希望の世界 −続・虫の日記−
第二部<迎撃編>
第八章「蟲」
第二十九週「継承」
7月17日(月) 晴れ
まだしぶとく生き残ってる。
病院に行けば助かる可能性は高くなると思ったが、本人は拒否している。
この家まで辿り着いたのさえ奇跡に近い状態だ。
血は止まったものの、傷を塞がなければ長くはもたない。
祖父と祖母はただうろたえるだけ。
母親はキャッキャッと笑いながらノートパソコンをいじくってる。
ヤツはもう動けない。
たまに思い出したように目を開け、「まだ生きてる。」と呟く。
その声も弱々しい。すぐに消えてもおかしくない。
だが本人は「大丈夫だ。すぐに回復するさ。」と言う。
僕は部屋に戻り、一人有意義な時間を過ごした。
いつも通りのアレ。想像の中の早紀はとても大胆だった。
早紀の顔を見下ろし、僕は頭を優しく撫でる。早紀はさらに激しい動きになる。
その気持ちよさに酔いしれながら、僕は早紀に囁いた。
「アイツ、まだやるってさ。」
早紀はそっと頷いた。それでも行為は止めない。
早紀の頭を抱え、さらに激しく揺さぶった。いいよ。早紀。
誰が死のうと、僕らは何も変わりはしない。早紀を汚す輩はアイツが消してくれた。
これからも消してくれる。だから早紀。二人のお楽しみはまだまだ続くんだよ。
早紀。もっと楽しもう。ほらもっと。もっと・・・・そう・・・
そのまま・・・・・・・・・・
早紀はやっぱり最高だ。
7月18日(火) 晴れ
今日も部屋に籠もり早紀と戯れた。家の中はやたらドタバタしてたがほっといた。
祖父の祖母も心配性だ。ヤツが大丈夫だと言ったんだから大丈夫じゃないか。
それともまた母親がウロチョロし始めたのか?寝たきりのヤツに近づけるとまた大変なことになるぞ。
アレにはノートパソコン与えておけば勝手に一人で遊んでる。
みんな僕らの邪魔をしないでくれ。
さぁ早紀。今日はどんなコトしようか。僕の身体に残された早紀の肌の感触を思い出す。
今の僕にはもうあの時の記憶は無い。これまで何度も早紀の顔を必死に思い出そうとした。
だが駄目だった。写真でしか早紀の顔の記憶は無い。
だから僕は想像する。早紀の肌。早紀の汗。早紀の息づかい。
身体は覚えてるはず。一度は直に交わった。その感触を、僕の中で。
もう一度・・・。
7月19日(水) 晴れ
母親がうるさい。祖父と祖母が父親の心配ばかりしてるので、あのガイキチがのさばる。
僕の部屋をドンドンと叩く。折角の早紀との楽しい時間も中断されてしまう。
うるせぇと叫んだら今度は泣き声が聞こえてきた。
放っておくと祖母の声が聞こえてきた。それでなんとか騒ぎは収まった。
僕は「ノートパソコン与えておけよ!」と部屋の中から叫んだ。
祖母が歯切れの悪い答えをする。聞いててイライラしてきた。
「それが・・・その・・おばあちゃんにはコンピューターのコトわからないけど・・・・」
しきりに何か言っている。さすがに我慢しきれなくなり、ドアを開けて怒鳴りに行った。
何が言いたいんだよてめぇ
祖母はゴメンねゴメンねとオロオロしながらガイキチ女を指さした。
ノートパソコンは、持ってる。なのにスンスン泣いている。
なんだよ。ノートパソコンさえ与えときゃ一人で遊ぶはずだろう。
「どうしたんだろうねぇ・・・・どうしたんだろうねぇ・・・・。」
祖母がうろたえた。当の本人はパソコン抱えて廊下に座り込んでる。
僕は「知るかよ。」と言い捨てて部屋に戻った。
僕は早紀と遊ぶのに忙しいんだ。無駄な時間をとらせるな。
こんな時はヤツに任せるべき。たたき起こして世話させろ。
僕に迷惑かけないで欲しい。祖母になだめられて自分の部屋に戻る音が聞こえた。
祖父も下から上がってきて「健史が気にしてたけど・・・何かあったか?」と言っていた。
母親の変わりに祖母と祖父の会話がうるさくなった。
ドアの向こうで二人の会話。壁一枚隔てたこっち側で、僕は早紀と戯れた。
わざと部屋のカギはかけず、いつ祖父達が部屋に入ってきてもおかしくない・・・
その背徳感がタマらなく良かった。ゾクゾクする。
こんな楽しみ方もアリだと思った。ケガの巧妙だ。
早紀も喜んでる。
7月13日(木) 晴れ
死に損ないの顔を見に行った。
祖母が「ご飯を健史の寝てる部屋に用意して置いたからね。一緒にお食べ。」などと抜かしたから。
見舞いをする気にはなれない。でもご飯は食べたい。自分の分だけ僕の部屋に持ってきて食べようと思った。
一階の和室に行くと、ヤツが布団に寝かされていた。
想像以上に顔が青ざめていた。尋常じゃない。
髪もボサボサで無精ひげも生えてる。腕もガリガリに見えた。
目は覚めていた。ヤツの横にお盆が二つ。片方を持って帰ろう。
「血が・・・足りない・・・・。」
ヤツがボソリと語った。確かに声も以前より弱々しかった。
独特の余裕の笑みはもう無かった。何かを訴えるような目は光を失いつつある。
「気力で持ってるような・・・モンだ・・・・。」
言葉を発するたびに呼吸が速くなってる。
祖父と祖母が心配するのも頷ける気がした。全然大丈夫じゃなさそうだ。
けど、コイツなら復活しそうだと思った。
気力で持ってると言う。コイツの気力は異常。ゆえに大丈夫。
「一人でメシも食べれねぇ・・・・。」
僕にできるコトなどナシ。頑張って一人で食べてくれ給え。
そそくさと部屋に戻った。
ふと、祖母の言葉と父親の言葉を総合して考えみた。
ヤツにご飯を食べさせる役、僕がやれってコトだったのか?
それに気付いたのは、早紀との夜の営みを終わった後だった。
今更どうしようもない。祖父か祖母がやっただろう。
早紀に「悪い人ね。」と爽やかになじられた気がした。
hahaha。仕方ないよ。親が気狂いピエロと殺しちゃいマシーンなんだから。
僕はその血を引いてるんだぜ?こんな僕で当たり前だろ?
当たり前なんだよ。
7月21日(金) 曇り
ヤツに呼ばれた。ダルイので行きたくなかったが祖父がやたら粘るので仕方なかった。
ちょいと顔出してすぐに帰ってやろうと思った。
襖を開けて中に入る。部屋の奥の壁にタッチ。義務終了。すぐに戻ろうとした。
「亜佐美に会いたがってる奴がいるんだ。」
突然ヤツが口を開いた。昨日よりも少し良くなったらしく、言葉もハッキリしていた。
あの気狂いピエロなんかに会いたがってる奴がいる?
ちょっと気になったので、そのまま部屋にとどまった。
「ウチの爺さんと婆さんとは別にな、根性腐ったジジイとババアがいるんだよ。」
キツイ言葉の割に、話し方は淡々としていた。
「そいつらは、もう十年以上も前の過去を未だ引きずってやがる。」
ふうと一息ついた。喋るにも体力を必要としてるらしい。
「俺達夫婦のちょっとした知り合いでね。俺達に会いたがってるんだよ。」
ごくんと唾を飲み込む音が聞こえてきた。
視線は天井に向いている。虚空を見つめてるようだ。
「いや、亜佐美だけに会いたいんだろうな。」
ここだけは独り言だった。
顔を僕の方にゆっくりと向けた。頭をプルプル震わせながら持ち上げる。
弱々しい目が僕を見た。
「亮平。」
思わず目を反らした。目が異様な輝きをしていたから。
それでもヤツは、横を向いてる僕に問答無用で訴えかけてきた。
「俺にもしものコトがあっても、亜佐美を奴等に会わせないでくれ。」
言い終わると同時にパサっと頭が枕に落ちた。
一瞬死んだかと思った。でもすぐに深く息を吸う音が響いてきた。
スゥゥゥッと鼻から空気を取り込んでいる。目はもう瞑っていた。
「喋りすぎたな・・・。」
そのまま寝てしまった。しばらくその場に居ても、もう寝息しか聞こえてこなかった。
で、その老人達は誰のことなんだい?
会わせないでくれも何も、それが誰なのか教えてくれなきゃどうしようもない。
だから僕は何も知らない・・・
自分の部屋に戻った時、妙な感覚に襲われた。
いつもならヤツの頼みなんて聞くつもりないとか思うのに、何故か今回は覚えてる。
頼みを聞いてやろうって気になってた。
なぜだろう。早紀に聞いてみた。
早紀もわからないと言ってた。
早紀が笑った。早紀はいつも爽やかに笑う。
僕も一緒に笑ってみた。早紀と同じように、爽やかに。
焦げた早紀の髪の毛を握りしめながら、早紀の炭を擦り付けながら。
僕の笑顔は爽やかだろうか。
7月22日(土) 晴れ
酷い騒ぎになっていた。
祖母が僕の部屋のドアをドンドンドンドンと叩いては叫んでいた。
「亮平お願い早く来て!」
ノックの音がとてもうるさかったので抗議しようとドアを開けた。
祖母がおろおろ、口をパクパクさせながら焦っている。
異常な気配を察知した僕は、面白そうだから話を聞いてみた。
「おばあちゃん、コンピューターのコトはわからないから・・・・。」
下の階で大変なことになってるらしかった。
ヤツの部屋に行ってみた。
布団の横にノートパソコンが置いてあった。
手をプルプルさせながらヤツがマウスをいじってる。
たまに弱々しくキーボードを叩いては「ああ・・」と嘆く。
ヤツの顔は今まで見たこともないくらい哀れだった。
顔を歪め、あの余裕の笑みなど全く影を潜め、泣きそうな顔をしていた。
祖父が「駄目か?駄目か?」としきりに聞いている。
ヤツはその声には反応せず、ただひたすらマウスをいじっては「あああ・・」と嘆いていた。
祖母が後から解説してくれた。
「なんかね、『気力を出すために』って、亜佐美からパソコンを借りてきてくれって。」
大切な玩具を壊してしまった子供のように、すぐにでも泣き出しそうだった。
何かトンデモナイ事になってうのだけは理解できた。祖母の言葉が続く。
「早紀のホームペェジを見たいって・・・。」
僕はパソコンに飛びついた。
パソコンに繋がってるケータイは通話中を示している。
ネットに接続されていた。父親の手を払いのけ、パソコンにかじりついた。
手をはじかれた父親は、ブツブツとひたすら同じ言葉を繰り返していた。
希望の世界が・・・早紀が・・・
マウスを操作して「お気に入り」を押した。
「絶望クロニクル」よりも上に、一番押しやすい所に、見つけた。
「希望の世界」
すぐに押した。そしてほんの一秒後。
ページが表示されません
キーボードで直接アドレスを打った。アドレスは暗記していた。
エンターキーを連打した。カリカリっとハードディスクが動く音。
数秒後、画面に表示される白い背景に無機質な黒い文字。
ページが表示されません
何度やっても駄目だった。また「お気に入り」から入っても、アドレス打ち直しても。
画面を見ていたヤツが、再び「ああ・・・」と嘆いた。
そして涙声で呻いた。
早紀が・・・消えちまった・・・
その事実を認識したのか、ヤツの表情が急激に変化した。
今度は鬼のような怖い顔になった。
目をカッと見開き、憑かれたように青ざめた顔を懸命に強ばらせる。
起きあがろうとしていた。
祖父が「どうした。無茶だ。」と必死に起きあがりかけた身体を支える。
ヤツの顔は鬼の顔のまま固まっていた。
怖いくらい何かに思い詰めていた。
その顔をギギギとぎこちなく僕に向けて、一言。
亜佐美に会わせてくれ
単純に、会わせなきゃ死んでしまうだろうと思った。
僕より先に、祖母が「亜佐美ね。今呼んでくるからね。」と言って駆けだした。
祖母が行ってしまったので、僕は動けなくなった。
待ってる間が異様に長く感じた。
ヤツの呼吸が激しくなっていた。ギリギリと歯を食いしばっている。
身体もプルプル震えている。
立ち上がろうとしていた。祖父の肩につかまり、必死に足を踏ん張っている。
祖父が「大丈夫か。無茶するな。」とヤツを・・・僕の父親をなんとか寝かそうと説得していた。
けどヤツはそれを拒否し、鬼の形相のままフウフウ言いながら立ち上がった。
辛うじて残っている生きる意思全てを、立ち上がる行為に注いでるみたいだった。
祖母が気狂いピエロを、僕の母親を連れてきた。
母親は相変わらずノン気にヘラヘラしていた。
ヤツはその姿を捕らえると、急激に顔を緩ませた。
おお・・・亜佐美・・・
本当に、心から安心仕切ったような、とても甘い声だった。
救われた。たった一言だったけど、ヤツが救われたことがわかった。
あの殺人鬼が。こんな人間らしい声を出せるなんて。
僕は驚いていた。そしてまた、考えを改めてもいた。
こんなヤツでも、人間だったんだ。
ヤツの口元に笑みが戻った。
いつもの何処か自嘲気味た余裕の笑みではなく、優しい微笑みだった。
その表情を見た時、何処かで見たことあるような、不思議な感覚に襲われた。
遙か昔、今の人格でなかった頃、僕が子供だった頃、そのような顔を見ていたかもしれない。
強い郷愁を思わせる、掛け値ナシの、絶対的な優しさ。
そんな微笑みだった。
このおかげで顔色が良なり、見る見る回復に向かうことに・・・
なるかと思った。
しかし事態は一変した。
屈託のない、無防備な母親の一言によって。
母親はヤツの顔を見るなり、素っ頓狂な声を上げた。
お化け!
いやぁいやぁと叫んで泣き出した。
次にわーんと声を張り上げ、そのまま二階へ走り去った。
あまりの突然の出来事に、僕たちはその場で固まった。
お化け。確かにヤツの髪はボサボサだし、青い顔に無造作に生えたひげなど、
あまり綺麗な格好はしていなかった。むしろ冗談交じりにお化けと言っても過言では無かった。
しかし母親は真剣に怖がった。
ヤツのその姿、もしくは殺人鬼の醸し出すオーラ?
それら全てが「お化け」に見えたのかもしれない。
その「お化け」に、今はもう子供の知能にも満たないアタマを持つあの女は、
怯え、逃げた。
無言の時間が流れた。
二階から母親の泣き声が虚しく響いてた。
バタンと音がした。
音のした方を見ると、ヤツが仰向けのまま祖父の足下に倒れていた。
その顔は、まさに「呆然」と呼ぶのに相応しい・・・目は虚空を見つめ、口は半開き。
糸の切れた操り人形のように、力無く倒れている。
「気力で持ってるようなモンだ。」
数日前のヤツの言葉を思い出した。
気力が操り人形の糸であるならば、その気力が無くなった今・・・
祖父が「おい。」と声をかけた。
祖母が「健史?」と名を呼んだ。
そして僕は、「父さん。」と言った。
ヤツは死んでいた。
7月23日(日) 晴れ
祖母の要望で、ヤツはちゃんとした葬儀で葬ることになった。
今更そんな事が可能かと思ったけど、祖父は大丈夫だと言った。
祖父は以前そんな時に必要ないわゆる「書類」とかを扱う仕事をしてたそうだ。
僕にはそんなオトナの事情など知ったことではない。
結果だけ分かればそれでいい。
母親の処遇をどうするか。
当然このまま家に居着くものだと思ってたが、どうもそうはならないらしい。
あんな状態だからどっかの施設にでもブチ込むのか。そう思ったけど、それも違った。
祖父達は何か当てがあるようだった。
やっぱりあそこに戻してやろうか。その方があっちも喜ぶし、こうなった以上仕方ない、と。
その時僕はヤツの言葉を思い出していた。
「ここに置いておこう。」
僕は提案した。
祖父達は何やら言い返してきた。色々理由を述べていたけど僕は何も聞いてなかった。
一通りの事を言い終わり、さらに何か語ろうとした矢先に、僕は言った。
「アレでも僕の母親だから。」
何も言い返して来なかった。
ヤツは同じ部屋に寝かされていた。
昨日までと違うのは、顔に白い布がかかってるくらい。
タオルや溲瓶やらはまだそのまま放置されている。
じっとその姿を見つめてると、後で祖母が嘆いた。
「人様を殺めたりするからだよ・・・。」
それだけじゃない。
あの惨めな最期は、それだけのせいじゃないと思った。
平然と殺してたからだ。罪に対して何の反省意識も持っていなかった。
「狩り」から帰った時も、どんなヤツをどんな風に消した、と何てことない普通の会話として語ってた。
人の命をゴミのように扱い、本当にゴミのようにしか思ってなかった。
たぶんそのせいだと思う。
自分の部屋部屋に戻ると、突然口元が緩んだ。
自然と声が出てくる。ケケケ
可笑しくなった。僕の今日の発言、僕の考えたこと・・・思い出すだけで、可笑しい。
「アレでも僕の母親だから。」だって?
冗談じゃない。あんなのを母親と思われたらたまらない。
嘘ついた。ヤツの頼みを一応聞いてやろうと、嘘をついた。
「人の命をゴミのように扱い、本当にゴミのようにしか思ってなかった。」
だからあんな惨めな最期を、なんてのも滑稽極まりない。
僕もそう思ってる。僕も早紀を汚す輩の命など、ゴミにしか思ってない。
僕もまた、最期は惨めな事になるのだろうか。
ケケケ。嫌だね。
ヤツの死に関しては、義務を果たした今、もう何の感情も沸いてこない。
ただひたすらこう思うだけ。
あんな死に方だけはゴメンだ。ケケケケケ
どうもヤツの笑い方が移ったらしい。
自嘲気味に、苦笑いのようにして「ケケケ。」と笑う。
これまで真似たことはあったけどけど、今は自然と出てくる。
何てことだ。ヤツが父親として、最期に遺していったのは、この変な笑い方だけなんて。
ご大層に継承してしまった。
ケケケ
→第30週「歯車」