絶望の世界A −もうひとつの僕日記−
第16週
3月5日(月) 晴れ
奥田から短い電話があった。
バイト中だから家に戻ったらまた連絡くれと言ったのに「用件だけでも。」と。
「お前の言う通りだった。で、俺ようやく自分のやるべきことがわかったんだ。
それだけ言いたくて。お前のアドバイスのおかげだよ!」
それでプツリと切りやがった。かけ直そうとしたら店長に睨まれたからできなかった。
いきなり自分がやるべきことがわかったって言われても。
とりあえずそれが何かを教えてくれよ。肝心の部分が分からないじゃないか。
しばらく落ち着かなかった。美希ちゃんと何を話し合ったって言うんだ。
レジの打ち間違いが続いて店長にどやされた。
ようやく休憩時間になって電話をしようとした矢先、ふと思いついた。
ひょっとして深く考える必要は無かったか?
うん。そうだよ。分かり切ったことじゃないか。
話が飲み込めてくると同時に喜びが沸々と沸いてきた。
結論は一つしかないじゃないか。待ちに待ったその決断。奥田、でかした。ついに踏ん切りがついたんだな!
今の二人の状態でやるべきこと。それは。
美希ちゃんと別れる。これ以外考えられない。
となるとヘタに電話して横槍を入れる必要はない。
ようやくその気になったのにまた思い返されても困る。
いいぞ。最後にとことん話し合ってくれ。積もる話もたくさんあるだろうに。
僕はいくらでも待ってやるさ。
3月6日(火) 晴れ
美希ちゃんがこのドアを叩く瞬間が待ち遠しい。
奥田と別れたとなれば彼女の行く先は僕の所しかない。
今更家に帰るなんてことは無いだろう。別れ話に時間がかかるのは仕方ない。
何しろ同棲までした仲なんだから。早々話がまとまるとは思えない。お互いに自分の買ったものやらあるだろうし。
けどそろそろいいんじゃないかな。奥田も決断したんならいい加減彼女を解放してやれよ。
黙って待ってる僕の身にもなってくれよ。わざわざバイトを休んでまでスタンバイしてるのに。
バイトだって長く休み過ぎると文句言われるんだから。
何より僕の気が晴れない。
テレビを見ても弁当を食べてもゴミを片づけても彼女の訪問ばかり考えてる。
コインランドリーに行くのも大急ぎで行ってきた。家の電話もわざわざ留守電にまでして。そんな機能初めて使ったよ。
僕のこうした細々とした努力。全て無駄に終わってしまった。
まだかまだかまだかまだかまだかまだかまだか。
彼女はまだ来ないのか。
3月7日(水) 晴れ
やはりこっちから電話の一本でも入れてやろうか。遅い。あまりに遅い。
もしや二人の身に何かあったのか?別れ際に良く聞く話だ。血みどろの愛憎劇。
いやでも奥田は別れる決心をしたんだし。けど土壇場になってまさか。
おいおいそりゃシャレにならないぞ。
奥田、お前勢い余って美希ちゃんを殺しはしないだろうな。
彼女が最後に僕との関係を明かして逆上なんて・・
あまりに心配になって電話より確実な別の行動を起こしてしまった。
駅前まで走った。僕のバイト先を横切って線路の向こうへ。
遮断機が下りてる時間が異様に長く感じられた。
ここ数ヶ月電車に乗った記憶など皆無な僕には迷惑以外なにものでも無かった。
遮断機が上がったと同時に再び走り始めた。あと少し。
息を切りながら坂を上った。あと少しで奥田のアパートが見える。
美希ちゃん、無事でいてくれ。ひたすら祈った。
アパートに着いて階段をかけのぼる。ドアの前に。
息を整え、落ち着き払ってドアを叩く。
「今開けるね。」と中から声が。美希ちゃんの声だった。
ドアが開いた。僕を見て驚く彼女。「亮平君!」
彼女の無事な姿を見て心底安心した。ホッ一息ついて手を握ろうとした。
その矢先、嬉しそうな顔をしてた彼女の顔色が急に変わった。
「亮平君ダメ。今来ちゃダメ。徹君が戻ったら酷いことに。」
「ダメ?どうして。奥田は居ないの?どっか行ってるの?」
「うん。今お店に出かけてるの。でもすぐ戻るって言ってた。」
「なんで店になんかに。」
「それがね、あ、まだわかんないけど、戻ってきたらハッキリするんだけど。」
「どうしたんだよ。何があったんだよ。」
「私にもあの人が何考えてるのか。ねぇ一緒に見られるのはマズイよ。」
「わかってる。でも・・。」
「亮平君。明日徹君と一緒にあなたの家に行くから。明日絶対に。」
「明日か。電話は?」
「とても電話では伝えきれないことになりそうなの。」
「なんか凄いことになってるのか・・。わかった。今日は出直すよ。」
「ごめんね。わざわざ。電話の一本くらい入れておけば良かったね。」
「いいよ。大丈夫。よっぽど酷いことになりそうなんでしょ?」
「うん。」
「じゃあ奥田が戻る前に行くよ。また明日。」
「明日ね。」
帰るとき少し遠回りして奥田の勤めてるソバ屋の方も見てきた。
かち合わないように注意して行ったけど奥田とはすれ違わなかった。
店は閉店時間にも関わらず電気がついてた。何か話合ってるのか・・想像つかなかった。
今日はまぁ美希ちゃんの無事を確認できただけ良しとしよう。
明日になればきっと何かわかるだろう。
3月8日(木) 晴れ
約束通り二人は来た。
嬉しそうな奥田の顔。美希ちゃんも笑ってる。
「連絡しなくて悪かったな。最近ちょっとゴタゴタしてて。」
「いいよ。で、今日はどうしたんだ?」
「お、それそれ。今日はちょっとな。話があって来たんだよ。」
奥田の声は明るかった。酷い話を聞かされると思ってた僕は拍子抜けした。
振り切れたおかげでお互いスッキリしたのか?
なんだなんだ。重苦しい空気になるかと思ってたのに。全然平気じゃないか。
などと一瞬安心してしまった僕は馬鹿だった。
安心なんて冗談じゃない。あんなことしてよく笑っていられる。
狂ってる。奴の中で、何かが壊れてしまったんだ。
奥田の話は、僕が想像したのよりも遙かに酷い話だった。
「話って何だよ。」
「うん。実はな、俺気付いたんだよ。仕事始めたせいで美希に構ってやれてなかったってこと。
美希がお前とネットにハマってたのも当然だよな。俺は自分のことしか考えてなかったんだから。
そりゃ家計を考えるのも大事だけど、それだけじゃダメなんだよな。こいつがいてくれたから家計を考える気になったんだ。
なのに俺は、一番大事なことを忘れてしまってた。」
「そうなのか。」
「ああ。そうなんだよ。だから俺は考えたんだ。どうやったら元に戻れるかなって。同棲を始めたあの頃みたいに。
俺はまずネットをやってみた。お前らネット好きだったからさ。処刑人か。風美って奴もそうだけど、奴らの追跡が中途半端になってたから。
ここら辺はお前らも一緒にやってくれたけど、まぁご存じの通りそれでも美希との溝は埋まらなかった。
その後も一人でちょっとやってみたけどな、何かが違うなって思ったんだよ。一人でやる意味が無いし根本的に何も解決しない。」
「で?その解決策は見つかったのか?」
「それだよ!今日こうして来たのはその話をしに来たんだ。解決策、見つかったんだよ」
「どんなだよ。」
「要は根本的な問題が解決できればいいわけだ。俺達の間にできた溝を作った原因を取り除けばいい。
それで八ッと思い当たって・・・実はな。もう実行したんだよ。」
「何をやったんだ。」
「昨日ちょっとね。」
「何やったんだよ。教えろよ。」
「へへ。知りたいか?驚くなよ?」
「いいから言ってくれ。」
「仕事を辞めた。」
「・・・は?」
「だから仕事を辞めたんだよ。綺麗サッパリ。店の方にも話をつけてきた。これでしがらみ何にもナシ。
どうだ。シンプルでいて最も効果的。物事ってのは意外と簡単な方法で解決できるんだよ!」
美希ちゃんは黙って笑ったままだった。
僕も笑った。
「すげぇな!よく決断できたもんだ!」
「いやぁ。やっぱさ。早く手を打つのが大事だしさ!」
三人で大笑いした。お酒も入ってないのに異常なほど楽しげな空気に包まれた。
少なくとも笑ってる間は楽しい気分でいられる。余計なことを考えないで済む。
笑え。もう笑うしかない。笑って一件落着。これで全員幸せ!
何をやってもおかしかった。ご飯を食べてもテレビを見ても。
テーブルにカップを置くときに音が鳴っただけでも大爆笑。誰かがトイレに立った時にはお腹がよじれるほど笑った。
二人が帰るときにはもちろん笑顔で送り出した。
見送りされる方もスキップしながら帰るんじゃないかと思うほど楽しそうだった。
世界で一番幸せなカップルに見える。
ただ、帰り際美希ちゃんの笑顔が一瞬歪んだのだけは見逃さなかった。
3月9日(金) 寒い
美希ちゃんが家に飛び込んで来た。
ドアをどんどんと叩く音が尋常じゃない事態が起きたことを物語ってた。
彼女の顔はげっそりとやせ細り、目に下にはくまができるほどひどい顔になっていた。
両手に持っていた大きな鞄が二つとも同時に地面に落ちた。
ドンっと音がして中身の重さを物語っていた。
彼女は落ちた鞄のことなど気にせず、下を向いたまま僕に倒れ込んで一言。
「もうダメ。耐えられない」
僕は喜んで迎え入れた。一時間もしないうちに奥田がやってきた。
携帯電話の電源は切っておいたのに。察しの悪い奴だ。
自分が犯した過ちに気付かずノコノコと現れた。
「美希がいなくなった。ここに来てないか?」
彼女を見ると疲れ切った表情のまま黙って頷いた。
もうこれ以上事態をこじらせるわけにはいかない。今日こそきっちりとケリをつけないと。
僕はドアを開け、奥田と対面した。
「亮平。聞いてくれよ。あいつひでぇんだよ。いきなり荷造り始めてさぁ。
何やってるんだよって言ったら『もう嫌』とか叫んで飛び出したんだぜ。慌てて追いかけたんだけど見失っちゃって。」
「美希ちゃんならここにいるよ。」
「良かった!やっぱここだったか。ちょっとあいつと話をさせてくれよ。
今度ばかりは俺も黙ってられない。言いたいことが山ほどあるんだ。」
「無理だよ。」
「何?」
「だから無理だと言ってるんだ。美希ちゃんと話しをさせるわけにはいかない。」
「ちょっと待て。お前何言ってるんだよ。美希はここにいるんだろ?おい、美希。返事しろ!」
「やめろって。わからないのか?美希ちゃんはお前と話をしたくないんだ。」
「なんでだよ!大事な話なんだぞ。せっかくこれから一緒にうまくやってこうってのに。こんなんじゃ全然ダメじゃないか!」
「奥田。いい加減認めろよ。お前達の仲はもう終わったんだ。とっくにダメになってるのに気付かないのか?」
「黙れ!お前何様のつもりだ!冗談じゃねぇ。入るぞ。亮平、どけ!」
「できない。」
「いいからどけって!」
奥田に突き飛ばされた僕はバランスを崩して玄関に倒れ込んだ。
美希ちゃんの悲鳴が聞こえた。
奥田は一瞬自分のしたことが信じられない、という様に両手を呆然と眺めた。
けど美希ちゃんの姿を確認すると正気に戻り、靴を脱いで部屋に入っていった。
僕は急いで起きあがって二人を見た。胸ぐらを掴もうと手を伸ばしかけてためらってる奥田が見えた。
その後には歯を食いしばって目の前の男を睨む美希ちゃん。
「最低!亮平君に謝ってよ!」
「美希、お前どうしてこんなことを・・」
「ほっといてよ。もうほっといてったら!」
「待てよ。俺たちこれからじゃないか。仕事も辞めてまた一緒にいる時間が増えたじゃないか。
再スタートってやつだよ。な?新しい気持ちでやり直すっていうか・・」
「違うのよ。お願い、わかって。私たちは別れた方がいいのよ。もう元には戻れないのよ。」
「おい。何言ってるんだ。変なこと言うなよ。別れるだなんてそんな。」
「もうハッキリしましょうよ。ね。別れましょ。その方がお互いの為になるから。」
「お互いって・・俺は・・お前のために仕事まで・・」
「仕事をやめたあなたに何の魅力が・・!!」
奥田の顔から表情が消えた。
美希ちゃんは自分の言葉の重さに気付き、すぐに「今のは違う。」と首を何度も横に振った。
奥田は何の反応も示さなかった。やがて彼女は説得を諦め「ごめんなさい。」と言い続けた。
あいつはその場に立ちつくして宙を見つめていた。
彼女の言葉の意味を理解するのに時間がかかってるようだった。
声も出さず、涙も流さず、ただ彼女の言葉に耳を傾けていた。
僕は膝をついたままずっと二人の様子を見てた。
壊れたテープみたいに同じ言葉を繰り返す美希ちゃん。ぴくりとも動かない奥田。僕も息が詰まりそうだった。
やがて奥田の口からかすれた声が聞こえてきた。
「どうして?」
美希ちゃんがゆっくり顔を上げた。その視線の先には、僕。
奥田も僕を見た。美希ちゃんの顔と交互に見つめる。
僕と目が合うと徐々に目元が震え始めた。泣くのを堪えてるのが目に見えてわかる。
顔がぐしゃぐしゃに歪んだ。またすぐに平静を保とうと顔を引き締める。
歪んでは戻り、歪んでは戻り、とうとう歪みっぱなしになった。
とても小さな声が聞こえた。
「・・・そうゆうことだったのか。」
奥田は走り出した。僕の横を通って玄関へ。
靴を履こうとして懸命に足を動かしてたけどなかなかうまく履けてなかった。
靴ひもがからまってるのをほどくのに指が忙しそうに動いてた。
ガタガタ大きな音を立てて悪戦苦闘してる。指先が震えててそれもうまくできてなかった。
「ひひひ。」と奇妙な声がした。
目をギョロリと見開いて、口元が裂けたように・・笑ってた。
靴は諦めてかかとを踏みっぱなしで外へ出てった。
誰も追わなかった。
3月10日(土) 快晴
奥田が自殺した。
電車に飛び込んだそうだ。
駅名は聞いたこともない所でもう忘れてしまった。
茨城だが栃木だか。かなり遠くまで行ったらしい。たぶんどこでも良かったんだろう。
ずっと電車に乗り、ふと思いついた駅で降りて飛び込んだんだと思う。
美希ちゃんの携帯に連絡をくれたのはソバ屋の店の親父さんだった。
従業員証がまだ財布に入れっぱなしだったのが幸いした。
それが無かったらもっと時間がかかってたかもしれない。
バラバラの死体から身元を割り出すのは大変そうだから。
美希ちゃんは横で寝てる。一日中泣いてたから泣き疲れるんだ。
僕はテレビであいつのことが取り上げられないか見てたけど
残念ながらどこのニュースでも放送されていなかった。
地方ニュースとかなら出てるかもしれない。
わざわざ確認する気にはなれなかった。
3月11日(日) 晴れ
外に出たくない。動きたくない。
美希ちゃんも同じようにご飯も食べずにテレビをつけっぱなしにして呆けたまま過ごした。
いっそ警察にでも呼び出されれば動く理由ができるのに。電話が鳴る気配は無い。
僕らがした会話は「ご飯食べる?」「いらない。」など
会話と言うにはあまりに内容の無いものだった。
奥田の名前など一言も出てこない。話す気になれない。
けど僕は自分の中ではなんどもその名を連呼してた。
奥田徹。
悲しみの感情は沸いてこない。涙も出ない。
ただ、心の奥底にドロドロとしたものがうねってるのを感じる。
あまり考えないようにしたけどそれが何なのか僕にはわかってた。
口が裂けても言えないものだけど。わかってる。
そこから目をそらすと今度は大きな波がやってきて容赦なく僕を呑み込んだ。
波に、罪悪感に包まれた僕は頭を抱え、布団に倒れ込んだ。
狭い床に二人も寝転がっている。肌が触れ合ったけど、それだけ。
お互い考えなければならないことがたくさんある。自分の中で整理するだけで手一杯。
気遣う余裕なんて無かった。
僕は頭の中でずっと同じ言葉を繰り返してた。
恐らく美希ちゃんも同じことを考えてると思う。
今の僕らにはこれしか言うことがないから。
「奥田。許してくれ。」
許してくれそうにない。
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