕は初めて「はい。」と声を出した。
奴は背を向けてその場を去ろうとした。
刺した後、少しひねって体に空気を入れてやるといいとどこかで聞いたことがあった。
ひねった瞬間、「ぐえ。」と鳥の鳴いたような声が聞こえた。
殺したというにはあまりに実感が無い。
本名はもちろん、どこに住んで、普段はどんなことをしてるのかなどまったく知らない。
こいつの名を口に出したことなど一度も無い。
僕は手に血がつかないように背中から慎重ナイフを抜き取り、鞄にしまった。
帰りの電車の中で、体に「処刑済」とでも刻んでおけばよかったと後悔した。
6月9日(日) 晴れ
洗ったナイフをパソコンの横に飾り、第一歩の達成を祝った。
もう「処刑人」はただの噂じゃなくなった。
あの処刑人のように知り合いを殺すような中途半端なものじゃない。
誰構わず殺す本当の殺人鬼だ。
一緒に住んでた人も去り、現実の生活も切り捨てた。
お金はあとどれくらい残ってるだろう?もうそんなに長くは持たないはず。
ここにいるのは僕一人。
残された時間の中で、僕は誰の力も借りずあの子を呼び戻してみせる。
そのためには処刑人を。あの頃の僕らが追ってた処刑人を。
僕がなる。僕がネットに巣食う殺人鬼になる。
そうすればきっと追ってきてくれる。
探し当ててくれるはず。
僕が見つけた処刑人はニセモノだ。本当の処刑人はここに。
僕だ。美希ちゃん。処刑人はここにいるよ。
早く僕を、見つけてくれ・・!
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第15章