絶望の世界A −もうひとつの僕日記−
第64週
7月29日(月) 晴れ
ニヤニヤ笑ってる男がいる
女の子と手を繋ぐのは慣れてないらしく、握り方がぎこちない
ちょっと気を許すとほどけてしまい、慌てて握りなおす
でもそのぎこちなさもまた嬉しく思っているようだ
連れてる女の子が叫ぶ
「もっと遊ぼうよ!まだ二日目だよ。これからもっと遊びまくるんだからね。バカみたいに遊び呆けるのよ!」
男はその言葉を間に受けて本当にバカみたいに呆けた顔をしていた
女の子に引っ張られいろいろな乗り物に乗っていく
ジェットコースターに乗ってきゃあと叫んでる
お化け屋敷に入ってこわいこわいと怯えてる
屋台でアイスクリームを買って冷たくておいしいねと言っている
女の子がトイレに行ったとき、ようやく一人になった
それまで昨日の夜からずっと一緒だった
一人になって空を見上げると真っ青に晴れた空が広がっていた
照りつける太陽の光がちりちりを音を立てて肌を焦がす
汗をハンカチで拭でぬぐい、次は何にのろうかと考えている
女の子が戻ってきた
「お待たせ!岩本さん。次は何に乗る?」
さっきのよりもっと怖いジェットコースーターがあるでしょ。昨日混んでて行けなかったやつ。それにしようよ。
二人は次の目的地にめがけてかけっこを始めた
負けないぞと言いつつも女の子に気を使って少し力を抜いて走る
この男に意志は無かった
子供のように動き回り、笑い、叫び、その瞬間を余すところ無く楽しむ
それがただ一つのことだけに向かっているのを知っていた
どうもこの先には自分の求めてるものがあるようだ
本能が彼を動かす
光に寄っていく虫のように
その終着を目指した
7月30日(火) 晴れ
女の子は動き回っている
彼は彼女に手を引っ張られ、金魚のフンのようについていった
「今日は食べ歩きよ!走って動いてお腹空かせておかないと全部食べきれないわよ!」
その遊園地の所々に設置されたオシャレな屋台を片っ端から回った
ポップコーンの塩味とキャラメル味、オレンジ味のアイスキャンデー、アップル味のアイスキャンディー、
ローストチキン、大きな渦巻きを巻いた飴、クリームたっぷりのクレープ、フランクフルト、フライドポテト、
砂糖が降りかかった細長いチョリソ、チョコがかかったワッフル、コーラ、コーヒー・・・・
まともなご飯も食べずにひたすらジャンクフードを食べあさった
ローストチキンにかぶりつく彼の表情は満足そうな笑顔だった
とてもおいしいらしくヨダレがたれてるにも気付かず骨をしゃぶり続けていた
色んなものを一気に食べたせいで、彼は途中で気分が悪くなった
女の子はソフトクリームを一生懸命舐めまわしてる
彼はちょっとトイレに言って来ると言ってその場を離れた
女の子は「いってらっしゃーい。」と軽く手を振ると、再びクリームを舐め始めた
トイレに入るとすぐに便器に駆け寄り、胃の中のものを全て吐き出した
吐いても吐いても出てきた。出るものが無くても吐いたら黄色い液体が出てきた
口の中がすっぱい。
この液体は胃液だと思った
何度も何度もうがいをしても口の中の酸っぱさはとれなかった
彼女の元に戻ると、ソフトクリームを一口もらった
甘いバニラの香りが口の中に広がり、さきほどの酸っぱさが和らいでいった
それからしばらくは甘いものを食べた。酸っぱいのが消えた頃にはまたローストチキンをかぶりついていた
夜はホテルのレストランで食事をした
メニューの中で一番高いコースを食べ、一番高いお酒を飲んだ
慣れない高級ワインを片手にやたら小さく切られた肉を頬張ってると
ほろ酔い気分の彼女が目の下をほんおり赤くしながら、顔を彼の方に近づけてきた
「明日が正念場よ。食べ歩き後半戦、全部のレストランを制覇するからね!」
彼はいいねぇと声を上げてワインをぐっと飲み干した
耳が赤くなり、心臓の鼓動が早くなる
アルコールが全身をめぐるのを感じた
目の前に座ってる彼女がぼやけて見えた
自分の手もぼやけて見えた
世界が全てぼやけていた
7月31日(水) 晴れ
手当たり次第にレストランを食べまわった。
遊園地の中という小さな世界だけど、食べ物の種類はとても一日で食べきれるものじゃなかった。
それでも二人は食べた。食べても食べても空腹感がなくならず、信じられないほどの量を食べた。
満面の笑みでフォークを口に運ぶ二人。中華、和食、洋食、とにかく食べた。
胃がブラックホールになったみだいだと彼は言った。
彼女はいつもの調子で笑いながら答えた。
「きっと、最期の食い溜めだって身体もわかってるのよ。」
やがて全ての店を制覇すると、自然に空腹感も満腹感へ移行した。
プックリと膨れたお腹をさすりながら、二人はベンチで休んだ。
道行く人々を眺める。夏休みなだけあって混みあってる。
家族連れやカップル。仲良しグループらしき女の子たち。
迷子になったのか、泣いてる少年がいる。
風船を片手に、アニメキャラクターをモチーフにしたリュックを背負ってる。
同じアニメキャラが着てるTシャツの中でニッコリと楽しそうに笑ってた。
でも彼は泣いてる。たった一人で人込みの中に取り残され、お母さんと叫ぶ。
すれ違う人はチラっと彼を見るが、誰もが次のアトラクションの列に並ぶためにそそくさと急いでその場を後にする。
彼は絶望的な声で叫んでいた。
タイミングよく場内アナウンスが流れた。迷子のお知らせ。どうも彼のことのようだ。
しかし幼い彼は自分が呼ばれてることに気付かない。
周りの大人たちも気付かない。場内アナウンスなど耳にも入ってない。
彼はどこに行けばよいのかもわからず、その場でただ泣き続けた。
「あの子どうなると思う?」
隣に座ってる男がわからないと答えた。
「あの子は私達と同じよ。人の流れの中で生き方に迷い、助けを求めて泣き叫んでる。なんてね。」
男はそうかもしれないと答えた。
「ねぇ岩本さん。なんで私が遊園地に来たがったか知ってる?」
男は頷いた。彼はもうとっくに知っていた。
彼女はクスクスと笑って話を続けた。
「私ね、岩本さんと一緒に死ぬことにしたの。だから最期に遊び尽くしたかったの。
食べ物もそう。おいしいものいっぱい食べ尽くしたかった。でね、両方できるのは遊園地かな、なんて思って。
けどね。ホントは子供の頃からの夢だったの。遊園地に泊り込んで死ぬほど遊ぶ。
あはは。いい年して馬鹿みたいだよね。遊園地で遊びたいだって。あはははは。ホント子供。
しかもせっかくとっておいた慎ましく生きるための生活費を、このバカな夢に注ぎ込んじゃうなんて。あはははははは。」
男の方もつられて笑い始めた。
二人で笑った。これ以上ないくらいに笑った。
一生分を笑い尽くそうと思ったので、二人とも大声で、狂ったように激しく笑った。
しかし二人の笑い声は雑踏の中に消え去った。
どんなに大きな声で笑っても、振り向く人は誰もいなかった。
二人は必死に笑い声を上げたのに、周りには単なる笑い上戸のカップルにしか見えなかった。
最期の笑いを終えると、彼女は正面を指差して言った。
「ホラ見て、あの子まだ泣いてるよ。」
ほんとだと男は答えた。
泣き疲れたのか、声のトーンがやや落ちてきてた。
それでもまだ必死に叫んでいる。お母さん、お母さんと。
彼女は男の脇をつつき、ニヤリと笑った。
「ねぇ。岩本さん。賭けをしようよ。あの子がどうなるか予想するの。」
男はいいよと答えた。
「私ね、誰か親切な人が見るに見かねて迷子センターに連れてってくれると思う。
母親はもう迷子センターにいるわけだから、母親が探し当てることはないでしょ。さぁ、岩本さんはどうなると思う?」
男は少し考えたあと、少年の方を指差した。
あいつは強い子だ。だからすぐにでも泣き終えて、自分の足で母親を探しに行くよ。
「よし、じゃあ勝負よ。勝った方は負けた方を殺すの。オッケー?」
男はオッケーと答えた。
二人は少年を見守った。
二人とも先ほどの彼女の言葉を思い出していた。
あの子は私達と同じよ。人の流れの中で生き方に迷い、助けを求めて泣き叫んでる。
この賭けの結果は、自分達の末路と同じだろうと勝手に決め付けていた。
やがて結果が出た。
出てきた答えは、二人とも予想できなかったものだった。
「有りえない。あんな奇跡起きるわけ無いわ。」
彼女は文句を言った。
隣の男も同意した。有りえない。そんな奇跡は・・
彼は少しだけ、自分にも起きて欲しいなと思った。
「はぁ。これでなんかやることやり尽くしたって感じね。
最後のはちょっと釈然としなかったけど、まぁ人生はそんなもんかな。」
そうだねと男は答えた。
「じゃぁ、そろそろ死のっか。」
男は半分頷いたものの、そこで止まってじっと彼女の方を見つめ始めた。
彼女はそれに気付いた。
「大丈夫よ岩本さん。最期にちゃんと、あなたの願いは叶えてあげるから」
男は満面の笑みを浮かべた。
8月1日(木) 人生の果て
彼が目覚めたとき、彼女はもう着替えて準備を済ませていた。
「さ、行きましょう。あれからずっとこの日を待ってたんだから。」
彼は慌てて顔を洗い、髪をとかした。
鏡に映ったその顔は、異常なほどツヤがあるように見えた。
幸せがにじみ出ている。今日で幸福を使い切ろうとしてるのだと思った。
二人で外を歩くのにもう心配する必要など無かった。
今日に限って不幸に会うはずも無いという自信があった。
電車に乗るのが楽しかった。人とすれ違うのが嬉しかった。
いつか彼女に指摘されたように、もう他人の顔は猿には見えなかった。
誰もがみんな輝いてる。生きる努力をしてる人は素敵だと思った。
地面を踏みしめるとコンクリートの熱さが足の裏に伝わってきた。
二度と歩くことの無い道のりを、彼は味わうようにして歩いた。
目指す場所はもうずっと前から決めていたところ。
彼女もそこがいいと言った。
ドアを開けて中に入る。カギは掛かってない。
彼女が軽い叫び声をあげる。
「わぁ懐かしい。結構キレイに片付いてるね。」
部屋はきちんと整理され、静かに主を待っていた。
生活感のカケラもないほど整えられた空間が目の前に広がっている。
「パソコンとかテレビは捨てちゃったの?随分スッキリしちゃって。」
彼は違和感を感じたが、布団に転がり込んではしゃぐ彼女を見てるうちに忘れてしまった。
懐かしい空気が匂う。あと一つ揃えば、あの頃に戻れる。
彼は彼女の横に座り込んだ。
「まだ早いわよ。帰ってきたばっかじゃない。」
彼はゆっくりを首を横にふった。
彼女は少しむくれた顔をして呟いた。
「なるほどね。ここに帰ってくるのは私じゃないってことね。」
彼は頷いた。
手を重ね、彼女を見つめる。
ここが終着点だ。だから早いとか遅いとか関係無い。
さぁ、帰ってきてよ。この日をずっと待ちわびてたのは僕の方なんだから。
彼女は黙って頷いた。
「目をつぶって。」
彼は静かに目を閉じた。
深く息を吸う音が聞こえる。
沈黙の時間。呼吸音だけが響く。
彼は待った。願いが叶うその瞬間を。
そしてその時が来た。
「お待たせ、亮平君。」
彼はゆっくり目を開けた。
そこには微笑む彼女の姿があった。
涙が出てきた。この子に会いたいと何度願ったことか。
この子に会うためにどれだけのことをしてきたか。
あの時この子と別れて以来、残りの人生は全てこの瞬間に注げてきた。
「美希ちゃん。会いたかったよ。」
渡部美希はいつもと変わらない笑顔で彼を包み込んだ。
抱きしめあう二人。言葉を交わす必要は無い。
再会を喜びあうのはただ抱き合うだけで十分だった。
何かを話せば崩れてしまいそうだったから。
余計なことをして水を差したくなかった。
この笑顔、この温もり、それ以上何を求めるというんだ。
彼は自分に言い聞かせた。何も考えるな。この瞬間を壊すな。
そんな思惑とは裏腹に、彼に最後の試練が与えられた。
彼女を腕に包むその瞬間、彼女の背後の壁に一人の男の顔を見た。
奥田。
奥田徹が笑ってる。
急激に沸いてくる理性。
彼女を温度を直に感じるその状態で
奥田を死に至らせた狂気が岩本亮平を襲う。
美希ちゃん。君は一体何なんだ。
君は二重人格なのか。牧原公子の別人格なのか。
牧原公子の別人格が渡部美希なのか。それとも渡部美希の別人格が牧原公子なのか。
牧原公子が本当の君と言えばいいのか牧原公子の中の本当の自分の部分が渡部美希と言えばいいのか
君の中の本当の自分という部分は牧原公子なのか渡部美希なのか
二重人格のフリして二人の人間を演じてたのかそもそも二重人格のフリのつもりもなくただの冗談だったのか
君は冗談でも人を殺せる人だだから冗談でも二重人格にもなれるでも冗談なら二重人格とは言わない
ネットで知り合った人には渡部美希と名乗って普段とは違う自分を演じていたのか
普段の自分を知らない人を相手だからこそ本当の自分の部分を開放できてその部分を渡部美希と名づけたんだろ
だとしたら二重人格ではないのだろうかけどやはり二重人格なのか意識せず演じ分けていれば二重人格といえるのか
いやわざわざ意識して演じ分けていたのかもしれないだとしたら二重人格じゃなくただ演じてただけで
もう片方の演じるのをやめればそれはその人が死んだことにもなるしかし再び演じ始めれば生き返る
同じ意識をもっていれば二重人格じゃないよなけどいきなり片方のをやめることなんてできるのか
演じるのをやめればそれまで演じてた方は死んだことになるもう片方の人格に戻るいや人格じゃなくて性格と言えばいいか
二面性のある性格なのかそれは片方の性格をパッタリやめたら性格が変わったと言えばいいだけなのか
そしたら元はどっちなんだやっぱり牧原公子なのかしかし牧原公子には渡部美希的な部分はあるし
渡部美希にも牧原公子的な性格もあるし本当の君はどっちだどっちも込みで同一人物というなら
片方の部分だけを殺してもう片方の名を名乗るというのは必ずしも同一人物とは言えないだろいや言えるのか
実社会では牧原公子で僕らの前では渡部美希それ以上深く考えてはいけないことなのか
それならあの時渡部美希を殺した牧原公子は何なんだ処刑人は奥田かもしれないって分かってガタガタ震えてた美希ちゃんが
家に帰るといきなり笑い出してごめんたった今渡部美希は死んじゃったなんて言ったこの子は
やはり元は牧原公子なわけで今美希に話し掛けたけどどうもショックで死んじゃったみたいなんて
そんな風に言われたらやっぱり二重人格としか思えないし実は元々は牧原公子でしたなんて説明されたら
僕はどうしたら良かったんだどう判断すればよかったんだ僕が好きなのは美希ちゃんであって
いきなり現れた牧原公子をどう扱えばいいかわからなかった僕は騙されてただけなのか怒るべきだったのか
いやなんで起こるんだ目の前にいる子は僕の好きな人の渡部美希だった人だから何かの冗談なら
それも込みで愛してあげるべきだったし完全に二重人格でその人格が死んだとなれば諦めるしかないけど
どう見ても完全な二重人格じゃないだろ冗談で演じてるようにも見えるだから彼女にもう一度
渡部美希を演じる気を起こさせればこうして美希ちゃんにもう一度会えたわけでしかしこの場合
この先一体何が起きる牧原公子はどこへ行った美希ちゃんがいるこの時牧原公子はどこにいる
二人を演じる君は一体何者なんだどっちが元の人間なんだそんな渡部美希の部分と牧原公子の部分がうああああ
奥田お前が一緒に住んでた時彼女は一体どっちだったんだ
お前と一緒に僕に処刑人伝説を吹き込み罠にはめたのは牧原さんなのか美希ちゃんなのか
早紀を巻き込めるのは牧原さんの方だでも僕を巻き込めるのは美希ちゃんだ
奥田お前はずっと耐えてたんだろお前もずっとどっちがどうなのかわからなかったんだろ
どっちを好きになればいいのかわからなかったんだろ愛し切れなかったんだろ
わかってるんだよ処刑人なのは牧原公子なのか渡部美希なのかそれともこの二人を演じるこの子という
二人の人格を一緒に考えるべきなのかとかもうわけわからなくなってたんだろ
お前が死んだ理由も今ならわかるお前の心が手にとるようにわかる
今こうして僕がお前と付き合ってたのはどっちなんだと悩むのと同じように
僕と浮気したのは牧原さんなのか美希ちゃんなのかわからなかったんだろう
例え美希ちゃんの方だと分かっても牧原さんの人格を好きであれば許すことができたかもしれない
しかし美希ちゃんも好きだとなれば裏切られたでも牧原さんを好きでいれば許すことができる
そんな器用な真似ができるのか美希ちゃんだろうが牧原さんだろうが裏切られたことには変わりないのか
それならこんな闇を抱えた子を何も知らない僕に取られたのがくやしかったのか
それともこれでよかったのかとか色々考えすぎて頭がパンクしてそれで死にたくなって自殺したんだ
僕は違う僕は悩まないいいか僕は悩まないぞ
僕もお前と同じように直に死ぬだろうしかし彼女に対する思いは違う
考えるからいけないんだ演じてるとか二重人格とか思うからいけないんだ
この温もりこの笑顔を何も考えずこの瞬間を
今目の前にいるこの子をこの子だけをおおぉおおおおおおぉおおおあああああああああああああああ
あーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
彼は彼女を抱く腕に力を込めた。
奥田の顔はもう見えなかった。
→つづく