希望の世界 −虫の日記−
第二部<迎撃編>
第五章「溝」
第十七週「来訪」
4月24日(月) 晴れ
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「姉を探してます」
投稿者:ユウイチ
投稿日:04月24日(月)11時07分10秒
はじめまして。ユウイチと申します。
姉のパソコンを無断でいじってたらココがブックマークされてました。
姉は今失踪中です。僕は行方を探す手がかりを求めてます。
ここで姉が何て名乗っていたのかわかりませんが
皆様は心当たりないでしょうか。
姉の名前は「渡部美希」です。
何か情報がありましたら御知らせいただけないでしょうか。
これからも何回か寄らせていただきます。
ではまた。
********
また一人「希望の世界」を汚す輩が現れた。
4月25日(火) 晴れ
父親に昨日の書きこみのことを教えると、自分のノートパソコンで確認していた。
少し顔をしかめたあと、僕にどうするか聞いてきた。渡部さんの騙りかもしれないと答えた。
ちょっとこれは様子が見たほうがいいと言っていた。
今日もこの男は母親の世話をしている。クラシック音楽を聴かせていた。
あの女が集めたCDだった。よく家で流していた。
よくも飽きずに聴けるものだと思っていた。
sakkyを守る会のメンバーの名前を決めるときもこれらCDから名前を取った。
奴は一番のお気に入りだと言う「カノン」を名乗った。
一通り曲を聴いてから僕も名前を決めた。
最も気に入った曲は「ワルキューレの騎行」という名前らしかった。
だから「ワルキューレ」と名乗った。
今日もたまたまその曲が流れいる。
なかなか良い曲だ。
4月26日(水) 雨
雨が降っていると動く気にならない。
ノートパソコンの電源も入れなかった。
父親も自分専用のノートパソコンを持っている。いつのまにか買っていた。
奴はなかなか役に立つ。僕の希望通り動いてくれた。
渡部さんのおびえた目は実に良かった。
川口も余計なときに出てこなければあんな目に会わなかったのに。
バカな奴だ。
それにしても渡部さんに弟が居たのか。
家族は実に厄介だ。川口の弟も勝手に巻き込まれてた。
ユウイチは宣言通りあれから「希望の世界」に来てるだろうか。
放っておいたら帰るかもしれない。
あれが渡部さんと川口によるものだとしても反応しなければいいワケだ。
そうしよう。
4月27日(木) 曇
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「誰もいないのですか?」
投稿者:ユウイチ
投稿日:04月27日(木)10時48分20秒
姉はまだ見つかりません。
少しでも情報が欲しいです。
知らないのならそれで仕方ないのですが
とりあえずどなたか返事をいただけないでしょうか。
sakkyさんが管理人ですよね?
もう更新すらされてないのですか?
また来ます。では。
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もう来るな。
4月28日(金) 晴れ
今日は晴れていたけど外に出る気にはならなかった。
動くと暑い。窓を開ける気にもならずベッドで寝そべっていた。
祖母が空気の入れ替えと称して窓を開けた。
風は心地よかった。目をつぶって堪能した。
目を開けたときには祖母はもういなかった。
窓の外を見ると祖父が庭の草木に水をやっていた。
便利なものだ。ここにいるだけで周りが勝手に動いてくれる。
父親は相変わらず気の狂った母親を連れまわしている。
良く続くものだ。僕なら捨ててるな。
母親にポインタを合わせて右クリックして削除。
ゴミ箱のアイコンに母親アイコンを移動させる画面を想像したら少し楽しくなった。
ふとユウイチの事を思い出した。
相手にされてないことはもう察しただろうか。
確認するのも面倒くさかった。いずれ勝手に消えてくれるだろう。
あそこには誰もいないのだから。
4月29日(土) 晴れ
奇妙な書きこみがあった。投稿者の欄も題名欄も空白だった。
アドレスだけが書き込まれ、その上の行に下矢印のマークがあった。
ここへ行け、ということだろうか。
アドレスには下線が引いてあり、そこにポインタを合わせると手のマークに変わった。
リンク先に飛べるらしい。クリックするとカタカタとハードディスクが動く音がして画面が変わった。
真っ黒な背景に白い文字が浮かび上がってきた。チラチラして目障りだった。
掲示板。僕の知ってるところだった。
「ジャンク情報BBS」と名づけられたこの掲示板は、アンダーグラウンドな所を巡っているうちにみつけた。
以前神奈川県警を叩くスレッドがあって、渡部さんらしき情報を見かけた所だ。
このアドレスを打ちこんだ奴はユウイチにもその情報を見せようとしたのだろうか。
犯人はあっけなく見つかった。
トイレに行くために部屋を出たら、たまたま父親とすれ違った。
相変わらず母親を操り人形にして遊んでる。目が合ったけど無視しておいた。
背後から一言だけ声をかけられた。「ちょっとカキコしといたぜ。」と言っていた。
こいつに渡部さんの情報を教えたことを思い出した。
まったくもって使えるヤツだ。物事は僕が何もしなくても進んでいく。
素敵だ。
4月30日(日) 晴れ
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「ありがとうございます」
投稿者:ユウイチ
投稿日:04月30日(日)11時34分19秒
下のリンク先に行って見ました。
過去ログを見てみると姉の情報らしきものを見つけました。
ログ見るだけでも一日かかってしまいましたが
その成果があったので嬉しいです。
教えてくれた名無し(?)さんありがとうございました。
姉はやっぱりここにも居たんでしょうか?
それだけわからないのが気がかりです。
またちょくちょく寄らせてもらいますね。
では。
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寄るなというのに。
第十八週「濁流」
5月1日(月) 晴れ
ユウイチは「ジャンク情報BBS」にも書き込みをしていた。
馬鹿正直に「希望の世界」に書いたのと同じような内容を書いていた。
こんなところで姉を探してますなんて書いても見つかるわけが無い。
わざわざ過去ログまで引っ張り出してきて、以前見たあの情報の主に訴えかけている。
逃げた女の人は僕の姉の可能性があります、等と。
こんなスレッドすぐに消えるだろう。皆相手にするわけない。
ユウイチが渡部さんである可能性はまだ否定できない。
アングラに居る連中に相手になれなくとも、僕が見ていればそれでいいとでも思っているのか。
いずれにしろ僕は反応してやらない。
一人寂しくそこにいな。
5月2日(火) 晴れ
ユウイチに対するレスは結構な量だった。
名無しや固定ハンドル入り混じってのレスだった。
名無しはユウイチに対する誹謗中傷ばかりだったが、固定ハンドルは好意的な感じだ。
渡部さん情報提供者であるハンドルネーム「D.G」が好意的なのには驚いた。
「俺が入手した情報では本名までは分からないからお前の姉かどうかまではわからない・・・。」
後にもダラダラと文章を書き連ねていた。
マジメに答えてるのが滑稽に見える。それともこうして真剣に答えること自体ネタなのか。
ユウイチの発言をネタと決めつけて敢えてそれに合わせているのか。
他にもHN「シス卿」はやたら陽気な調子でユウイチの書き込みを歓迎していたし
HN「ミギワ」は姉が失踪してしまったユウイチに同情した書き込みだった。
何がしたいのか良く分からない。統一性の無い人々の文章に僕は少し戸惑った。
ユウイチの反応が待ち遠しい。
5月3日(水) 曇
部屋から外に出る時間が極端に少なくなった。
食事は部屋に持ってくるように命令すると、祖母は黙って言うことを聞く。
寝そべりながらユウイチのことやジャンク情報BBSについてずっと考えてみた。
目をつぶると黒い背景に白い文字がまぶたの裏に浮かんでくる。
ユウイチにレスしていた固定ハンドルの名前を思い出してみた。
「D.G」、「シス卿」、「ミギワ」・・・まだ何人かいたはずだ。
ノートパソコンを起動して、日記を書く前にチェックした。
ユウイチの書き込みはなかったが、レスは増えていた。
「王蟲」「SEXマシーン」等は昨日も見た。「紅天女」「ロロ・トマシ」「ダチュラ」なんかは新しくレスした奴だ。
ユウイチに敵意を見せてる奴はいなかった。
「はじめまして。」とか「こんにちわ。」とか「よう。」とか無難なものばかりだ。
ふと妙な気分に襲われた。こいつらの名前、見覚えがある気がする。
名無しが「馴れ合いは湖畔でやれ。」と書いていたが、意味は分からなかった。
どうも釈然としない日だった。
5月4日(木) 晴れ
昨日の疑問が晴れないまま朝を迎えた。
かと言って思い当たることもなし。気分が悪いのでご飯は食べなかった。
お盆ごとひっくり返して置いておいた。スープがダラダラと床に流れるのが可笑しかった。
祖母はその有り様を見たとき、一瞬顔を強張らせたけど、僕が笑顔だったので祖母も笑顔になった。
雑巾を持ってきて勝手に床を拭いてくれた。
「何か他に食べたいものある?」と聞いてきたので笑顔で答えた。
そのまま何も言わないでいると「せめて水だけでも飲んだほうが。」と勝手にペットボトルを持ってきた。
ミネラルウォーターはなかなか美味しかった。
乾いた喉に水を流し込むと、少しだけ気分が良くなった。
これなら何か思い出すかも、と思ってネットに繋いだ。
固定ハンドルの名前を見ても結局何も思い出せなかった。
その代わりユウイチが新しい発言をしていた。
「湖畔って何ですか?」
そうまさにそれだよ。僕が知りたいのは。
ユウイチも僕と同じ疑問を抱いたようだった。
今のところ誰もそれに答えてない。
早く教えてくれ。
5月5日(金) 晴れ
昼頃起きてすぐにネットに接続した。
ユウイチの質問に答えるレスは見当たらなかった。
何度も何度もリロードをしても、余計な情報ばかり増えつづけてた。
ようやくそれらしい答えが返ってきたのは夕方だった。
「ロロ・トマシ」が「湖畔は固定ハンドルの略。」と書き込んでいた。
そんなことはどうでもいいんだ。それでは「湖畔へ行け」の説明にならない。
意味がわからず一日中不機嫌だった。
今日の召使は父親だった。ご飯を運んできたけど、食べる気は無かった。
ご飯を背中にぶつけてやろうかと思ったけどやめておいた。
この男は腕に鎖を仕込んでる。川口のバッドも寄せ付けないほどだ。
仕込んでたのはあの時だけだったのかもしれないが、用心に越したことはない。
奴にぶつけるのは得策ではないと判断した僕は、お盆ごと窓から捨てた。
唐揚げだけは食べておいた。
夜になるとレスも増え、一応の答えは得られた。
「湖畔はもう片方の掲示板のことだよ。固定ハンドル専用のやつ。ちなみにこっちは情報専用ね。」
掲示板がまだあるのか。名無し曰く「馴れ合い」の固定ハンドル専用掲示板。
そこまで教えるならアドレスも書け。そもそもここは何なんだ。
「ジャンク情報BBS」は掲示板だ。これの元となるHPも存在するのか?
場所は結局分からず仕舞いだった。
僕はますます不機嫌になった。
5月6日(土) 曇
「湖畔へはこの掲示板の下から行けるよ。」と書き込みがあった。
掲示板の下の方に「ホームページへ」というリンクが貼られていた。
全然気づかなかった。ちゃんとHPあっての掲示板だったんだな。
感心しながらクリックした。
カリカリと音を立てて新しい画面に切り替わる。
画面上部にページのタイトルが現れた。
「NSC-2 〜絶望クロニクル〜」
一瞬めまいがした。
最初の三文字を見たときにもう嫌になった。
画面をスクロールすると新しい文字が見えてくる。
「希望の世界」へのリンク。
まず僕の頭の中を支配したのは「何故?」だった。
僕が「ジャンク情報BBS」を見つけたのは偶然だ。
そこになんで「希望の世界」が関係してるんだ。
頭が痛くなり、「ジャンク情報BBS」のリンクの上にあった「湖畔専用BBS」を見つけても
アクセスする気にはなれなかった。ネットを切断し、しばし途方にくれた。
体から力が抜けていくような感じがした。
ふにゃふにゃになった体を支え、かろうじて頭の中だけが動いていた。
しばらくそのままの状態でいると、漠然とだけど状況が整理されてきた。
川口が一度引っ越した「希望の世界」を引き続きROMる事ができた理由。
アングラで「希望の世界」が宣伝されてたから。
それだけで十分だった。それ以上の事を考えるにはあまりにも疲れてる。
濁流に落ちてそのまま流されてる気分になった。
知らないウチに、妙な流れに呑まれてる。
どこまで行くんだ。
5月7日(日) 晴れ
夕方頃にようやく落ち着き、ネットに接続した。
ジャンクから「絶望クロニクル」へ。
昨日のページが画面に表示された。
僕は早紀が書いた日記でしか「NSC」を知らないが、恐らくここも似たようなものだろう。
管理人の名前は「シャーリーン」。女らしい。
旧NSCが消えた以降の「希望の世界」がストーキングされていた。
しかしよく見てみると最近のことまでは書いていない。
と言うよりコレは・・・ストーキング記録。
「NSC」を更にストーキングしたものだ。
「希望の世界」のsakkyと「NSC」とのネットバトルの記録がこと細かく綴られている。
「滅望の世界」というものの記録まであった。かつての「カイザー・ソゼ」のコトまで詳しく書いてある。
それを見て僕は「王蟲」「SEXマシーン」等の名前を、何処で見たのかを思い出した。
これも日記だ。早紀の書いた日記の中で登場した名前。
ここに書かれているストーキングの記録は旧NSCが潰れるまでだった。
「希望の世界」の記述に「K.アザミ」や「ARA」は登場していない。
このページ自体出来たのが最近なのかもしれない。
一瞬「シャーリーン」は渡部さんかもしれないと思った。
ユウイチも自作自演で僕をここに誘い込もうと。
だがそれはあり得ない。僕はユウイチが登場する前から「ジャンク情報BBS」を知っている。
「湖畔専用BBS」も見てみた。
ジャンクで見た固定ハンドルが下らない雑談などをしている。
過去ログを遡ると、渡部さんが行方不明になる前から書き込みがある。
湖畔全て自作自演のセンも消えた。
会話内容からも、ヘドが出るほど下らないものだったがワザとらしさは感じられなかった。
僕は確信した。こいつらは、ちゃんと存在している。
夜、「ユウイチ」も湖畔に登場した。
「なんかここ、凄いページだったんですね。僕も『希望の世界』から来たんですが。
皆さんずっとROMってたんですか?僕の書き込みも見られてたのかと思うとちょっと怖い気も・・・。」
お前も馴れ合いの仲間入りをするのか。
僕はこんなにショックを受けていると言うのに。
早紀が初めてNSCを知った時もこんな感じだったのか。
汚水をかぶるような、とても嫌な感じ。
第十九週 「虎視」
5月8日(月) 晴れ
父親は画面を鋭い目線で睨んでいた。
視線がそのままパソコンを突き抜けていそうな勢いだった。
「絶望クロニクル」の存在はこの男にとってもショックだったようだ。
「いつからあるんだこれは。」と愚かな質問をしていた。
そんなの僕が知るわけないじゃないか。僕は黙っていた。
「このシャーリーンってヤツは何者だ?」
今度は僕が答えないのを分かっていたらしく、画面を見据えたまま独り言を言った。
しばらく考えた後、「まさか渡部達の自作自演・・・。」と僕が抱いた疑問と同じ様なことをほざいた。
だからそれもあり得ない。無知な男にその可能性が無いことを延々と聞かせてやった。
過去ログを見てそれに納得したようだった。
「俺も自分のパソコンでじっくり調べてみる。」と捨てゼリフを吐いて鬱女の待つ部屋に戻っていった。
結局何も分からなかったんじゃないか。
父親の焦りように祖父と祖母までもが「どうした何かあったのか。」と狼狽していた。
半開きのドアから顔を覗かせている。お前達には言ってもわからないような話だ。
何も言わずにドアを閉めた。
5月9日(火) 晴れ
今日はとても暑かった。
ネットのコトはもう父親に任せて、僕は部屋にクーラーを効かして寝ていた。
目を瞑るとネットの画面が現れては消え、現れては消える。
「希望の世界」がまず現れた。ここを汚す愚かな奴等は全て消せたと思ってた。
まだ足りなかった。
闇の中で幾つもの目が光り、「希望の世界」を視姦している。
ネットの中に居る限り、奴等から逃れることはできないのか。
消しても、消しても、次から次へとやってくる。
目が集まると「絶望クロニクル」が現れた。そこからこっちを見てやがる。
蛍の様な小さな光が「希望の世界」と「絶望クロニクル」を行き来するイメージが現れた。
ユウイチか。お前は何をしたいんだ。
幾つもの掲示板が現れて文字の羅列が滝のように流れてきた。ざわめく音まで聞こえてくる。
目だけの群衆とユウイチの光が交差する。音も高まった。うるさい。
全員消えてしまえばいいのに。
父親がノートパソコンとにらめっこしてるせいで母親が家をウロウロし始めた。
獣はちゃんと鎖に繋いでおけ。
僕の部屋にまで迷い込んで来たので追い返してやった。
しっしっと手を振ると素直に出ていった。こいつホントに獣だ。
また勝手に入って来られないよう、いつかドアにカギをつけなければ。
それはいつになるんだろう。
ふと思った。
5月10日(水) 晴れ
父親は引きこもり状態になっている。相当ネットにはまっているらしい。
がんばって「絶望クロニクル」の全貌を解明してくれ給え。ユウイチの動向の監視もな。
部屋には母親も一緒にこもってる。ウロウロしないように、とのことらしい。
家の中で動いているのは祖父と祖母。そして僕だけだ。
新しいペットボトルをとりに居間まで行った。
老人二人が何やら相談していた。僕のことを話していた。
「このまま一生外に出ないつもりなんでしょうか。」
「健史が許さないだろう。少なくとも亜佐美は回復したら外には出すようだが。」
「亮平はもう回復しているのでしょう?」
「しかしあの顔じゃぁ。」
「でもこのままではあまりにかわいそうですよ。せっかく心の方は治ったのに。」
「顔を出さずとも今の時代にはインターネットなんてものもあるから。家に居ても友達くらい・・・。」
「実際会うことだってあるでしょうに。」
・・・・・・・・・・・・・
しばらく立ち聞きしたあと、僕はこっそり部屋に戻った。
ペットボトルは後に取りに行った。
部屋に戻ると可笑しさが込み上げてきた。
クックックと声を抑えて笑っていた。二人の会話を思い出すと笑えてくる。
治ってない。治ってなんかないよ。
声が隣の部屋の父親に聞こえないように気を使った。
久々に愉しい思いをした。
5月11日(木) 曇
「俺達どうも勘違いしてたらしいぞ。」と父親から報告があった。
自分のノートパソコンに「絶望クロニクル」を表示させて僕の部屋に入ってきた。
「単純過ぎて気づかなかった。ちょっとこれを見てみろ。」
そう言ってトップページにある「希望の世界」へのリンク文字をクリックした。
カリカリと音が鳴ったあと、画面が切り替わった。
そこは文字だけだった。
「ページが表示されません」
父親の顔を見ると黙って頷き、説明を始めた。
このページは「希望の世界」と「NSC」のネットバトルを記録したものであるらしい。
リンクが切れてるのは「希望の世界」が引っ越した後は、もう追ってないから。
アングラで宣伝されてから、それを見た誰かが作ったものではなかった。
「NSC」の名残とでも言うべきか。
「希望の世界」のページがなくてもネットバトルの様子がわかるよう、掲示板のログ等でうまいことまとめられている。
これはあの頃に作られたと思われる。そしてその後の『希望の世界』の動向を知らないまま、今に至る。
「固ハンの奴とユウイチの話に若干のずれがあってな。それでもしやと思って気づいたんだ。」
なるほど。それでしばらく奴らの会話を張ってたのか。
よくやってくれた。一応の現状はこれで把握できた。
「奴等に今のアドレスをバレないようにしないとな。」
それはわかってるさ。よし。お前は引き続き見張っててくれ。
何か有ったらちゃんと僕に報告しろよ。
僕が言わずとも、奴は自分からそうすると言っていた。
この男、実に使える。
5月12日(金) 雨
下の階で騒ぎ声が聞こえたのこっそり降りてみた。
廊下で居間の会話を立ち聞きした。
ドアのガラス部分から中を覗き見した。
父親と祖母と祖父。三人の間で異様な空気が流れていた。
母親だけが一人ボケっと座り込んでいる。
「何度も言うように、一生このままの状態を続けるワケじゃない。」
「でも当分はこのままなのでしょう?」
「いつになったら自由にさせてやるんだ。」
「あいつが望めば今すぐにでも。」
「じゃぁアナタがお外に連れていってあげたら?」
「ダメだ。亮平が自分で望まないと。」
「亜佐美は連れていってあげてるじゃないか。」
「亜佐美はまだ自分の望みを口できるほど回復しちゃいないから。」
・・・・・・・・・・・
その後は不毛な論争が繰り返されるだけだった。
祖母と祖父は僕が外に出ないことを心配してるらしい。
そしてそれが父親のせいであると。ケケケ。
父親の自嘲気味な笑い方がうつった。
でも笑える。ケケケ。
あの二人は何か勘違いしてる。父親の方は分かっているようだが。
僕は外に出たくないんだ。だから出ないだけなんだよ。
僕は元々お外で元気に遊ぶようには出来ちゃいないんだ。
妄想を現実にするのが僕の仕事。
ケケケ
5月13日(土) 雨
ネットに繋いでると、部屋に祖父がやってきた。
僕は画面を見たままで、祖父のほうに顔を向けなかった。
勝手に祖父の方から話し始めた。
「今日、健史は亜佐美を連れてドライブにでかけてる。」
そう言えば朝から見ないと思った。
最も、僕は部屋からでないので普段も見ないのだが。
「亜佐美は外に連れていってもらうと、喜ぶようになった。」
へぇ。母親がきゃぁきゃぁ騒ぎながら車に乗り込む姿を想像した。
そしてすぐ消えた。僕には関係無い話だ。
「なぁ亮平。」
祖父が僕の横に座り込み、視線を同じ高さにしてきた。
僕の目にはまだ「湖畔専用BBS」が映っている。
「王蟲」が「みんなに会えるような機会が欲しいですね。」と書き込んでいた。
「ロロ・トマシ」が「シャーリーン様が企画しないとダメだろう。でないと誰も来ないさ。」とレスをつけている。
相変わらずウジウジ動いてやがるな。
「お前は外に出たくないのか?」
ユウイチはどうしてるだろう、と思った。
今一番怖いのは、ユウイチが「希望の世界」の現アドレスを奴等にバラすコトだ。
会話が噛み合わなくなったときに漏らす可能性もある。
「希望の世界」へ飛んでみた。掲示板に行くと、前のユウイチの書き込み以外増えてない。
むしろ教える方が自然だと思うが。アドレスを教えないユウイチが不気味だった。
「どうなんだ?亮平。」
僕は祖父の方に顔を向け、ニッコリと笑ってやった。
祖父は顔をしかめた。火傷のせいでよほどおぞましい顔に見えたんだろう。
笑顔のまま祖父を見据えた。じっと見つめてると、祖父は何も言わず部屋から出ていってしまった。
僕はパソコンの画面に目を戻し、ユウイチの言動を心配した。
僕が外に出れば、こいつらみんな死んでくれるのか?
画面の向こうにいる奴等に向かって微笑んだ。
消えろ。
5月14日(日) 晴れ
ネットに接続中、今日は父親が部屋に来た。
僕は画面に映った「絶望クロニクル」の湖畔掲示板を見ていた。
奴等の間でオフ会の話題が上ってる。しかし管理人の「シャ−リーン」が書き込まないので
その話はそれでオシマイだった。つまらない。
「亮平。」
いつもより澄ましたような声が耳に入ってきた。
掲示板を読み続けた。ユウイチはオフ会の話には興味を示していない。
ジャンクの方に行ってみた。少年犯罪のネタで盛り上がっている。
誰かが渡部さんのネタを振るかと思ったが、新しい情報は無かった。
父親が後ろから僕の両肩に手を乗せてきた。
僕の体が少しビクンとした。手の体温が、肩からどんどん伝わってくる。
とても熱い気がした。
「お前の望みは何だ。」
堅い口調で聞いてきた。僕は相変わらず画面を見つめたままだったが、
祖父の時のように笑いはしなかった。頭の中で父親の言葉が響く。
決まってるじゃないか。僕は思った。僕の望みは、あの時から変わらない。
早紀を。早紀の「希望の世界」を汚す奴の抹消。
潰しても潰しても沸いてくるウジ共。
目の前にある石の下を掃除しても、また別の石の下にしっかり居やがる。
僕はパソコンの画面を指さした。
「こいつらを皆殺しに。」
それが僕の望み。見つけたからには、潰さなくては。
父親は「わかった。」と呟き、部屋から去った。
僕の肩にはまだヤツの体温が残って火照ってた。
それからしばらく、僕は画面を睨み続けた。舐めるように見入る。
「ユウイチ」、「D.G」、「ミギワ」、「シス卿」、「紅天女」、「ロロ・トマシ」、「ダチュラ」、「王蟲」、「SEXマシーン」
そして「シャーリーン」。
早紀が創り出したキャラを名乗るのも許せなければ、
「希望の世界」をストーキングしてたコトも許せない。
みんな覚悟しな。
たった今、ヤツがやる気になった。
貴様等も渡部さんや川口や遠藤のように、全てを失うがイイ。
僕の望み通りに。
シ
ニ
ナ
第二十週「奈落」
5月15日(月) 雨
父親が本格的に参入した。
母親を傍らに置きながらノートパソコンをいじっている。
僕も自分のパソコンで見てみた。湖畔での話題を適当に読んだ。
前にオフ会の話題が有ったので、それをうまく利用できないかと思った。
なかなか話は進まないが、途切れては無いようだ。
隣の部屋に行き、父親に報告した。
「なるほど。」と頷いた。
「居場所がわかってるユウイチから消そうかと思ったけどな。」
横でボケッとしながら座ってる母親が目障りだった。
「渡部たちが気づいてない今の方が、何も知ない奴等を消しやすいかもしれない。」
それはあるな。ユウイチを先に殺すと、何かの拍子でジャンク辺りにそれがバレることも有り得る。
そうなると奴等も警戒してオフ会などやっても来ないだろう。
渡部さんに知られると返り討ちにされる可能性も。
ユウイチも湖畔の奴等も、僕達の存在を知らない。
少しでも気づかれるとROMの意味が無くなる。「sakkyを守る会」と同じ手法だ。
水面下で行動。今がベスト。
今がヤり時。
5月16日(火) 晴れ
暑苦しくて目が覚めた。
昼頃まで寝ていたが、起きたときには汗がびっしょりになっていた。
得体の知れない不安感を感じた。
頭がスッキリしない。思考がひどく濁ってる。
ペットボトルの水を一口飲むと、少しだけ気分が良くなった。
また横になり、天井を見つめながらこれまでのことを考えてみた。
うまく行き過ぎじゃないか。
何もかもが都合良く進んでる。
ユウイチの登場から湖畔掲示板まで。見事なまでに都合良く現れた。
ユウイチが知らなかったことは、僕等も知らなかった事だ。
奴が質問することで、僕も知りたい情報を得てきた。
そしてたどり着いた「絶望クロニクル」
「希望の世界」をストーキングしていたサイト。実に僕の興味を引きそうじゃないか。
僕は誘導されてきたのだろうか。
湖畔の奴等の名前も、僕が嫌がるのをわかってて?
これらの不自然さを解説するには、自作自演という答えが一番妥当だ。
もしそうならその犯人は渡部さん達だろう。
しかしそれは有り得ない。彼女達はネットに繋げる環境にはいないはず。
それに第一、この膨大な情報量を自作自演するのは不可能だ。
ジャンクに至っては湖畔だけでなく多くの名無しカキコも存在している。
加えて、僕がここを見つけたのはユウイチが現れる前だ。
少なくとも何人かは存在してるはず。一人では無い。
でもこのタイミングの良さは何だ?
この調子だと、オフ会もすぐにでも開かれてしまいそうだ。
話の流れがオフ会開催へと進んでる。
考えすぎだろうか。
運が向いてるときって、こんなもんなのか。
トントン拍子でコトが進む時だってある。そうなのか。
釈然としないまま僕の思考は鈍っていった。
頭が、重い。
5月17日(水) 曇
湖畔掲示板でオフ会が企画された。
********
1:10 オフどうよ ■ ▲ ▼
1 名前:ロロ・トマシ
投稿日:2000/05/17(水) 23:17
こうなりゃ俺達だけでもオフ会やるか?
シャーリーンも地下に潜っちまったようだし。
2 名前:王蟲
投稿日:2000/05/17(水) 23:56
いいですね。僕も一度ここのメンバーに会ってみたいです。
いつやりますか?僕はいつでも大丈夫です。暇人なんで(笑
3 名前:SEXマシーン
投稿日:2000/05/18(木) 00:13
オフ会俺も行きたい
4 名前:王蟲
投稿日:2000/05/18(木) 00:21
マジでやりますよね?日程はどうしましょうか。明日ってのはさすが急ですよね・・・
5 名前:ロロ・トマシ
投稿日:2000/05/18(木) 00:35
平日よか土日の方がいいかな。土曜日はどうだ。今週でも構わないぞ。
6 名前:王蟲
投稿日:2000/05/18(木) 00:45
20日ですか?僕は大丈夫ですよ。
7 名前:ミギワ
投稿日:2000/05/18(木) 01:09
あなた達本当に会うの?
8 名前:ロロ・トマシ
投稿日:2000/05/18(木) 01:13
20日な。オッケー。
>ミギワ
俺はいつも本気だぜ?(爆)
9 名前:王蟲
投稿日:2000/05/18(木) 01:24
了解しました。20日が楽しみです。時間と場所はどうしましょうか。
ここのメンバーって確か関東在住が多かったですよね。
やっぱ東京かな?
10 名前:シス卿
投稿日:2000/05/18(木) 02:03
HEY!20日でも急過ぎだ。もちっと時間に融通利かせてくれないか?兄弟!!
********
ウチは僕しか起きてないというのに。こんな夜遅くにも、奴等は元気に活動してる。
そしてとうとうオフ開催が決まった。
奴等はまだ会ったことが無い。僕がROMってるコトも知らない。
オフ会へ潜り込むにはベストの状態だ。確かにベストではある。
話の流れにわざとらしさは感じられないか?タイミング良すぎではないか?
疑って見ると演技の気もするし、素直に見ると本当の気もする。
疑いようはいくらでもある。信ずるに値する根拠も、いくらでも。
昼に寝過ぎたおかげで頭が冴えてしまってる。
眠れそうにない。
5月18日(木) 晴れ
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1:7 緊急オフ決行 ■ ▲ ▼
1 名前:ロロ・トマシ
投稿日:2000/05/18(木) 02:47
5月20日横浜駅西口東横線改札前に集合。
午後5時ジャスト。暇な奴、来い。
2 名前:SEXマシーン
投稿日:2000/05/18(水) 10:50
急過ぎだっちゅーに。俺は行けない。
3 名前:王蟲
投稿日:2000/05/18(木) 17:02
僕は勿論オッケーです。
やっぱ急過ぎたかな?あんま集まらないかも・・
4 名前:紅天女
投稿日:2000/05/18(木) 18:21
残念!!20日には既に予定が。
また誘ってねー
5 名前:ユウイチ
投稿日:2000/05/17(木) 19:35
僕も予定入ってます。
6 名前:シス卿
投稿日:2000/05/17(木) 19:39
OH!SHIT!俺アウト!!
7 名前:ロロ・トマシ
投稿日:2000/05/17(木) 20:49
このままだと俺と王蟲の二人だけになりそうな予感。
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「含みのありそうな待ち合わせ場所だな。」と言って、父親はケケケと笑った。
僕が抱いてる不安感を伝えた答えがこれだった。父親はずっと笑っていた。
「なぁ亮平。」
画面を見据えながら、さらにニヤリと笑みを浮かべた。
「もしこれが罠だったとしてもだ。何か問題有るか?」
僕は考えた。もし罠なら、来るのは恐らく渡部さん達だろう。
そして、待ち合わせ場所も単なる偶然の一致で、奴等が本当に何でもないようなヤツなら?
頭の中に、ハッキリと答えが浮かんできた。
そうかそうか。この男の言うとおりだ。
問題、無しだ。
渡部さん達なら返り討ちにするまでだし、知らないヤツでも消すワケだ。
数日悩んだ頭がスッキリ軽くなった気がした。
ユウイチも絶望クロニクルの奴等もどう出ようが関係ない。
この男なら見事に使命を果たしてくれるだろう。
僕もケケケと笑った。
父親もまだケケケと笑っていた。
二人して笑ってると、父親がフと眉をひそめた。
「そう言えば。」
僕は笑うのをやめた。
「ユウイチって名前。どっかで聞いたような気がするんだけどなぁ。」
散々頭をひねっていたが、結局思い出せなかったようだった。
僕には心あたりは無い。
母親がまたウロウロし始めたので話はそれで終わった。
父親はあの女に付き添い、僕は自分の部屋に戻っていつも通り水を飲んで寝転がった。
悩み事が解決したので今日はゆっくり寝れそうだ。
最初からあの男に全てを任せておけば余計な心配せずに済んだんだ。
改めて奴の有能さを認識した。
面倒なことは全て奴がやればいい。
僕はここで寝てるから。
5月19日(金) 曇り
明日に迫ったオフ会。父親が画面を見つめながら何か呟いた。
「このシャーリーンって奴、よっぽど早紀のことが好きなんだな。」
ケケケと笑って「絶望クロニクル」が表示されてる画面をトントンと叩いた。。
確かにそうだ。早紀。sakkyのことを散々付けまわしてこんなページを作った。
その割には「希望の世界」に押し入ってくる様子も無い。
ひっそりとsakkyを観察し、迷惑かけずひっそりと存在し続けている。
確かに、好きじゃなきゃこんなページわざわざ作れないな。
父親がマウスをいじるのを眺めながら、僕はシャーリーンについて考えた。
そもそもこいつは何者なんだろう。
「希望の世界」を汚す者にはかわり無いが、掲示板を見る限りでは存在が確認されてない。
父親がまた笑い声を上げた。
「待ち合わせの目印はベルだってよ。」
ケケケと笑った。僕もケケケと笑った。
「明日が楽しみだ。」と父親が言った。
僕も楽しみだよ。
自分の部屋に戻る前に、いつものようにペットボトルを取りに行った。
冷蔵庫をあさっていると祖母が近づいてきた。
「亮平。」
僕は顔を向けた。
「本当に、健史に任せっきリでいいの?」
僕は眉をひそめて首をかしげた。質問の意味がよくわからなかった。
それを察した祖母は言葉を変えて言いなおした。
「あなたの治療、私たちに手伝えそうな事無い?何か相談したいこととかあれば遠慮無くいって頂戴。」
僕は理解した。祖母は僕のことを心配している。
父親に任せておくと、ますます引き篭もりになるんじゃないかと思ってる。
「大丈夫。」
僕はそれだけ言い残し部屋に戻った。
祖父と祖母は、あの男の強さを知らない。川口の攻撃を軽くあしらったあの光景を知らない。
任せておけばいいんだ。奴は奴なりに僕の心を治療しようとしている。
僕の望み通りに動く、という形で。それくらい僕にも察しがついてるさ。
奴がこんなに動いてくれるのは、僕の心を治療する為なんだ。
だから他が心配する必要は無い。父親に十分治療されてるんだから。
効果は無いけどな。
kekeke
5月20日(土) 雨
夜10時過ぎ、車が戻ってくる音が聞こえた。
父親はなかなか家に入ってこなかった。
何をやってるのか少し気になり、僕は車庫へ行った。
車庫の中は裸電球のみで照らされていて薄暗く、少しだけシャッターが開いてるのに気がついた。
車の中も明かりが付いてた。父親の影がゴソゴソ動いていた。
片方のドアは開いており、そこから父親の足が見える。
近づくと父親は僕の存在に気がついた。
「よう。丁度良いときに来てくれた。」
腕まくりをして雑巾を持っていた。バケツにはホースが突っ込んであって水があふれてる。
手招きして「ちょっと手伝ってくれ。」と言った。
父親の肩越しから車の中を除いてみた。
シートに血が飛び散っていた。
雑巾でゴシゴシと血をぬぐっている。
赤黒く染まった雑巾はバケツで洗われ、またシーツをごしごしと。
「これでこっちを拭いてくれ。」
バケツに掛かってたもうひとつの雑巾を僕に渡してきた。
僕はそれを受け取り、開けっぱなしのドアの内側にあてがった。
父親は中に入り込み、せっせとシートを拭ってる。何か洗剤を使ってた。
助手席の方にはノコギリやらナイフのようなものやらが転がっていた。
ドアの内側にも赤い液体が垂れている。所々に髪の毛もこびりついていた。
スっとひと拭きしてやると、雑巾に髪の毛が吸い付いていった。
「雨のせいで泥までついてやがる。」
シートの下には泥で足跡がついている。雑巾でそれを懸命に擦っていた。
ドアを拭き終わりバケツで雑巾を洗っていると、横にトランクと黒いゴミ袋が置いてあるのに気がついた。
僕がそれをしばらく見ていると、「ああ、それか?」と父親の声が聞こえてきた。
「そうそう。あいつら自作自演じゃなかったみたいだぞ。何てことない普通の奴だった。」
トランクから目が離せなくなった。隙間から、血が一筋垂れている。
「けどな。一人しかいなかったんだ。それでまぁとりあえずそいつだけでもってコトで。」
血は地面に伝って、バケツからこぼれた水と混じっていった。
「そのトランクは早紀を運んだヤツとは別モノだから。安心してくれ。」
一息ついた後、父親は再び作業に戻った。
作業をしながら話を続けた。
「ゴミ袋は触らないでくれな。破けるとマズイから」
僕は指先だけでゴミ袋を突いてみた。グニャリとした感触があった。
「トランクに入りきらなかったからさ。余計なのはそっちに移したんだ。」
余計なの?僕は聞き返した。
父親が中からひょっこり顔を出してケケケと笑った。
「足とか頭とか。」
僕は目を見張った。
「参ったよ。死体からも結構血は流れるんだな。そーゆーのってやっぱ時間とかで変わるんだろか。」
僕は黙って首をかしげることしかできなかった。
「おかげでシートが汚れちまったよ。漂白剤で落ちねぇかなぁ。」
父親はまた作業に戻った。
ゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシ
音が頭に響いてくる。
僕は目の前にある元人間を眺め続けた。
すると急に、体が震えてきた。
絶えがたい恐怖感が襲ってきた。
父親はそれに気づかずゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシ続けてる。
トランクとゴミ袋。ここに詰まってる。
気持ち悪くなった。そんなはずない。そんなはずない。
僕が恐怖を感じるなんて。そんなはずない。
口の中で何度も呟いた。
穴に落ちていくような妙な気分になった。奈落の底に落ちていくような。
足元にポッカリ穴が空いて、そこからどこまでも果てしなく落ちていく。
僕はわけがわからなくなっていた。
頭のなかでは色んな声、映像、音がグルグルグルグルグルグルグルグルグルグルグル回っていた。
散々回ったかと思えば、すべてがサッと引き、一言だけが響いてきた。
昨日の祖母の声。「本当に、健史に任せっきリでいいの?」
空しく響いて消えていった。
トランクの中から声が聞こえてきそうだった。
ゴミ袋が動きそうだった。
そこから変なオーラが出て僕を包んでいるみたいだった。
思わず叫びそうになるのを口で押さえ、僕はフラフラとその場を離れた。
背後からものすごいプレッシャーを感じて涙まで出てきた。
僕が泣くなんて。
他人の死をこんな近くに感じたことは今までなかった。
荒木さんの時も焼け跡を見ただけだし、川口も目を抉られただけで、生きてはいた。
「希望の世界」を汚すヤツは皆殺しに。
それが僕の望みだ。
皆殺し。ベッドに倒れ込んだときに、この言葉が頭をよぎった。
殺すってことは、誰か死ぬんだ。
血が漏れてたトランクと黒いゴミ袋。
異様なまでのリアリティを感じた。怖いくらいの現実感。
もう戻れない。そう思ったとき、不思議なことに僕はケケケと笑っていた。
「皆殺し。」
口に出して言ってみた。指先にゴミ袋を触ったときのグニャリとした感触が蘇る。
今でも触ってるんじゃないかってくらい鮮明に蘇ってきた。
グニャグニャグニャグニャグニャグニャグニャグニャ
僕はケケケと笑った。無性に笑いたくなっていた。
もう戻れない。
5月21日(日) 晴 れ
父親は車に乗ってトランクとゴミ袋をどこかに捨てに行った。
「ここは小田原だぞ。ちょっと走れば腐るほど山がある。」
なんとかスカイラインだとかに行くと言っていた。
僕は部屋で自分の指を眺めてみた。
もう昨日の感触は残ってない。
散々と意味不明の恐怖におののいた後、急激に醒めていった。
怖さが身体を突き抜けていった感じだった。
それからは特に考えることなど無く、ただボケっと過ごしてた。
ネットに繋いでみる。湖畔掲示板ではいつも通りの会話がなされてた。
「昨日のオフ会どうだった?」
「今度あったら誘ってくれよ!!」
「オフ会レポートキボン」
王蟲とロロ・トマシは書き込んでなかった。
どちらかは死んでる。それが誰だかはどうでも良かった。
ジャンク情報BBSに繋いでみた。
相変わらずどうでもいいような情報が飛び交ってる。
僕はそこに一言書き込んだ。
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1:1 報告 ■ ▲ ▼
1 名前:処刑人
投稿日:2000/05/21(日) 06:17
誰かが死んだ模様
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書いてみて気が付いた。
二つの掲示板の関係。ああそうか。これは表と裏なんだ。
ジャンクの存在意義がわかった気がした。
処刑人の書き込みはこれからも増え続ける。
しかしその度に膨大な情報量の中に埋もれ、流されていくだろう。
それでいいさ。二つ掲示板の間にある溝をわざわざ埋めてやる必要は無い。
「絶望クロニクル」
うまく構成されている。
シャーリーンが何者なのかはわからないが、有るモノは利用させてもらおうじゃないか。
僕はもう戻れない。僕がやめろと言わない限り、ヤツは突っ走る。
やめろと言うつもりは無い。
突き抜けた恐怖の先には、悟りに近いものがあった。
ネットの向こうにいる「普通の」奴等。
カワイソウニ。ずっとROMってれば狙われなかったのに。
何処かに「見た」証拠を作っちゃいけない。
川口同様、ROMるなら徹底的にROMらなければ巻き込まれる。
残念ながら僕は知ってしまった。
だから僕は、叶えたはずの願いをまた掲げなければならない。
また長くなりそうだ。ユウイチも居るしシャーリーンも居る。
存在が確認される限り、僕は何度でも望む。
あの男が何度でもやってくれる。
早紀を汚すヤツは死ね。
→第2部<迎撃編>
第6章「膜」