絶望世界 もうひとつの僕日記

第2部<外界編>
第16章(最終章)


第61週

7月8日(月) 晴れ
家はとても静かだった。
両親は毎晩遅くまで仕事で出かけてるらしい。
家にいるのは僕と・・・早紀。
早紀は学校に行ってなかった。
また引きこもってるようだ。
僕が家に戻った理由について、早紀は何も聞いてこない。
気まずくて聞けないのかもしれない。
「仕事を辞めた。」と答えるつもりだったけど
このまま何も聞かないのであればそのままでいい。


7月9日(火) 曇り
久々に自分で料理をした。
昼ご飯にチャーハンを作った。腕は衰えてなかった。
居間に早紀が降りてきたので、ついでに早紀の分も作って一緒に食べた。
早紀は僕の勧めるままに黙々とチャーハンを口に運んでた。
僕はふと思いついて「学校はどうしたんだ。」と聞いた。
早紀は目も合わさず「別に。行きたくないだけ。」と答えた。
そこで僕は「学校行けよ。」と言った。
別に行かなければならない理由は無い。
早紀のひきこもりは今に始まったことではない。
今更親が嘆くわけもない。
僕の言葉は全く意味の無くそんなことを言ってしまった。
早紀は少しムっとしてごちそうさまも言わずに部屋に戻っていった。
居間に残された僕。しばらくしたら急激に恥ずかしさが全身に染み渡った。
汗が出た。耳も赤くなった。涙が出そうだ。いたたまれない。
何説教してるんだよ。こんな僕が。僕なんかが。僕のくせに。
早紀に何か物を言える立場じゃないだろ。偉そうにしやがって。
何が「学校行けよ。」だよ。僕が言うな僕が。僕のくせに生意気だ。
岩本亮平。お前だよお前。この虫野郎。
虫ケラ。


7月10日(水) 晴れ
親に早紀に顔を合わせるのが恥ずかしくて部屋から出られなくなった。
自分を責めずにはいられなかった。
あの子が愛しかった。あの子は僕の存在を許してくれた。
家に来てくれるだろうか。この部屋に来てくれるだろうか。
その願いはきっと叶わないだろうとわかってた。
戻ってくる可能性のあったあのアパートはもう捨ててしまった。
だからこの家に来てくれる可能性は無い。
いや・・・あの子はこの場所を知ってる。
僕の家を知ってるはず。調べようと思えばできるはず。だから可能性はゼロじゃない。
でもそれは奇跡に近いことだ。
あの子がこの家に来たらそれこそ・・・
畜生。やっぱり有りえない。可能性ゼロだ。
少しでも希望を持った僕が馬鹿だった。
駄目だ。何もかも駄目だ。
あの子に会いたくて処刑人になったのに。
ただ逃げてるだけだ。警察から逃れるために。
逃げ回ってるだけじゃあの子は来ない。会えない。
馬鹿だ。僕は馬鹿だ。こんなところで何やってるんだ。
ごめんよ早紀。こんな兄で。
こんな兄を家に抱え込んでお前も悲しいだろう。
ごめんよ。ごめんよ。ごめんよ。
許してくれよぅ


7月11日(木) 晴
早紀に申し訳なかった。
ボロボロになるまで尽くしたのに、僕は何も得られなかった。
そしてそのことを嘆いてる。自業自得のくせに。
早紀は強い。引きこもってるのが何だ。
ちゃんと生きてるじゃないか。
早紀だって散々な目に会ってきたはずだ。
生きるのが嫌になったはずだ。けど耐えてる。
どんなに最悪な状況になっても、生きる意志を失ってない。
外に出たくなくても、引きこもってても、とりあえずは生きようとしている。
死のうとしない。それだけで充分立派に生きてる証拠だ。
それに比べて僕は何だ。
こんなに死にたがってる。このままあの子に会えなかったら自殺しようと思ってる。
人を殺してしまったし。警察にも追われてるし。生きる楽しみなど無いし。
近いうちに死のうと思う。
恥ずかしい。ちゃんと生きてる早紀に申し訳ない。
でも死ぬのをやめるつもりが無い。
どうしようもないんだよ。止められないんだよ。
死なせてくれよ。早紀。僕が死んでも何も言うな。
お願いだからそっと・・・そっと死なせてくれ。
処刑人になり損ねた。失敗した。僕は賭けに失敗したんだ。
だから死ぬしかないんだ。早紀。わかってくれ。
隣でひっそり僕が死んでいても、何も言わないでくれ。
死体はゴミ捨て場にでも捨てればいい。
僕は人生に失敗した。敗北者だ。
早紀、頼む。僕を見るな。
見ないで


7月12日(金) 雨
早紀に写真を撮られた。
ご飯べ終わって部屋に戻ろうとした時、早紀が居間に降りてきた。
「お兄ちゃん、こっち向いて。」と声をかけられ、振り向くと早紀はインスタントカメラを構えてきた。
そこでパチリと。何の前触れも無く。
早紀は何かの冗談のつもりなのかクスクスと笑って部屋に戻っていった。
僕は一瞬何が起きたのか理解できなかった。
僕も部屋に戻り、先ほど起きたことを考えてた。
しばらくすると涙が込み上げてきた。
僕は自分の姿が記録に残されたことが恥ずかしくてたまらなかった。
恥を晒した。僕のこの腐った姿が映像としてこの世に残されてしまった。
ひどいよ早紀。なんでそんなことするんだよ。
僕なんかを写真にとって何が楽しいんだよ。
見るなと言ったのに。なんてことを。
恥ずかしい。恥ずかしくて気が狂いそうだ。
早紀。何で僕にこんな恥をかかすんだよ。
ひどい。ひどすぎる。
ひどいょ。


7月13日(土) 雨
嘆き続ける中で何かが走った。
なぜ早紀は昨日僕なんかの写真を撮ったのか?
冗談で写真を撮るなんてことがありえるだろうか。
あの早紀がそんな真似をするわけがない。
であれば、何か理由があるはず。
ここまで考えたとき、気付いた。
今のこの僕の格好。
無精ひげが生え、ボサボサの頭。
なんか、あの時の僕に似てないか。
この髪をちょっと茶色くして、変な眼鏡でもかけてみたら・・
「奥田」と名乗った時の僕。

恐ろしい考えが頭に襲い掛かる。早紀が写真を撮った理由。
誰かに見せるためか。僕のこの姿を。誰に。友人に。早紀の友人。一人しかいない。
田村さん。今の僕の姿を見て「奥田」だと気付くか。
遠藤はわからなかった。秋山もすぐには気付かなかった。
けど田村さんは・・・

急激に思い出していく
恐怖が加速する
あの夜
田村さんは眼鏡を外した「奥田」を見てる
暗闇の中だと髪は全て黒く見える
田村さんは僕の顔を見ていた
目を潤ませて
僕が視線を外してもずっと
ずっと僕を見ていた
当時の僕の名を囁き
僕のこの顔に触れ
頑なに僕の顔を
僕の顔を見続けていた
頭に刻み込んでいた
僕の姿を

そして早紀
お前はなぜ僕の姿を田村さんに確認させる

知ってるの  か


7月14日(日) 曇り
早紀お前はどこまで知ってる
僕がどれだけ恥ずかしいことをしてきたのか
僕がどれだけみじめで哀れな人生を歩んできたのか
僕がどれだけ苦しんだのか
僕だどれだけ変ってしまったのか
僕がどれだけ
知ってどうする今更知ってどうなる
お前が何をどうやったって状況は変らない
僕はいずれ捕まるだろう間もなくこの家だって突き止められるだろう
玄関に警察の人が来た時がタイムリミットだ
その時僕は死ぬつもりだ
それまでは自分の愚かさに嘆き悔恨にまみれてただひっそりと虫のように生きるつもりだ
いつ踏まれてもいいように
早紀お前はそれすら許さないというのか
お前だって苦しい時間を過ごしたはずだ辛かったはずだ
忘れたいはずだだからもう何も詮索する必要なんてないんだ
僕は確かにお前のしてきたことを知ってる聞かされてる
でもそのことをお前の前で口にしたこと無いよな
兄に知られたとなったら恥ずかしくて生きていけないだろ
だから僕は何も言わない
お互い様だろなぁ干渉するのはよしてくれよ
よせ
よして下さい
お前に知られるのだけは耐えがたいんだ
お前を顔を会わすだけでも辛いのに
それ以上の仕打ちをお前は

足りないのか

俺にもっと苦しめと言うのか

泣けと言うのか

今すぐ死ねと言うのか

残されたささやかな時間さえ潰そうというのか

畜生

畜生

畜生

畜生

畜生

畜生

畜生

畜生

畜生

畜生

畜生

畜生

畜生

畜生

畜生

畜生

畜生

畜生

畜生

畜生

畜生

畜生

ちくs

・・

・・・・・・!!



第62週
7月15日(月) 晴れ
恐ろしい何かが芽生えた
僕の中で急激に成長してゆく
押さえ込まれ、一度は消滅したはずなのに
もう止められない
本能的に理解してしまった
頭の中で否定の言葉を繰り返しても
沸いてくるのは決定的な意志
駄目だ
何をどう考えてもそれが正しいとしか思えない
拒否する道理が見つからない
かつての僕なら止められたかもしれない
でももう駄目だ
人を殺した今では
関係無い人まで巻き込んだ今では
「処刑人」となった今では
止まらないぃぃ


7月16日(火) 晴れ
足が動く。隣の部屋へ行こうとする。
手で押さえ込む。足はなお踏み出そうと抗う。すごい力。
時間がないぞと誰かが叫んだ。
聞いたことある声だ。
早くしろとせかす。すぐ済むことじゃないか。サッサと済ませようぜ。
かつての「処刑人」を喰え。超えろ。
そしたら完成するんだ。お前は本当の「処刑人」になれるんだ。
俺達が求める「処刑人」だ・・
その声は奥田だった。
奥田の亡霊に向かい、僕はやめろと叫んだ。
違う。お前は処刑人なんてどうでも良かったんだ。
ただ楽しく、下らないことして遊びたかっただけなんだ。
処刑人なんて玩具に過ぎない。存在なんてこれっぽっちも信じてないんだ。
追ってるフリをするだけで良かったんだ。
当然だろうな。そもそも処刑人のウワサなんてのは無かったんだから。
処刑人なんてお前らがでっち上げたものなんだから。
僕をワナにはめて、影で二人して笑うためのものでしかなかったんだから。
奥田が笑った。笑いながら言い返してきた。
「だからどうした。今更そんなこと言って何になる。
もう戻れないところまで来ちまったってのに。
お前の妹が俺達の思惑通りに、いや思惑を超えて想像以上に動いてくれたおかげで
処刑人は実際に存在するものとなった。
周囲を巻き込み、冗談じゃ済まなくなった。
だから俺達も協力したんだよ。処刑人がより処刑人らしくなるように。
そんなことしたら収集つかなくなることなんて目に見えてたのに、な。」
僕は反論した。
なぜ止めなかったんだよ。お前が止めれば良かっただろ。
例えあの子がうろたえてたって、お前は冷静な判断を下せたはずだ。
どこかで止まってれば、僕だって、早紀だって・・・美希ちゃんだって。
お前だって死ぬ羽目にはならなかったはずじゃないか。
奥田は笑い続ける。
「止められなかったんだよ。考えてもみろよ。逆の立場で考えてみろよ。
親友と、親友の妹までワナにはめておいて、途中で『全部冗談でした』で済むと思うか。
全ては解決してからだ。全部終わってからなら笑って話せる時が来るはずだった。
それが来なかっただけの話だ。
解決なんて、終わりなんて無かったからな。泥沼だよ。
けどお前は良かったんじゃないのか?
俺が散々悩んでる中、お前はしれっと美希をモノにしやがった。
俺達の、俺の悩みなんか何も知らず。あの時ばかりは全部話しておけば良かったと思ったよ。
処刑人がどうだとかそんな話じゃないぞ。
はは。お前はもう知ってるんだったな。俺達が抱えてた闇を。
今思えば、処刑人遊びはその闇を・・・」
僕はうるさいと叫んで奥田の言葉をさえぎった。
奥田は話すのをやめなかった。
「亮平、お前だって失敗したじゃないか。
全部知った時、確かにお前は受け入れようとした。
けど結局は手放してしまっただろ。自分から。耐えられなくなって。
それがほら、今まさに挽回のチャンスが来てるんだ。
最後のチャンスだぞ。時間がないことくらいお前もわかってるだろ。
ここまで来ればやることは一つだろ。
ほら、早く完成させろ。『処刑人伝説』を。
『処刑人』はちゃんと実在してることを証明しろ。
そして過去を塗り替えろ。俺達は何かの冗談で処刑人を追ってたわけじゃない。
実在する『処刑人』を追ってたんだ。
これなら誰も傷つかない。誰も悩む必要なんてない。
冗談が冗談で済まなくなったことを嘆く必要なんてない。
俺達は最初から真剣だったんだ。
真剣に追わなければならない相手を、真剣に追っただけの話。
だからほら。さっさと消せよ。虚像の方を。
冗談であることをねじまげた本人を。
ニセモノの処刑人を。」

僕はいやだと叫んだ。
叫んだつもりだった。


7月17日(水) 晴れ
早紀が僕の元にやってきた。
一人で細々とご飯を食べてると早紀が居間に下りてきた。
早紀は当たり前のように僕の隣に座り一緒にご飯を食べ始めた。
隣に早紀がいるだけでとても緊張して、ご飯がうまく喉を通らなかった。
苦しさに耐えかねて席を立とうとした時、早紀が口を開いた。
「あ、そうだ。」
僕の方に顔を向けた。
「お兄ちゃん、奥田って人知ってる?」

かろうじて保っていた何かが、プツリと音を立てて途切れた。

早紀と目が合った。冷たい視線が突き刺さる。
何か答えなきゃいけないと思った。
できなかった。僕の身体はもう、自分の意志では動かなかった。
手も、足も、目も、口も、うまく力が入らない。
「田村さんにでも聞いたの?」
僕が聞き返したらしい。頭に言葉が響き渡る。
それは僕の声じゃないように思えた。
喉が勝手に震えて音を発していた。
「別に。何でもないから。」
早紀の顔は青ざめていた。僕の変化を察したのかもしれない。
慌てて部屋に戻る早紀。もっと言うべきことがあるだろう。
後を追おうと思ったけど、やっぱり足は動かなかった。

早紀が消えると、居間に光が差し込んできた。
とても綺麗な光が部屋に満ちる。
まぶしく輝くその光の中に、僕は何か見つけ出したようだ。
僕が手を伸ばしてる。見つけたものをつかもうとしてる。
どうやらつかめたらしい。僕の口元が少し笑ってた。
僕は喜んでる模様だ。


7月18日(木) 晴れ
晴れやかな気分だ。
僕の部屋の中が光ってる。
ついこの前までの苦しさはやがて来る解放への道のりでしかなかった。
もうすぐだ。途方も無かった道のりにもようやく終わりが見えた。
光ってる。僕の手まで、腕まで、足まで、全身が光ってる。
白くまぶしく光ってる。
光る僕は立ち上がり、隣の部屋の前まで歩いた。
歩いた後には光がこぼれた。
ドアを叩き、早紀に話し掛けた。
「早紀、どうしたんだよ。メシくらい食べろよ。」
決して妹の身体を心配しての言葉ではなかった。
中から「いらない。」というぶっきらぼうな声が聞こえた。
とても素敵な声だった。


7月19(金) 曇り
壁に耳を立て、隣の部屋の音を聞いた。
布団のすれる音、床のきしむ音、咳き込む音。
早紀の吐息さえ聞こえそうな気がした。
壁に手を当てると光で透けてベッドに横になる早紀の姿が見えた。
愛しい妹が不安に怯え、悩み、疲れ果てて眠っている。
僕に怯えてる。僕の闇を覗いたばっかりに。
かわいそうに。すぐにでも抱きしめてやりたかった。
昨日と同じように、早紀の部屋を訪問した。
「早紀、大丈夫か?体壊したのか?」
ドア越しに優しく声をかけてやると、早紀は「別に。」と答えた。
早紀の声は震えていた。不安を隠そうともしない。
筒抜けなのにもかかわらず、お前はまだその中でがんばるつもりか。
いつまでいるんだ。お前だって限界だろう?
ドアに手をかざし、「大丈夫。もうすぐだ。」と声をかけた。
早紀からの反応はなかった。聞こえてなかったのかもしれない。
早紀。もうすぐお前はその苦しみから解放される。
だから安心しろ。僕にまかせておけ。
なぜもっと早くそうしてあげなかったのか不思議でならない。
全ての仕組みを知っていれば、これが最も早い解決方法だったのに。
何かのルールに反するからだろうか。
そう思った途端、無性におかしくなった。
ルールって何だよ。そんなのどこにあるというんだ。
僕は自分が求めてるモノが手に入ればいい。
例え裏切ろうとも。


7月20日(土) 晴れ
語りかけるのも今日で最後になってしまった。
「早紀、一度ゆっくり話がしたいんだ。」
ドアの向こうに早紀に向かって、僕はそう言った。
しかし早紀には聞こえなかったようだ。
しばらく何の反応もなかった。
「おい早紀、聞こえてるのか?とても大事な話なんだ。」
早紀は無視を続けた。ガタガタと震えて身体を壁にぶつけてる振動が伝わってきた。
寝てるわけじゃない。呆けて聞こえてないだけなのか、返事をしたくないのか。
僕が思いをめぐらせていると、早紀の声が聞こえてきた。
「お兄ちゃん。あなたがカザミなの?・・・処刑人なの?」
僕は声を上げずに笑った。
あはは。何か勘違いしているぞ。
顔が崩落ちるほど笑ったけど、ドアの向こうにいる早紀には僕の顔は見えなかった。
カザミじゃないさ。カザミは奥田だよ。
カザミが奥田で僕は奥田。ははははははははは。わけがわからないね。

部屋に戻ると、僕の身にまとった光は一層輝きを増し、限界に達した。
身体が溶け出してしまいそうだ。この脳みごと。心ごと。
光に飲まれて真っ白に。
実行するのは明日にしてあげようと思った。
早く苦しみから解放してやりたかったけど、最後にもう少しだけ生きる実感をもたせてやりたかった。
早紀は気付いてるだろうか。その苦しみこそが生の証拠だと。
使命の果てが見えてしまった僕はもう・・・終わってる。
目的が果たされたら死ぬから。
この手にあの子が戻ってきても、そのまま生きていける権利など僕にはない。
さぁ。最後の仕事をしなくては。
早紀を。何も知らない哀れな自分の妹を。
自分の為だけに殺すんだ。
終わらせるんだ。
僕の手で。


7月21日(日) 晴れ
ナイフか何か用意しようか悩んだ。
早紀を相手に道具を使うのやめた。
僕のこの手で絞め殺そうと思った。
相変わらず早紀は部屋から出てこない。
部屋の中で僕に殺されるのを待ってる。
早紀の望みどおり今日で終わらせた。

ドアを叩いた。早紀は何も言わない。
「早紀、話があるんだ。」
反応が無い。ドアのカギはかかったままだった。
力を込めた。硬くロックされてそれ以上開かない。
「なぁ早紀。わかったんだよ。俺は何をすべきなのか。」
それはこのドアを開けることだった。
このドアを開けることこそが僕のすべきことだった。
「全ての罪を裁かなくてはならなかったんだ。」
僕の罪だ。僕は自分の罪を裁かなければならなかった。
「お前を例外扱いしてはいけなかったんだ。お前は被害者だが、同時に加害者でもある。
身に覚えがあるだろ?であれば、お前もまた裁かれなければならない。」
早紀を裁くこと。早紀に真実を伝えることは僕にとって最大の罪滅ぼしだった。
「本当はずっと前からわかってたんだけどな。今、やっと決心した。」
本当に。全てを知ったあの日。すぐにでも早紀に全てを伝えていればよかった。
それをしなかったのは怖かったからだ。
早紀が「処刑人」のままでも、いずれは忘れ去られる可能性があった。
忘れ、無かったことに、消してしまうこともできた。
けど真実を伝えれば、一生忘れられない傷を与えてしまうことになった。
ヘタすればそこで全てが終わるかもしれなかった。僕の人生も含めて。
だから怖かった。
今日はもう怖くない。僕は早紀に全てをぶつけることができる。
「早紀。お前への断罪が必要だ。ここを開けろ。」
早紀の罪はただ一つ。「気付かなかった。」こと。
奥田たちも、僕も、田村さんたちも含め、みんな完璧ではなかったはずだ。
ボロを出しかけたことがあったと思う。
勝手な言い分かもしれないが、そこで早紀自身が気付いていば何かが変ってたはずだ。

ドアノブに手をかける手の光が増した。
まばゆいほどの光がほとばしり、信じられないほどの力が沸いた。
ドアノブ少し引いてやると軽い音がしてドアが開いた。
ドアノブは壊れていた。ドアが半分開いた。
部屋の奥に早紀がうずくまっていた。
怯えた目で僕を見る。
なんだ。無視してたんじゃなくて、怖くて声が出せなかっただけか。
「お前を裁き、全てをゼロに戻す。」
早紀の罪は真実を伝えることで裁かれる。
「死」という絶対的な真実だ。
早紀の方に歩み寄る。
早紀は子供のように泣きじゃくり、震えていた。
何か言おうとしてるが嗚咽が邪魔して声にならない。
抵抗する様子もない。手が哀れなほど震えてる。
腰も抜けてるようだった。恐らくもう自分の意志で身体を動かせないのだろう。
早紀の首に手を伸ばす。
思いのほかやわらかい早紀の首筋に、僕は指先をめり込ませていった。
早紀が口を開く。しかし嗚咽が増すばかりでやはり声は出せない。
僕は指先に力を込めた。
早紀は絶望的な表情で目で助けを訴えていた。

早紀。お前もしかしてとっくに気付いてたのか。
気付いてたのに、怖くて何も言えず・・・・・

早紀の涙が僕の手の平を伝った。



第63週
7月22日(月) 晴れ
早紀の死は僕たちを解放してくれた。
奥田。お前たちが始めたことは、決して冗談じゃなんかじゃない。
少なくともお前自身は最初から真剣だった。
どうにかしてあの子の闇を解放しようとしてたんだよ。

部屋の掃除をした。
奥田たちとの写真か何か出てくると思ったけど
よく考えたらあれはもうガラクタの山の中に埋もれていた。
この家には思い出のものは何もない。
奥田の遺志を継ぐため、まずは形からと料理人になる決意をした時
何が良いのかもわからず買った鍋は、真っ先に壊してしまったんだった。
杉崎さんたちは元気だろうか。ああいう普通の人たちこそ幸せに生きるべきだ。
僕らの抱えてるものなんか知ってはいけない。
巻き込んではいけない。
何の挨拶もせず別れることになるのは悪いなと思った。あれだけ世話になったのに。
心配をかけてしまってた。迷惑をかけてしまった。
死ぬ前に謝罪だけはしけおかなければと思った。
床に座り、あのソバ屋の方向に向かって土下座した。
今までありがとうございました。本当に感謝しています。
どうかお元気で。


7月23日(火) 曇り
身の回りの整理は終わった。
ここでやるべきことはもう無い。あとは行くべきところへ行くだけだ。
部屋を片づけてる最中、色んな事を思い出した。
ここに至るまでの道のりや、巻き込んでしまった人々のこと。自分のことも。

美希ちゃんを失ってすぐ、間髪いれずに別の女性と住んでた僕は
とても駄目な人間なのかもしれない。けどそれは仕方が無かったんだ。
まだ整理がついてなかったから。奥田の死、そして裏側を知らされたショック。
どれも僕をマトモな神経のままではいさせてくれなかった。
冷静になった時、まず気付いたのは仕事をしなければ二人で食べていけないという現実だった。
アルバイトでは稼げなかったし、いつ切られるかという不安もあった。
でもやっぱり一番大きかったのは奥田のことだと思う。
奥田の人生をなぞり、あいつの心を少しでも覗いてみたかった。
杉崎さんは快く受け入れてくれ、間もなく僕は料理人という仕事を好きになった。
現実的な生き方をしてると色んなことを忘れそうになった。
でも家に戻り、彼女の顔を見ると僕が抱えてる問題を強制的に思い出してしまう。
彼女はネットでの監視を怠っていなかった。
常に目を光らせ、事の成り行きに敏感に反応していあ。
田村さんが新しいグループの旗揚げをした時、真っ先に潜入するよう命じられた。
いや、僕は自ら進んで潜入したんだった。僕が一番警戒していたことだったからだ。
あの時はかなり緊張した。勝負どころだった。
彼女は変装なんてする必要ないと言ったけど、
僕は最悪の状況を考えてできるだけの対策はとっておきたかった。
もし思いのほか早紀と会うことになってしまったら、潜入作戦は全て水の泡だから。
他にも色んな心配をしていたけど、実際潜入してみるとそれほど難しいものじゃなかった。
まず僕はもっと大勢来るのかと思った。
けど僕の心配をよそに集まった外部の人間は三人だけだったし、それ以上増える様子もなかった。
さらに、田村さんはなかなか処刑人の真実に迫ろうとしなかった。
もったいぶって遊ぶだけ。こいつらは別に放っておいてもいいんじゃないかと思うほどだった。
もちろんそんな甘い状況は甘く続かなかった。
田村さんの遊びに深く関わるに連れ、当然早紀との接点も近くなった。
仲間の一人もお遊びの状況に耐え切れなくなって暴走を始めた。
あのグループ内ですら表と裏の状況が出来上がり、僕はその狭間に揺れた。
名前を思い出した。川口だ。
川口が集めてくる情報は僕は全部知ってることだったけど
細江さんに会うのは計算外だった。そんな簡単に会えると思ってなかったし、僕もすっかり忘れてた。
何か問題になりはしないかと心配になった。
けど彼女は「別に問題ない。」と言ったので川口に付き合うことにした。
実際、細江さんは特に何の情報も漏らさなかった。
川口の暴走は止まらず、やがて田村さんを手にかけた。
そして結局はメンバーみんなであの下らないゲームに付き合わされることになった。
ゲーム中何度も危機的状況に陥ったのに、最終的に僕は生き残ってしまった。
「変装」が効いた場面もあったし、ただ単に運が良かっただけの時もあった。
猿達の行動などで僕の抱えたどす黒い運命に影響を与えることはできななかったということだ。
あの時だって本当に早紀を殺すつもりだったんだ。
でもできなかったのは、僕が弱かったからなんだと思う。
その弱さで、僕は彼女すら手放してしまった。

そのせいで僕は完全に壊れてしまった。


7月24日(水) 晴れ
外はとても暑そうだ。
部屋の中も蒸し暑かったけど、僕は汗をかかなかった。
目をつぶり、部屋に寝転がる。
熱気が脳に進入し、僕の過去をかげろうの向こうに映し出した。

崩壊の始まりはやはりあの時だったのだろうか。
奴らがゲームを始めるとき、早紀の名が出たときだ。
知ってたとはいえ、やはりいざ奴らの口から早紀の名を聞くとショックだった。
非現実的に思え、頭がしばらく動かなかった記憶がある。
周囲の会話など聞かず、僕は静かに早紀を殺す覚悟を整えていた。
しかしそれは中途半端なものでしかなかった。
うまくいけば殺さずに済む可能性があったから。
その可能性に甘えていた。
実際、早紀を殺さずとも奴らを追い返すことができてしまった。
そうして僕の意思に全てがのしかかってきた時、僕はやり遂げることができなかった。
第三の選択肢があったことにも気付かず、僕はただ自分の失敗に、自分の弱さに嘆いた。
僕はその弱さを彼女のせいにした。
彼女は何も言わずに出て行った。そして二度と僕の元には戻らなかった。
その部分に関して、僕は心のどこかで悩んでたのかもしれない。
いくら美希ちゃんと彼女が別人とはいえ、彼女は僕を支えてくれてた。
美希ちゃんを追うのはやめ、彼女と暮らすのも悪くないんじゃないか。
この誘惑も、今では面と向かい、はっきり答えることができる。
そんな選択肢有りえない。美希ちゃんでなければ駄目なんだ。
僕にとっても、彼女にとっても。
それが全てを終わらせるゴールだから。

壊れた僕は、かつて奥田と美希ちゃんが僕にしたことをなぞった。
不特定多数に。何も知らずに踊らされる「僕」をひたすら増やし続けた。
その中の一人を殺した。名前も顔も知らない奴。
自分は人を殺せることを確認したかった。
川口を殺したのは「奥田」だ。しかも刺さなければならない状況だった。
そんなんじゃない。状況に流されない、無意味に人殺しができる。
このことを自分で確認したかたった。
自分自身には証明できた。
でも足りなかった。満足できなかった。
僕が自分で確認したことでなく、きちんとアピールしたかった。
処刑人が実在することを。そうしてまた一人殺した。
それが致命的だった。もうそれ以上の「殺し」はできなくなった。
僕の時間は決定的に削られた。
そして逃げた。早紀の元へ。
そこで気付いた。早紀こそが僕を終焉に導いてくれる女神だと。
事実、早紀は見事に僕を導いてくれた。

さて、そろそろ行くか。
早紀の示してくれた道へ。


7月25日(木) 晴れ
外に出ることは危険だとわかってる。
でも捕まる気はしない。早紀が見守ってくれてるから。
僕は外に出て、まっすぐ目的地に向かった。
電車に乗っても誰も僕を見ていない。誰も話し掛けてはこない。
敵はもういない。僕はビクトリーロードを進んでるのだから。
達成者だけが歩める道だ。
僕は大手を振って突き進んだ。

その場所に着いた。前に立ち、上を見上げた。
みすぼらしいオンボロのアパート。古びてるけど、大きさからすると部屋数は割とあるかもしれない。
表札を確認する。間違いない。
彼女はここにいる。

ドアを叩いた。返事がない。
もう一度叩く。返事がない。
さらに叩くと、「どちら様?」と女性の声が聞こえた。
僕は答えた。「あの、娘さんに会いたいのですが。」
「だから、どちら様ですか?」
警戒して低い声に変った。
僕はそんな声を無視し、ドンドンドンドンドンドンドンドンと何度も何度も何度も叩いた。
中で「だからどちら様なんですかッ。」と叫ぶ声が聞こえる。
僕はさらにドアを叩いた。
「やめてください!今行きますから!」
やがて家の中をドタドタ走る音が鳴った。

ドアが開く。
半分開いたところで、中年女性の不機嫌そうな顔が出てきた。
「一体何なんですか。」
僕はドアをこじ開け、中に入った。
「何するんですか!」
その女性が僕の腕をつかみ、玄関を上がろうとする僕を制した。
僕は女性の方に顔を向け、事実を告げた。
「あなたの娘さんに会いに来た者です。」
腕をつかむ女性の手に力が込められた。
「あの子はいませんよ!もういないんです!」
僕は力ずくで手を振り解いた。「あっ!」と小さく悲鳴をあげ、その女性は背中を壁にぶつけ、倒れた。
倒れても尚僕の方を睨む。「あの子はもう死んだのよ!」
僕は笑って答えた。
「大丈夫ですよ。僕は警察じゃありません。本当に、あの子の友人なんです。」
女性はまだ疑いの表情をやめなかったが、それ以上反論してくる様子も無かった。
ゆっくり起き上がり、開いたままになってたドアを黙って閉めていた。
僕はその場を後にし、玄関を上がった。

居間以外に部屋は二つあった。ドアがある。
その一つに赤い文字で「立ち入り禁止」と書かれてるものがあった。
ここだ。
ドアノブを回すとあっけなく回った。カギはついてないようだ。
僕はドアを開け、中に入った。
彼女はそこにいた。

「派手な登場ね。あんまりうるさくすると近所迷惑よ。」

「構わないさ。あの程度じゃ誰も文句言わないよ。」

「ああゆうのお母さんがうるさいのよ。静かにしろって。」

「なら警察にでも通報すればいいじゃないか。」

「いじわるね。できないことくらい知ってるくせに。」

「まぁね。そんなことしたらみんな捕まっちゃうもんね。」

「そゆこと。で、何?」

「何って?」

「いや、何しに来たのって意味。一応聞いておこうかなって思って。」

「わかってるくせに。」

「だから一応、よ。」

「なるほど。」

「うん。」

「今はカザミって名乗ってるんだって?早紀がそのようなことを言ってたよ。」

「まぁね。あとは真・処刑人とかかな。ってそんなこと聞きにきたの?」

「違うよ。」

「じゃあ・・・。」

「早紀を殺したんだ。」

「・・・・・・・・・・・・・そう。とうとうやったんだ。」

「ああ。だから僕もここに来る決心がついた。」

「うん。」

「用事というのは他でもない。あの子に会わせ欲しいんだ。」

「あの子・・・ね。」

「そう。渡部美希に会いたい。」

「前にも言ったんだけど・・・もう無理よ。美希は死んじゃったんだから。」

「違うね。最後の希望が残されてる。」

「最後の希望って?」

「君だよ。」

「・・・・ねぇ。もしそうだとしても、私がどうしても美希には会わせられないって言ったらどうするの。」

「会わせてくれるまでここで待つさ。」

「ここで?私の家よ。」

「構わないよ。一時は僕らだって一緒に住んでたじゃないか。」

「そう。じゃ勝手にすれば。」

「そうする。」

「・・・・。」

「・・・・。」

「本気みたいね。」

「もちろんだ。何度も言うようだけど、美希ちゃんを蘇らせることができるのは君だけなんだ。」

「最後の希望ってやつ?」

「ああ。」

「・・・無理よ。」

「無理じゃない。」

「そんなこと言ったって・・・・・・。」

「頼む、牧原さん。美希ちゃんに会わせてくれ。」


牧原公子が美希ちゃんに会わせてくれるまで
いや会えることができたとしても
僕はもう自分の家に帰るつもりなどない
ここより先に進むべき場所は無いから
ここが僕の人生の果てなのだから


7月26日(金) 晴れ
牧原さんは美希ちゃんに会わせてくれない。
僕はここ以外に行きようがないのでずっと居着いてた。

「隣の部屋にいるの、お母さんでしょ?僕のこと何も言ってこないけどいいのかな。」
「ああ、それは大丈夫。娘が人殺しだと知ってても警察に言わないような人だから。」
「なるほどね。」
「お風呂とかも勝手に入っていいよ。あのババアお昼は働きに行ってるし。」
「別にいいよ。ところで牧原さんはずっと家にいるの?」
「うん。待ってる人がいたから。けどもう来ないみたい。」
「・・・・早紀のことか。」
「うん。そうそう、そう言えば早紀ね、一度ここに来たらしいのよ。」
「へぇ。それは知らなかった。」
「私も。ババアから聞いて驚いた。まぁあのババアがいつもの調子で追い返しちゃったらしいけどね。」
「そうか。」
「うん。」
「・・・。」
「・・・・・早紀、死んじゃったんだね。」
「ああ。」
「あなたが実家に戻るなってことは予想ついてたの。それは早紀にも教えてあげたけど。」
「よくわかったね。」
「だってネットじゃ大変なことになってるのよ。チェックしてなかったの?」
「ああ。なんかそっちはもうどうでもよくなってね。」
「凄いのよ。どんどん情報が集まってきてて。もう岩本さんの外見とかバレバレよ。ネット、見る?」
「いやいいよ。そうなるとは予想ついてたから。」
「よく外歩けるね。私なら身を潜めちゃう。」
「堂々としてれば意外とバレないもんだよ。と言っても、時間の問題だろうけどね。」
「ここもバレちゃうかな。」
「いずれね。」
「じゃあ私も捕まっちゃうね。」
「このままならね。」
「やだなあ。取り調べとかされるのかな。。」
「されるだろうね。何て答える?」
「えっとねぇ。岡部っちも聡美も殺すつもりはありませんでした。
早紀のパソコンにメーリングリストのページを目立つようにおいて、早紀を誘導しました。
早紀が見事にハマってくれた時は嬉しかったです。この時は誰かを殺すとかそんなこと思ってませんでした。
みんなぐるになってMLで早紀を踊らせるだけでよかったんです。死んだことにするのは私だけでよかったんです。
でも岡部っちは早紀に何か吹き込みそうだったから刺すフリをして何も言うなって脅しました。
あの人は前々からダグラスが私だと気付いてるっぽかったから。ホントに気付いてたかは知らないけど。
でまぁ先生は死んだはずの私が姿を現したらパニクって暴れちゃいました。
夜だったし、叫び声を誰かが聞いたら嫌だなと思ってホントに刺しますよってもう一回脅したんです。
そしたらなんか刺さっちゃってました。暴れたせいで自分から刺さった形になったんだと思います。
聡美もそうです。死んだはずの私が出てきてびっくりしただけなんです。
面白がって追いかけたら橋から落っこっちゃいました。私はちょこっと足をすくっただけです。
あとは知りません。早紀がどう勘違いしようが私には関係ありません。こんな感じ、どう?」
「真面目に答える気ある?」
「うん。私はいつだって大真面目よ。」
「そうか。」
「うん。」
「・・・・。」
「・・・・。」

いつまでここに居れるだろうか。


7月27日(土) 晴れ
僕は待った。
必ず来ると信じてた。
僕にはもう信じて待つことしかできないから。

「ねぇ。いつまでこうしてるつもり?」
「美希ちゃんが来るまでだよ。」
「だからさ。あの子はもう死んじゃったのよ。もうこの世にはいないのよ。いつになったら認められるの?」
「美希ちゃんは死んでない。」
「死んだわよ。私が殺したんだもん。」
「死んでない。」
「・・・まあいいけど。同居人がいてもこっちは全然迷惑じゃないから。いつまでもいていいよ。」
「美希ちゃんが来たら行くよ。」
「行く?どこに?」
「もう決めてるんだ。最後はあそこに戻る。」
「外に出たら捕まっちゃうよ。」
「大丈夫。逃げるから。何が何でもあそこには辿り着く。」
「着いたらどうするの?それこそ逃げ場が無いわよ。」
「着いたらもう逃げる必要なんて無いさ。」
「死ぬつもりなの?」
「うん。だって僕は罪を犯し過ぎた。それに生きる価値のない人間だし。」
「そんなことないよ。死ぬ必要なんてないよ。」
「いや、もう決まってることなんだ。牧原さんはこれからどうするの?」
「私は生きていたいな。外にも出れない不自由な身だけど、それでも生きていたいの。」
「そうか。」
「うん。」
「・・・。」
「一緒に生きようよ。」
「何?」
「醜くったっていいじゃない。願いが叶わなくったっていいじゃない。こうしてここにいるだけで。」
「食事とかは?」
「ババアが勝手に買ってきてくれるよ。」
「お母さんが死んだら?」
「当分平気。そうなったらそうなった時に考える。それまでのんびりと暮らそうよ。」
「何をして過ごすんだよ。」
「テレビもあるしパソコンもある。ネット環境もある。ゲームはババアに言えば買ってきてくれる。」
「外部の人間が来るかもよ。」
「警察?ババアが追い返しちゃうよ。」
「もしお母さんが守ってくれなかったら?」
「ははは。大丈夫。娘を見捨てる親なんていないわよ。だから好き勝手できるよ。なんて、甘い考えかな。」
「甘い。それにとても醜い。」
「そうだよね。わかってる。けどもうどうしようもないの。この環境が私に染み付いて離れないの。」
「だから人を殺しても平気?」
「殺しても平気っていうのはちょっと違うかも。もっと根本的な・・そうね。他人に無関心なの。
自殺しようが、狂おうが、殺されようが私には何の感情も湧いてこない。
ただね。私が思い描いた通りにことが動くと、少し楽しい気分になれる。」
「その思い描いたことってのが人を死に追いやるようなことでも関係無い、と。」
「うん。結果はどうでもいいの。私の思い通りになるその過程が楽しいの。」
「タチが悪いね。」
「そうかな。」
「そうだよ。それに君は頭が良い。だから余計にタチが悪い。」
「頭なんか良くないよ」
「知識があるとかそんな話じゃない。君が他人に無関心なのは人の感情の流れが読めるからだ。
こうすればこの人はこう思うだろうな、こう動くだろうなってことが読めてしまうんだよ。
この人死んじゃうなとか、狂っちゃうなって予想できてれば、いざそうなってもショックは受けない。
全ての出来事が予想の範疇だから刺激が無い。つまらない。だから無関心になる。」
「そうなのかな。あんまそこら辺のこと考えたことないや。」
「僕はそう思う。」
「まぁ別にどうでもいいわ。そうだとしても今更何かが変るわけじゃないし。」
「君は今、あることが予想できてるはずだよ。」
「何?」
「僕が望んでることを知ってる。そして君はそれを実行できるのに、わざとやらない。」
「そうかな。」
「やらないのは、僕を生かせておけるからだ。別に聞かなくてもわかってたんだろ?
僕は願いが叶ったら死ぬだろうってことくらい、予想ついてたんだろう?」
「・・・・。」
「早紀も死に、いよいよ君の手駒は僕だけになった。
ねぇ。ここまで君の望み通りに動いたんだ、最期に・・・最期くらい僕の方の望み通りにしてくれよ。」
「・・・・。」
「・・・・。」
「・・・・少し考えさせてくれる?」

僕は承諾し、また待ち続けた。


7月28日(日) 晴れ
牧原さんが外に出ようと言い出した。

「待ってよ。僕らは追われる身なんだよ?外に出たらいつ捕まってもおかしくない。」
「あら。直に死のうとしてる人の発言とは思えないわね。」
「それは願いをかなえてからだ。ここまで来てそれができないんじゃ・・」
「単なるデートよ、デート。前はあまりできなかったから。」
「だからって何で今ごろ。」
「ねぇ。今でも回りの人は猿に見える?私の顔は鬼に見える?」
「あ、いや、それはもう大丈夫。そう言えばいつからだろう。気付いたらきちんと見えるようになってた。」
「たぶん達成した時からじゃない?処刑人なれた時よ。」
「そうかもしれない。」
「でしょ?だからほら、行こうよ。」
「待て。それとこれとは関係ない。」
「どうでもいいじゃないそんなこと。とにかく遊びに行こうよ。私遊園地なんか行きたいな。子供っぽい?」
「昨日まで部屋に篭ってるだけでも楽しいって言ってたじゃないか。」
「気が変ったの。せっかく晴れてるんだし。」
「気が変ったって・・」
「私いいとこ知ってるのよ。岩本さんの知らない間、奥田さんと結構行ってたんだから。」
「・・・。」
「ジェットコースターとか乗ったらスカっとするよ。あれ、もしかしてお金のこと気にしてる?
大丈夫。ババアの財布からとってきたのが結構あるから。しばらく遊んで暮らせるだけのお金は貯めてあるの。
ここに戻ってこなくても当面は生きていけるくらいね。ほら行くよ。起きて。早く、早く!」

叩き出されるようにして外に出た。
さっそうと歩く牧原さんの後ろを、僕は周囲の目を気にしながらついていった。
外は暑かった。考えてみればもう夏休みだった。
日焼けした子供達が走り回ってる。
電車に乗るとサーファーらしき人たちがボードを抱えておしゃべりしていた。
スーツの上着を脱いだサラリーマンがクーラーの下で気持きよさそうに涼んでる。
僕らのことを気にする人など一人もいなかった。
誰も話し掛けてこない。誰も僕を見ていない。

牧原さんは追われる身であることを忘れるくらい緊張感が無かった。
実際忘れてるのかもしれない。デート中、その話は全くしなかった。
僕も忘れそうになった。これまでの全ての出来事が遠い幻のように思えた。
追われてるなんて僕の勘違いなんだろうか。
夢を見てただけなんだろうか。
こうして遊園地でバカみたいに遊ぶ若者二人。
牧原さんが笑ってはしゃいでる。僕も楽しくて笑ってる。

あれ。僕が笑ってる。
どうして笑ってるんだろう。
どうして笑ってられるんだろう。

夜は近くのホテルに飛び込んだ。
たまたま空いてる部屋があったので即決してそこに泊まることにした。
牧原さんはよほど疲れてたのか、シャワーを浴びたあとすぐにベッドに入って寝てしまった。
僕はシャワーを浴びながら何か思い出そうとした。
けど遊びつかれたせいで何も考えられなかった。
ただ水の流れる音だけが聞こえる。
顔に当たる飛沫が心地よい。
熱い水が肌を刺激する。
水が足元を流れる。

流れる。



第64週
7月29日(月) 晴れ
ニヤニヤ笑ってる男がいる
女の子と手を繋ぐのは慣れてないらしく、握り方がぎこちない
ちょっと気を許すとほどけてしまい、慌てて握りなおす
でもそのぎこちなさもまた嬉しく思っているようだ
連れてる女の子が叫ぶ

「もっと遊ぼうよ!まだ二日目だよ。これからもっと遊びまくるんだからね。バカみたいに遊び呆けるのよ!」

男はその言葉を間に受けて本当にバカみたいに呆けた顔をしていた
女の子に引っ張られいろいろな乗り物に乗っていく
ジェットコースターに乗ってきゃあと叫んでる
お化け屋敷に入ってこわいこわいと怯えてる
屋台でアイスクリームを買って冷たくておいしいねと言っている

女の子がトイレに行ったとき、ようやく一人になった
それまで昨日の夜からずっと一緒だった
一人になって空を見上げると真っ青に晴れた空が広がっていた
照りつける太陽の光がちりちりを音を立てて肌を焦がす
汗をハンカチで拭でぬぐい、次は何にのろうかと考えている
女の子が戻ってきた
「お待たせ!岩本さん。次は何に乗る?」
さっきのよりもっと怖いジェットコースーターがあるでしょ。昨日混んでて行けなかったやつ。それにしようよ。
二人は次の目的地にめがけてかけっこを始めた
負けないぞと言いつつも女の子に気を使って少し力を抜いて走る

この男に意志は無かった
子供のように動き回り、笑い、叫び、その瞬間を余すところ無く楽しむ
それがただ一つのことだけに向かっているのを知っていた
どうもこの先には自分の求めてるものがあるようだ
本能が彼を動かす
光に寄っていく虫のように
その終着を目指した


7月30日(火) 晴れ
女の子は動き回っている
彼は彼女に手を引っ張られ、金魚のフンのようについていった

「今日は食べ歩きよ!走って動いてお腹空かせておかないと全部食べきれないわよ!」

その遊園地の所々に設置されたオシャレな屋台を片っ端から回った
ポップコーンの塩味とキャラメル味、オレンジ味のアイスキャンデー、アップル味のアイスキャンディー、
ローストチキン、大きな渦巻きを巻いた飴、クリームたっぷりのクレープ、フランクフルト、フライドポテト、
砂糖が降りかかった細長いチョリソ、チョコがかかったワッフル、コーラ、コーヒー・・・・
まともなご飯も食べずにひたすらジャンクフードを食べあさった
ローストチキンにかぶりつく彼の表情は満足そうな笑顔だった
とてもおいしいらしくヨダレがたれてるにも気付かず骨をしゃぶり続けていた

色んなものを一気に食べたせいで、彼は途中で気分が悪くなった
女の子はソフトクリームを一生懸命舐めまわしてる
彼はちょっとトイレに言って来ると言ってその場を離れた
女の子は「いってらっしゃーい。」と軽く手を振ると、再びクリームを舐め始めた
トイレに入るとすぐに便器に駆け寄り、胃の中のものを全て吐き出した
吐いても吐いても出てきた。出るものが無くても吐いたら黄色い液体が出てきた
口の中がすっぱい。
この液体は胃液だと思った
何度も何度もうがいをしても口の中の酸っぱさはとれなかった
彼女の元に戻ると、ソフトクリームを一口もらった
甘いバニラの香りが口の中に広がり、さきほどの酸っぱさが和らいでいった
それからしばらくは甘いものを食べた。酸っぱいのが消えた頃にはまたローストチキンをかぶりついていた

夜はホテルのレストランで食事をした
メニューの中で一番高いコースを食べ、一番高いお酒を飲んだ
慣れない高級ワインを片手にやたら小さく切られた肉を頬張ってると
ほろ酔い気分の彼女が目の下をほんおり赤くしながら、顔を彼の方に近づけてきた

「明日が正念場よ。食べ歩き後半戦、全部のレストランを制覇するからね!」

彼はいいねぇと声を上げてワインをぐっと飲み干した
耳が赤くなり、心臓の鼓動が早くなる
アルコールが全身をめぐるのを感じた
目の前に座ってる彼女がぼやけて見えた
自分の手もぼやけて見えた

世界が全てぼやけていた


7月31日(水) 晴れ
手当たり次第にレストランを食べまわった。
遊園地の中という小さな世界だけど、食べ物の種類はとても一日で食べきれるものじゃなかった。
それでも二人は食べた。食べても食べても空腹感がなくならず、信じられないほどの量を食べた。
満面の笑みでフォークを口に運ぶ二人。中華、和食、洋食、とにかく食べた。
胃がブラックホールになったみだいだと彼は言った。
彼女はいつもの調子で笑いながら答えた。

「きっと、最期の食い溜めだって身体もわかってるのよ。」

やがて全ての店を制覇すると、自然に空腹感も満腹感へ移行した。
プックリと膨れたお腹をさすりながら、二人はベンチで休んだ。
道行く人々を眺める。夏休みなだけあって混みあってる。
家族連れやカップル。仲良しグループらしき女の子たち。
迷子になったのか、泣いてる少年がいる。
風船を片手に、アニメキャラクターをモチーフにしたリュックを背負ってる。
同じアニメキャラが着てるTシャツの中でニッコリと楽しそうに笑ってた。
でも彼は泣いてる。たった一人で人込みの中に取り残され、お母さんと叫ぶ。
すれ違う人はチラっと彼を見るが、誰もが次のアトラクションの列に並ぶためにそそくさと急いでその場を後にする。
彼は絶望的な声で叫んでいた。
タイミングよく場内アナウンスが流れた。迷子のお知らせ。どうも彼のことのようだ。
しかし幼い彼は自分が呼ばれてることに気付かない。
周りの大人たちも気付かない。場内アナウンスなど耳にも入ってない。
彼はどこに行けばよいのかもわからず、その場でただ泣き続けた。

「あの子どうなると思う?」
隣に座ってる男がわからないと答えた。
「あの子は私達と同じよ。人の流れの中で生き方に迷い、助けを求めて泣き叫んでる。なんてね。」
男はそうかもしれないと答えた。
「ねぇ岩本さん。なんで私が遊園地に来たがったか知ってる?」
男は頷いた。彼はもうとっくに知っていた。
彼女はクスクスと笑って話を続けた。
「私ね、岩本さんと一緒に死ぬことにしたの。だから最期に遊び尽くしたかったの。
食べ物もそう。おいしいものいっぱい食べ尽くしたかった。でね、両方できるのは遊園地かな、なんて思って。
けどね。ホントは子供の頃からの夢だったの。遊園地に泊り込んで死ぬほど遊ぶ。
あはは。いい年して馬鹿みたいだよね。遊園地で遊びたいだって。あはははは。ホント子供。
しかもせっかくとっておいた慎ましく生きるための生活費を、このバカな夢に注ぎ込んじゃうなんて。あはははははは。」
男の方もつられて笑い始めた。
二人で笑った。これ以上ないくらいに笑った。
一生分を笑い尽くそうと思ったので、二人とも大声で、狂ったように激しく笑った。
しかし二人の笑い声は雑踏の中に消え去った。
どんなに大きな声で笑っても、振り向く人は誰もいなかった。
二人は必死に笑い声を上げたのに、周りには単なる笑い上戸のカップルにしか見えなかった。

最期の笑いを終えると、彼女は正面を指差して言った。
「ホラ見て、あの子まだ泣いてるよ。」
ほんとだと男は答えた。
泣き疲れたのか、声のトーンがやや落ちてきてた。
それでもまだ必死に叫んでいる。お母さん、お母さんと。
彼女は男の脇をつつき、ニヤリと笑った。
「ねぇ。岩本さん。賭けをしようよ。あの子がどうなるか予想するの。」
男はいいよと答えた。
「私ね、誰か親切な人が見るに見かねて迷子センターに連れてってくれると思う。
母親はもう迷子センターにいるわけだから、母親が探し当てることはないでしょ。さぁ、岩本さんはどうなると思う?」
男は少し考えたあと、少年の方を指差した。
あいつは強い子だ。だからすぐにでも泣き終えて、自分の足で母親を探しに行くよ。
「よし、じゃあ勝負よ。勝った方は負けた方を殺すの。オッケー?」
男はオッケーと答えた。

二人は少年を見守った。
二人とも先ほどの彼女の言葉を思い出していた。
あの子は私達と同じよ。人の流れの中で生き方に迷い、助けを求めて泣き叫んでる。
この賭けの結果は、自分達の末路と同じだろうと勝手に決め付けていた。

やがて結果が出た。
出てきた答えは、二人とも予想できなかったものだった。
「有りえない。あんな奇跡起きるわけ無いわ。」
彼女は文句を言った。
隣の男も同意した。有りえない。そんな奇跡は・・
彼は少しだけ、自分にも起きて欲しいなと思った。

「はぁ。これでなんかやることやり尽くしたって感じね。
最後のはちょっと釈然としなかったけど、まぁ人生はそんなもんかな。」
そうだねと男は答えた。
「じゃぁ、そろそろ死のっか。」
男は半分頷いたものの、そこで止まってじっと彼女の方を見つめ始めた。
彼女はそれに気付いた。
「大丈夫よ岩本さん。最期にちゃんと、あなたの願いは叶えてあげるから」

男は満面の笑みを浮かべた。


8月1日(木) 人生の果て
彼が目覚めたとき、彼女はもう着替えて準備を済ませていた。

「さ、行きましょう。あれからずっとこの日を待ってたんだから。」

彼は慌てて顔を洗い、髪をとかした。
鏡に映ったその顔は、異常なほどツヤがあるように見えた。
幸せがにじみ出ている。今日で幸福を使い切ろうとしてるのだと思った。

二人で外を歩くのにもう心配する必要など無かった。
今日に限って不幸に会うはずも無いという自信があった。
電車に乗るのが楽しかった。人とすれ違うのが嬉しかった。
いつか彼女に指摘されたように、もう他人の顔は猿には見えなかった。
誰もがみんな輝いてる。生きる努力をしてる人は素敵だと思った。
地面を踏みしめるとコンクリートの熱さが足の裏に伝わってきた。
二度と歩くことの無い道のりを、彼は味わうようにして歩いた。
目指す場所はもうずっと前から決めていたところ。
彼女もそこがいいと言った。

ドアを開けて中に入る。カギは掛かってない。
彼女が軽い叫び声をあげる。
「わぁ懐かしい。結構キレイに片付いてるね。」
部屋はきちんと整理され、静かに主を待っていた。
生活感のカケラもないほど整えられた空間が目の前に広がっている。
「パソコンとかテレビは捨てちゃったの?随分スッキリしちゃって。」
彼は違和感を感じたが、布団に転がり込んではしゃぐ彼女を見てるうちに忘れてしまった。
懐かしい空気が匂う。あと一つ揃えば、あの頃に戻れる。
彼は彼女の横に座り込んだ。
「まだ早いわよ。帰ってきたばっかじゃない。」
彼はゆっくりを首を横にふった。
彼女は少しむくれた顔をして呟いた。
「なるほどね。ここに帰ってくるのは私じゃないってことね。」
彼は頷いた。
手を重ね、彼女を見つめる。
ここが終着点だ。だから早いとか遅いとか関係無い。
さぁ、帰ってきてよ。この日をずっと待ちわびてたのは僕の方なんだから。
彼女は黙って頷いた。

「目をつぶって。」
彼は静かに目を閉じた。
深く息を吸う音が聞こえる。
沈黙の時間。呼吸音だけが響く。
彼は待った。願いが叶うその瞬間を。
そしてその時が来た。

「お待たせ、亮平君。」

彼はゆっくり目を開けた。
そこには微笑む彼女の姿があった。
涙が出てきた。この子に会いたいと何度願ったことか。
この子に会うためにどれだけのことをしてきたか。
あの時この子と別れて以来、残りの人生は全てこの瞬間に注げてきた。

「美希ちゃん。会いたかったよ。」

渡部美希はいつもと変わらない笑顔で彼を包み込んだ。
抱きしめあう二人。言葉を交わす必要は無い。
再会を喜びあうのはただ抱き合うだけで十分だった。
何かを話せば崩れてしまいそうだったから。
余計なことをして水を差したくなかった。

この笑顔、この温もり、それ以上何を求めるというんだ。
彼は自分に言い聞かせた。何も考えるな。この瞬間を壊すな。
そんな思惑とは裏腹に、彼に最後の試練が与えられた。
彼女を腕に包むその瞬間、彼女の背後の壁に一人の男の顔を見た。

奥田。
奥田徹が笑ってる。

急激に沸いてくる理性。
彼女を温度を直に感じるその状態で
奥田を死に至らせた狂気が岩本亮平を襲う。

美希ちゃん。君は一体何なんだ。
君は二重人格なのか。牧原公子の別人格なのか。
牧原公子の別人格が渡部美希なのか。それとも渡部美希の別人格が牧原公子なのか。
牧原公子が本当の君と言えばいいのか牧原公子の中の本当の自分の部分が渡部美希と言えばいいのか
君の中の本当の自分という部分は牧原公子なのか渡部美希なのか
二重人格のフリして二人の人間を演じてたのかそもそも二重人格のフリのつもりもなくただの冗談だったのか
君は冗談でも人を殺せる人だだから冗談でも二重人格にもなれるでも冗談なら二重人格とは言わない
ネットで知り合った人には渡部美希と名乗って普段とは違う自分を演じていたのか
普段の自分を知らない人を相手だからこそ本当の自分の部分を開放できてその部分を渡部美希と名づけたんだろ
だとしたら二重人格ではないのだろうかけどやはり二重人格なのか意識せず演じ分けていれば二重人格といえるのか
いやわざわざ意識して演じ分けていたのかもしれないだとしたら二重人格じゃなくただ演じてただけで
もう片方の演じるのをやめればそれはその人が死んだことにもなるしかし再び演じ始めれば生き返る
同じ意識をもっていれば二重人格じゃないよなけどいきなり片方のをやめることなんてできるのか
演じるのをやめればそれまで演じてた方は死んだことになるもう片方の人格に戻るいや人格じゃなくて性格と言えばいいか
二面性のある性格なのかそれは片方の性格をパッタリやめたら性格が変わったと言えばいいだけなのか
そしたら元はどっちなんだやっぱり牧原公子なのかしかし牧原公子には渡部美希的な部分はあるし
渡部美希にも牧原公子的な性格もあるし本当の君はどっちだどっちも込みで同一人物というなら
片方の部分だけを殺してもう片方の名を名乗るというのは必ずしも同一人物とは言えないだろいや言えるのか
実社会では牧原公子で僕らの前では渡部美希それ以上深く考えてはいけないことなのか
それならあの時渡部美希を殺した牧原公子は何なんだ処刑人は奥田かもしれないって分かってガタガタ震えてた美希ちゃんが
家に帰るといきなり笑い出してごめんたった今渡部美希は死んじゃったなんて言ったこの子は
やはり元は牧原公子なわけで今美希に話し掛けたけどどうもショックで死んじゃったみたいなんて
そんな風に言われたらやっぱり二重人格としか思えないし実は元々は牧原公子でしたなんて説明されたら
僕はどうしたら良かったんだどう判断すればよかったんだ僕が好きなのは美希ちゃんであって
いきなり現れた牧原公子をどう扱えばいいかわからなかった僕は騙されてただけなのか怒るべきだったのか
いやなんで起こるんだ目の前にいる子は僕の好きな人の渡部美希だった人だから何かの冗談なら
それも込みで愛してあげるべきだったし完全に二重人格でその人格が死んだとなれば諦めるしかないけど
どう見ても完全な二重人格じゃないだろ冗談で演じてるようにも見えるだから彼女にもう一度
渡部美希を演じる気を起こさせればこうして美希ちゃんにもう一度会えたわけでしかしこの場合
この先一体何が起きる牧原公子はどこへ行った美希ちゃんがいるこの時牧原公子はどこにいる
二人を演じる君は一体何者なんだどっちが元の人間なんだそんな渡部美希の部分と牧原公子の部分がうああああ
奥田お前が一緒に住んでた時彼女は一体どっちだったんだ
お前と一緒に僕に処刑人伝説を吹き込み罠にはめたのは牧原さんなのか美希ちゃんなのか
早紀を巻き込めるのは牧原さんの方だでも僕を巻き込めるのは美希ちゃんだ
奥田お前はずっと耐えてたんだろお前もずっとどっちがどうなのかわからなかったんだろ
どっちを好きになればいいのかわからなかったんだろ愛し切れなかったんだろ
わかってるんだよ処刑人なのは牧原公子なのか渡部美希なのかそれともこの二人を演じるこの子という
二人の人格を一緒に考えるべきなのかとかもうわけわからなくなってたんだろ
お前が死んだ理由も今ならわかるお前の心が手にとるようにわかる
今こうして僕がお前と付き合ってたのはどっちなんだと悩むのと同じように
僕と浮気したのは牧原さんなのか美希ちゃんなのかわからなかったんだろう
例え美希ちゃんの方だと分かっても牧原さんの人格を好きであれば許すことができたかもしれない
しかし美希ちゃんも好きだとなれば裏切られたでも牧原さんを好きでいれば許すことができる
そんな器用な真似ができるのか美希ちゃんだろうが牧原さんだろうが裏切られたことには変わりないのか
それならこんな闇を抱えた子を何も知らない僕に取られたのがくやしかったのか
それともこれでよかったのかとか色々考えすぎて頭がパンクしてそれで死にたくなって自殺したんだ
僕は違う僕は悩まないいいか僕は悩まないぞ
僕もお前と同じように直に死ぬだろうしかし彼女に対する思いは違う
考えるからいけないんだ演じてるとか二重人格とか思うからいけないんだ
この温もりこの笑顔を何も考えずこの瞬間を
今目の前にいるこの子をこの子だけをおおぉおおおおおおぉおおおあああああああああああああああ
あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

彼は彼女を抱く腕に力を込めた。
奥田の顔はもう見えなかった。


8月2日(金) ?
意識が残ってる
もう死んだと思ったのに
奥田のように気が触れてしまう前に僕は
美希ちゃんに殺してもらった
僕も美希ちゃんの首を締めた
僕の意識がなくなるのが先だったのか
美希ちゃんの身体から力が抜けるのが先だったのか
どうもよく覚えていない
あまりうまい方法じゃなかったかな
首の締め合いと二人ともうまく同じぐらいの力を込めないとどちらかが生き残ってしまう
僕が生き残ったというわけか
けど間もなく死ぬだろう
ほらこんなに虫の息だ
目を開ける気力も無い
身体はもう死んでるのかもしれない
わずかに血の残った脳だけがこうして命の残り火を灯してる
なぜこんな時間が残されてるんだろう
走馬灯のように人生を振り返るのなら
それはそれで構わない
けどこれは何だ
特に何かを思い出すわけでもない
ただ意識があるという感覚だけ
身体も動かない
外の気配も感じない
良い気分でも悪い気分でもない
これは一種の罰なのかもしれない
神様が僕のために用意した犯した罪の重さに苦しむ時間なのか
なかなかスッキリと死なせてはくれないな
まぁ仕方ない
それだけのことをしたんだから
でも残念だね
犯した罪の重さとやらは感じない
あははは
全然苦しくないや

自分が他人のように見える
岩本亮平という男が何やら忙しそうに動いてる
僕はそれを空から見てる
どうも料理を作ってるようだ
誰かと一緒にご飯を食べるつもりなんだ
たぶん美希ちゃんだ
美希ちゃんのためにご飯を作ってる
僕の作った料理を食べながら
二人でつつましく生きていこうとしてる
ああ いよいよ駄目みたいだ
僕にこんな記憶はない
だって僕が料理を覚えたのは
美希ちゃんがいなくなってからだから
僕の作った手料理を
美希ちゃんが食べることは無かったんだ

こうして自分ことを他人を眺めるような感覚
これが死にゆく感覚というのなら
なんだなんだ
僕はもっと早く死んでたじゃないか
最後に自分を感じたのは美希ちゃんと再会した時くらいだ
早紀を殺した瞬間も
牧原さんとのデートも
僕は遠くからただ眺めてるだけだった

おや 誰かが呼んでる
遠くから女の子の声が聞こえる
「こっちへ来て」だって
先に行った美希ちゃんが待ってるのか
大丈夫 今行くよ
もうここに未練はないから
「はやく」だなんて
そんなに焦らないでよ すぐ行くから
美希ちゃんはせっかちだな
これからはずっと一緒なんだから
別にゆっくりでもいいじゃないか
もうそんな時間の感覚も必要ないだろう
あるのは永遠
それだけだから


え?
今なんて言った
「戻ってきて」って聞こえたぞ
美希ちゃん なんでそんなこと言うんだ
僕らは戻るんじゃない
それくらいわかってるだろ
戻る必要なんてない
一緒に進むんだ
永遠に向かって進むんだ
それが僕らが一緒にいれる唯一の

いや

これは

美希ちゃんの声じゃない・・・・!


8月3日(土) ―
女の子二人の会話

「いくら声をかけても無駄よ。この人はもうとっくに死んでるわ。」
「そんなことない。こうして目を開けて息をしてる。ちゃんと生きてる。」
「確かにそうね。でも死んでるのよ。わかる?」
「わからない。わかりたくもない。」
「そんなこと言ってずっとここにいるつもり?昨日から寝てないんでしょ?疲れちゃうわよ。」
「私は大丈夫。お兄ちゃんにも何か食べさせないといけないし。」
「ねぇ細江さんに会ったんでしょ?あの子もこんな感じだったでしょ?田村さんだって今はこうなんでしょ?」
「二人とも生きてる。あなたが思ってるほど人間はもろくない。」
「嘘ね。もろいわよ。とっても。心の中をちょちょっといじれば簡単に壊れちゃう。」
「そんなことない。確かにおかしくなることはなるかもしれない。けどそれは一時のことよ。
生きてれば必ず元に戻れるわ。もしかしたら壊れる前より強くなってるかもしれない。」
「それは自分のことを言ってるの?」
「違う。誰でもそのはずよ。」
「ふふふ。そこまで強いのはあなただけよ。大概の人は壊れたまま動かない。」
「あなたの言うとおりかもしれない。けどね。もしそうだとしてもこの人は必ず元に戻るわ。
あなたは私を強いと言ったわね。であれば、私の兄であるこの人だって・・。」
「あなたは何もわかってないわね。あんなに近くにいたのに、亮平君の心の闇をわかってないなんて。」
「待って、牧原さん。あなたこそわかってないわ。お兄ちゃんはあなたが思ってるよりずっと強い人よ。」
「すごい自信ね。けど心の闇を抱えてたのは事実よ。それに蝕まれてこんななっちゃった。」
「それはあなたが・・・!」
「早紀。勘違いしないで。亮平君はね。私が会う前から徐々に壊れていってたわ。私はそれを少し早めただけ。」
「お兄ちゃんは壊れてなんかない。」
「壊れてるってのはちょっと違うかな。削れていってたのよ。少しずつ。確実に。
いい?亮平君は停滞を望んでいたわ。ずっと何も変わらずただ生きるだけの生活。
大学もやめて、その日食べるためのお金をバイトで稼いで、楽しみといえばちょっとお酒を飲むくらい。
それが続けばいいと思っていた。けどね。人は生きてる限り成長しなきゃいけないのよ。
嫌でも身体の細胞は年を取っていくんだから。生き方もそれにあわせなきゃいけない。」
「いつかはちゃんと働こうとか思ってたはずよ。」
「それが思ってなかったのよ。そばにいた私が一番知ってるわ。人生を本気で考えていなかったのよ。
亮平君は辛い目に会うのを嫌がってた。その代償としてすごく楽しい思いができなくてもいいと思ってた。
だから現状のままで、そこそこ楽しい当時の生活がずっと続けばいいと思ってた。
要はずっと安心して暮らしていきたかったのね。嫌な目に会うきっかけをできるかぎり避けていた。」
「それは決して悪い生き方じゃないんじゃない?そう思ってる人は結構多いはずよ。」
「かもね。でも考えてみてよ。アルバイトと食事とわずかなお酒だけを永遠に繰り返す生活。
そのまま年を取って死んでいく。生きた証も残せず、ただ消費するだけの生活。その生活こそが命を削る。
三十歳なのに生き方は二十歳と変わらなければ、十歳損をしてることになるでしょ?
右上がりのグラフに添って生きていくのが本来の姿の中で、横線にまっすぐ伸びようとするのは間違ってるわ。
成長が思い通りにならない場合もあるかもしれない。けど成長を望まないのはその時点で生きるのを放棄してる。」
「そんなこと言ったら、現状維持を願う人はみんな生きる資格がないことになるわ。」
「ちょっと違うわね。『このままと同じペースで成長』というのが現状維持なのよ。そう願う人はたくさんいる。
けどその中でね、いるのよ。亮平君みたいな人が。何もしないことが現状維持だと勘違いしてる腐った人が。
わたしの周りには多かったわ。早紀。あなたもかつてはそうだったんじゃないの?」
「それは・・・そうだったかも。じゃあ牧原さん。そんな人はみんな死ねばいいと言うの?」
「うん。まさにその通り。そして私はね。それを一人一人にわからせてあげたいのよ。あなたもう死んでるわよって。」
「わからせるって、殺すってこと?」
「自分が死んでることに気付かせるだけよ。見方によっては殺してるようにも見えるかもね。
でも別に刺し殺すとかそんなんじゃないのよ。その場合もあったけど。あ、まぁあれは過失かな。
とにかくね。私は願いをかなえてあげるだけ。停滞は死。その停滞を望んでる。ということは死を望んでるってことだから。
死を望むなんてとんでもない心の闇よね。ふふ。亮平君、今ごろ渡部美希と一緒にいる夢でも見てるんじゃないかしら。」
「渡部美希・・・それはAの方ね。」
「あらよく知ってるわね。」
「お兄ちゃんが教えてくれたわ。渡部のW。ひっくり返して牧原のM。A&∀はW&Mという意味だってね。
あの時は意味がわからなかったけど、こうして渡部美希さんにお会いしてると、その意味がよくわかる。」
「いつ教えてもらったの?」
「牧原さん。お兄ちゃんは必ず戻ってくるわ。だってこの人は、あなたに会いに行く前、確かに自分の意志をもっていたから。
私の首に手をかけたあと、全てを教えてくれた。牧原さんがお兄ちゃんの方では渡部美希と名乗ってるって。
私を処刑人に仕立てあげたのも牧原さんだって。それだけじゃない。お兄ちゃんは自分の罪も告白してくれた。
奥田と名乗って田村さんと一緒に私を囲ったこと。その仲間も、関係無い人も含めて何人か・・・殺してしまったことも。」
「・・・。」
「お兄ちゃんは泣きじゃくる私に謝ったわ。巻き込んですまなかったって。
それでね、後は自分で決着をつけるから、お前はとりあえず舞台を降りてくれって。
死んだことにすればいいって。俺がこの手を首から離したら、お前は黙って倒れろって。
そのまましばらく黙って部屋で過ごせって。もう怖がる必要はないって。そしてここ住所を教えてくれた。
何日後になるかわからないけど、自分が決着をつける場所はここになるだろうって。
それ以上は何も言わずに出て行った。でね、お兄ちゃんが行ったあと、家でずっと考えてたの。
なんでここの住所なんか教えてくれたんだろうって。何日も考えた。そしたら気付いたの。
お兄ちゃんは私に助けてもらいたかったんだ。私をここに呼んで、死に向かう自分を止めて欲しかった。」
「なるほどね。けどこうゆう見方もあるわよ。自分の死に場所を知らせておきたかった。」
「違う。お兄ちゃんは死にたがってなんかない。」
「うーん、それは正しくもあり間違ってもいるって感じね。亮平君は死にたがってるのに死ぬ勇気がなかったの。
誰かがそばにいて止めてくれるような状況でしか死のうとしなかったし、自暴自棄になって人殺しはしても自殺はしなかった。」
「じゃあ死にたくなかったんじゃなかったんだわ。」
「そうとは言えないわよ。処刑人を名乗って人殺しになって、晒し者にまでなって。辛いこともたくさんあって。
生きてるのが嫌だった。かと言って死ぬ勇気もない。だから生きながら死ぬことにしたのよ。」
「けど、そう仕向けたのはあなたでしょ!お兄ちゃんは決してあなたの思ってるようには考えてなかったはずよ。」
「ふふ。確かにそうかもしれないわね。私は亮平君の考えが手にとるようにわかってるつもりだけど、
本当にそうなのかは本人にしかわからない。本人にも自分がどうしたいのかわかってるのかもあやしいわ。
でもそれは関係無いの。私は亮平君みたいに希望も絶望も無い人は既に死人だと思ってるから。
死人に『あなたは死んでますよ。』って教えてあげて、理解してもらえればその人は自分の意志で死ぬわよね。
肉体的に死ぬ場合もあるけど、ほとんどは精神を殺してしまうわね。心の自殺よ。自分の抱えた闇に飲み込まれるのよ。
亮平君はわかってたのかしら。全ての流れが自分に対する処刑だったということを。
最初に処刑人の名を見たときから、それが自分に向けられたものだと気付いてたかしら。」
「全部あなたの思い通りだったってこと?」
「さすがに全部じゃないわよ。ここに至る過程では私の想像してなかった事態もたくさんあったわ。
亮平君が処刑人と化すとは思わなかった。渡部美希への固執もここまでとは思わなかった。。
早紀、あなたの復活だってそうよ。あなたはすぐに駄目になると思ったのに。
しぶとく頑張ってくれちゃって。どうなることかと思ったわよ。
私はそうした一つ一つの要素が亮平君の処刑に向かうように調整してきた。だから結果だけをみれば私の思い通りよね。」
「処刑は完了したと思ってるの?」
「してるわよ。見て分からない?」
「わからないわね。」
「わからず屋ね。ほらなんかニヤけてるわよ。あらら。ヨダレまでたらしちゃって。これのどこがマトモだと言うのよ。」
「ねぇ。お兄ちゃんがあなたの思い通りに動いてたとしても、あなたの思い通りの意志を持ってなかったとしたら?」
「何それ。どうゆうこと?」
「だから、自分が停滞を望んでるとか自分は実は死んでるんだとか、そんなことカケラも気付いてないとしたら?」
「だとしたら、どうなの?」
「お兄ちゃんは純粋に、本気であなたの心の闇を救おうとしてたのかもしれないのよ。
渡部美希でも、牧原公子でも、処刑人でもない。それら全てを含めたあなた自身を。」
「・・・。」
「渡部美希に会いたがっていたのは、あなたが牧原公子だけになっていたから。
渡部美希にもなって、牧原公子にもなる。そんなあなたを包んで上げたかったのよ。」
「・・・ロマンチックな話ね。けどもう遅いわ。処刑はもう完了してしまったんだから。」
「あなたは救われなくていいの?」
「野暮なこと聞かないで。自分自身への処刑は一番始めに終えてある。」
「始めって・・・・・あ・・・・確かに『処刑人』が一番始めに殺したのは・・・・。」
「ねぇ見て!この人何か喋ってる」
「え?あ、ほんとだ。お兄ちゃん、どうしたの?何?」
「駄目ね。声が小さすぎて聞こえない。」
「お兄ちゃん、戻ってきて!返事してよ。元に戻ってよ!」
「無駄よ。全然聞こえてない。ほら。わけもわからず手を伸ばしてる。」
「聞こえてるから手を伸ばしてるのよ!きっと元に戻してくれって言ってるんだわ。」
「違うわ。このまま死の世界へ引っ張ってくれって呟いてるのよ。」
「そんなことない。生きたいのよ。」
「いいや、死にたいのよ。」
「生きたいのよ。」
「じゃあ賭けをしましょうよ。二人同時に手を差し伸べるの。それで、亮平君がどっちの手をとるか賭けるの。」
「負けた方はどうするの?」
「黙ってこの場を去る。そして二度と戻ってこない。」
「・・・いいわ。やりましょう。」
「オッケー。じゃあいくわよ。亮平君、ほら。死にたかったら私の手をとって。」
「駄目よお兄ちゃん。生きなきゃ。だから私の手をとるのよ。」

・・・・

「ほら見て、わたしの勝ちよ!やっぱりこの人は・・・・・!」


8月4日(日) 灰
誰かが僕の手を握っている。
僕はそれに引っ張られるようにして延々と歩いていた。
どこに向かって歩いているのかはわからない。
僕はどこに行こうとしてるのだろう。
手を引いてるのは女の子だった。
この子についていけば望んでるところに行けそうだ。
さぁ連れて行ってよ。素敵なところに行けるんでしょ?
早く早く。早く行かなきゃ。

けどなんか疲れたな。ずっと歩きっぱなしだよ。
まだ着かないんだろうか。あとどれだけ歩けばいいんだろうか。
駄目だ。これ以上歩けない。
僕はもう疲れたよ。一歩も動けない。
くそう。それでもまだ手を引っ張るのか。
僕は嫌だと言ってるのに。

何か思い出した。何だろうこの景色は。
遊園地。迷子の少年が泣いてる。
泣いても誰も助けてくれない。それでもひたすら泣き続けてる。
絶望的なほど泣き尽した時、その子に奇跡が訪れた。
その少年より一回り大きな少女。
少年のお姉さんらしき少女が駆け寄ってきた。
少年はその子の顔を見ると、光り輝くほどの笑顔で少女の胸に飛びついた。
少女は少年を叱りつけるけど、身体はぎゅっと抱いている。
そして二人仲良く手を繋いで歩き去った。
僕はその姿を見て何かを思ったはずだ。
思い出せない。

僕は力を振り絞って再び足を動かした。
わかってる。進まなければ辿り着かない。
歩まなければ何も始まらない。
また長く歩くことになりそうだ。
延々と歩きつづけてるのに、一向に終着の気配が無い。
でも歩く。ひたすら歩く。


声が聞こえる。
僕の手を引く女の子が、僕に向かって何か叫んでる。

「部屋の中を歩くだけじゃどこにもいけないわ・・・。」

どうも僕はただ同じ場所をぐるぐる回ってるだけのようだ。
けどそれが何だというんだ。外の世界なんてありゃしない。あるのは僕の世界だけだった。
構わない。着くまで歩いてやる。
いつかどこかに辿り着くのを信じて進み続ける。
そこへの道が、例え永遠だとしても。
だって僕はもう。


まだ見ぬ終着に向かい、僕は心の底から叫び声を上げた。
その声は身体の芯を震わせ、僕の世界を強烈に突き抜けた。
届いてるか?この声、この涙、この絶望。
これが僕の願いだ。


死ね。

そして、蘇れ。




絶望の世界A
−完−


絶望の世界A&∀
  エピローグ−0

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