希望の世界 −続・虫の日記−
第三十一週「撃破」
7月31日(月) 晴れ
どんなに怖くてもこの確認だけはしておかなければならない。
川口家に行った。川口が本当に生きてるのか。
居ても立ってもいられなかった。
ヤツの帽子を借り、なるべく自分の顔を見せないよう、暑くても我慢して帽子を深く被っていった。
電車の中でも心細かった。みんなが僕のことを見てた。
顔の傷。嫌だった。
荒木さんを名乗った時は堂々と歩いていたけど、今ではとてもできない。
あの時の事実さえあやふやになっているのだから。
だが、結局あやふやなままで終わってしまった。
居留守を使われたから。何度チャイムを鳴らしたかわからない。
何度ノックしたかわからない。声が出せなかった。
虚しく響くノックの音に恥ずかしくなって、駄目だとわかった途端に走り去った。
渡部家にも行かず、記憶を辿って遠藤の病院を探そうともせず、逃げてきた。
時間にしてどれくらいだろう。三時間も外にいなかった。
外にいるのに耐えられなかった。自分に自信が持てなくなっていた。
不安が消えない。
8月1日(火) 晴れ
不安になるのは、僕自身の記憶が曖昧だからだと思う。
僕の記憶は、燃える早紀を抱きしめてるところから始まってる。
早紀の声を聞いた。「戻って。」と。早紀に戻れと言われた。確かに聞いた。
それが始まりだ。
夢から覚めるような気分だった。スーッと脳が覚醒していくのがわかった。
長い眠りから覚める感じ。炎の中で、自分の記憶を確かめていた。
ヤツに水をかけられた時には、僕のアタマ十分ハッキリしていた。
「早紀が燃えた。」
僕は確かにそう言った。
目の前の黒い塊が、早紀であることは認識できていた。
焼けた顔が痛んだのは覚えてる。でも笑ってた気がする。
何がおかしかったんだろう?もう思い出せない。
本能というか、目覚めたアタマの中には「希望の世界」があった。
そしてそれが、自分にとってとても大切なものであることも分かってた。
記憶が戻った。確かにそうだ。でも厳密にはそうじゃない。
ソレ以外の事は、夢だと言われても認めてしまいそうなくらい曖昧だった。
日記を読むことで、曖昧な記憶を具体化していった。
日記は冷静に見てみると信じられないような内容だ。何しろ人格が変わってるんだから。
しかしその時は違和感無かった。ああこれが自分なんだと納得できてた。
それを元に記憶を植え付けていくのも、全然抵抗が無かった。
思い出してたんじゃない。記憶を自分で植え付けた。時間をかけて、丹念に。
日記から想像できるあらゆることを、僕の記憶として保存した。
・・・・所詮は後付だ。曖昧には変わりない。
早紀と戯れる時も、想像するしかなかった。
渡部さん。僕の記憶がこんなに曖昧なことを知ってるのか?
彼女には「全部思い出した。」と言った。知らないはずだ。
なのにこんな罠をかける。
タチが悪い。
僕の始まり、早紀が遺したものはもう何もない。
骨も、髪も、「希望の世界」も。僕の中心が、支えが、消えた。
哲学的なことを考えてるつもりなど無い。僕はただ、渡部さんの罠を破りたいだけ。
無かった事になどさせたくないだけ。
川口。あの男が全てを狂わせてるんだ。
渡部さんは生き残ってるんだから、嘘はいくらでもつける。
でも川口は死んだはず。ヤツが殺したと言ってた。
その川口が生きてるから話がオカシくなってるんだ。
そうだ。川口は途中参加だ。無かった事になったら、川口などアカの他人。
話したこともない同級生。ああ、今はまさにその状態に戻されてる。
けど僕はそれが嘘だと分かってる。ちょっとツッコめばすぐバレる。
電話して確かめよう。電話した。
でない。誰も。
何度も。
無視された。
明日がある。
8月2日(水) 晴れ
自分の記憶を確かめるべく、日記を読み返した。
僕の日記、早紀の日記。サキの日記。ついでにカイザー日記も。
見れば見るほど、僕は「昔の僕」じゃない。
サキの日記など論外。本当に僕にこんな時期があったんだろうかと思うくらいだ。
一番近いのは早紀が僕になってた頃の日記。
僕の日記を読んで、早紀は僕になった。僕でない僕が、一番僕に近いなんて。
虫。早紀は「虫」だと自覚した。他人の日記を自分の過去に。
そんな強引な事をするから、虫などと中途半端な人格になった。
日記を読んでると笑いたくなってきた。ケケケ、ケケケと声を上げて笑った。
ケッケッケッケッケ
中途半端な人格。まさに今の僕じゃないか。
とするとどうだい?他人の日記を自分の過去に?
僕は岩本亮平じゃない、と?ヤツの陰謀で、僕は岩本亮平にされた・・・・
ああ、そもそもこれらの日記も全てでっちあげなのかもしれない。
この顔の火傷も、なりすましの為につけられたのだとしたら。
川口の家に電話中、何十回目かの挑戦中、虚しく響く呼び出し音を聞いてる中、僕は気付いてしまった。
信用できるモノなど、何もない。
あの女も僕の母親じゃないのでは?祖父も祖母も、本当はアカの他人なのでは?
僕は僕じゃないのでは?
渡部さんの家に電話をした。出たのは渡部さんだった。
「はい、渡部です。」
「ユウイチ君いらっしゃいますか。」
「もしもし、どなた?」
「渡部ユウイチ君はいますか。美希さんの弟さんのはずですが。」
「はい?美希は私ですけど。」
「弟さんをお願いします。」
「あの、どちら様でしょうか。」
「弟さんと話をさせて下さい。」
「えっと、間違いじゃありませんか?ウチには弟はおりませんが。」
「あ、いないんですか。じゃあ美希さん。アナタでいいです。」
「え、あ、その、お名前聞かせて頂けますか?」
「岩本亮平です。」
「・・・岩本君?」
「たぶんそうだと思います。」
「ちょっと、もうやめてくれない?」
「切らないで下さい。聞きたいことがあるんです。」
「何よ、今日はやたら丁寧ね。」
「聞きたいことがあるんです。」
「わかったわかった。何?答えるから。もう二度と電話してこないでね。」
「ありがとう。」
「いいから何よ。さっさとしてよ。」
「僕は岩本亮平なんですか?」
「・・・・はぁ?」
「教えて下さい。僕は岩本亮平なの?」
「何言ってんのかよくわかんないけど・・・。」
「答えて下さい。」
「え、だから・・・。」
「僕は、岩本亮平なのですか。」
「・・・・・。」
「・・・・・。」
駆け引きなのか真剣なのかもうどちらともいえない。
完全に罠にハマり、僕は狂ってしまった。そう思わせる。つもり。
罠への抵抗は予想してただろう。だが何も抵抗せず、すんなり受け入れてしまったら?
且つ、狂ってしまったら?そんな自分を演じたのか、本当にそうなってしまったのか。
答えを待った。数秒の沈黙。
渡部さんは答えてくれた。
「わからないわ。」
ブツリ
受話器を持ったまま、僕は崩れ落ちた。
ガタンと音を立てて、その場に座り込んだ。
祖母が「どうしたの?」と寄ってきたが、何も答えられなかった。
黙って首を横に振っていた。何度も何度も。
わからないなんて。渡部美希、お前は知ってるはずだ!
それとも本気で・・・知らないのか?
部屋に駆け戻り、布団を被った。クーラーをつけ忘れてたせいで、異常に暑かった。
汗がダラダラと流れ落ちる。構わず布団にくるまった。罠じゃないのか・・・・
もう僕にはわからなかった。たった一週間で、全てが覆るなんて。
シャツが汗でグショグショになるまで布団の中にいた。
汗は暑いせいだけじゃなかった。
自分がどこにいるのかわからない。
8月3日(木) 晴れ
僕は自分の記憶にしがみついた。
「希望の世界」は消えてしまった。でももう一つ、「希望の世界」の存在を証明するものがあった。
何のために作られたのかわからないシロモノ。今僕はそんな謎だらけのモノに希望を見いだしてる。
「絶望クロニクル」
「希望の世界」をストーキングした記録。元々リンク先に「希望の世界」は無い。
これすらも作り物の様にも見えるが・・・これだけが頼り。
ジャンク情報BBS。
そこには何も無い。曖昧な情報ばかり。何の意味があるんだここは。
例え真実が紛れてても、こんなとこじゃ誰も信じない。
本当のことすらあやふやにされてしまう。都合の悪い真実を隠す為には丁度いい?
それがなぜ「希望の世界」のストーキングに繋がるんだ。
こっちはイイ。もう知らない。
用があるのは、湖畔専用BBS。
ああ、もう頼れるのはここだけだ。現実の奴等は、どいつも信用ならない。
顔も知らないネットのヒトタチ。何の事情も知らない彼らなら、客観的に見てくれる。
湖畔へ。
そこには一人しか居なかった。「ミギワ」と名乗る女性。
「最近誰もこないけど何かあったの?」
「誰か返事してー。」
「みんなどうしちゃったの・・・。」
悲痛な書き込みが続いてる。他の奴等は・・・・消えた。いや、消したんだ。
渡部さんや川口、川口の弟。そしてヤツが殺した連中。
現実からいなくなれば、ネットでの存在も消える。当たり前だ。
渡部さん達は意図的に存在を消した。
酷いことだ。嫌になったら書き込みをやめればいい。
それだけで、ネットじゃ「死ぬ」ことができる。縁が切れる。
お互いの素性など、誰も知らないのだから。
ああ、それでも「ミギワ」は残ってる。健気に一人、ポツンと。
つい前までの僕ならバカにしてただろう。
「何を期待してたんだコイツ?ネットでの仲なんざそんなモンなんだよ!」と。
でも今は、その存在がありがたい。
話せる人がいる。それが救いになる。
「処刑人」の名で書き込んだ。
恐れられても構わない。なんでもいい。反応して欲しかった。
「教えてくれ。ここには以前、色んなヤツがいたよな?
ユウイチだとか。王蟲とか。紅天女だとか。他にはどんな奴等がいた?
覚えてる限りでイイ。お願いします。教えて下さい。」
ただの叫びだ。それも、悲痛な叫び。
打ち込むとき、実際に言葉に出していた。
頼む。ミギワ。「いたよ」と答えてくれ。頼むよ。お願いだ。でないと僕は・・・
キーボードを打ちながら、僕は、祈ってた。
今なお祈ってる。
8月5日(金) 晴れ
とても、とても貴重な書き込みだった。
「処刑人さんってジャンクの方にいた人?
ユウイチ君も王蟲さんや紅天女さん。最近見ないけど確かにいたよ。
あとはロロ・トマシさんとかシス卿さんとか。SEXマシーンって人もいたよね。
みんながどこに行っちゃったのか私にもわからないんです。
処刑人さんも何か知りませんか?」
「ミギワ」は、僕の記憶を証明してくれた。
例え過去ログが流れてしまっても、その存在を見てきた人の記憶は、消せない。
よくやったミギワ。よく覚えていてくれた。
その書き込みは僕に勇気を与えた。
渡部さんのおかしな行動は、罠だと確信した。
渡部さん。君がいくらとぼけても、他の人の行動までは消せない。
ユウイチが川口の弟だったことは知ってるぞ。
そうして渡部さん行動を罠とわかると、自分のやるべきことが見えてきた。
ああ、何て簡単な事だったんだ。アタマが茹だってて、そんなことにも気付かなかったのか。
罠だとしたら・・・・別にそれを、渡部さんに認めさせる必要なんて無かったんだ。
わざわざ証拠を突きつける必要など無い。問答無用にやってしまえば良かったんだ。
実に単純明快な解決方法じゃないか!
渡部さんが何と言おうと関係ない。僕はただ、自分の信じた道を進めばいいんだ。
ヤツもそうしてきたじゃないか。「希望の世界」を汚す輩を、問答無用に消してきた。
それだ誰であれ、どんな理由で絶望クロニクルに居着いてたかなど、何の説明もいらない。
相手の事情など考えない。消す必要があるから、消す。
渡部さん。君もだ。もちろん、川口も。
今の川口がどうだろうと知った事じゃない。
渡部さんがどんなことを考えてるのか、知らなくていい。
どうせ全て罠なんだ。僕が、それを撃ち破る。
今までヤツに頼りすぎた。ヤツの居ない今、僕がやるしかない。
最後の「処刑人」は、僕だ。
武器が必要だ。家中を探し回った。
祖父も祖母も、ヤツや早紀の骨を収めたことで、全て終わったつもりらしくゆっくりしてる。
ガイキチ女もノートパソコンをいじくって大人しくしてる。
台所から包丁を一個くすねてくることなど、造作のないことだった。
武器と言うと刃物しか思いつかない。遠藤も包丁を武器にしてた。確かに、包丁は使える。
誰かがやったように、僕も包丁を蛍光灯にかざしてみた。
キラリと眩しく輝いた。僕の明日を切り開く光。
希望の光だ。
8月5日(土) 晴々
この前来た時はビクビクしながらだった。
でも今日は違った。堂々とこの身を晒し、やって来た。
川口家に。
鍵が開いていた。前も開いてたのか?気付かなかった。
チャイムを鳴らし、コンコンコンコンとノックをしても反応が無い。
ふとドアノブを回してみると、回った。引いてみると、開いた。
軽く驚いたけど、今日の僕は何もかもうまくいきそうだったから、快く中にいれさせて頂いた。
変なヤツが居た。
テレビ横の壁にもたれかかり、口をだらしなく開けて涎まで垂らしてる。
目の焦点が合ってない。ボサボサの茶色い髪。
あのガイキチ女と似た雰囲気があった。
心が破綻してる者の顔。川口?そう思ったけど、顔も体格も違う。
僕が入ってきても気付いてない。何だコイツは。
僕は念のために包丁を取り出してから、声をかけた。
「おい。」と。
顔は向けてこなかったが、声は届いたようだった。
突然ブツブツ何かを喋り始めた。
姿勢も顔も固めたまま、口だけ不気味に動かしている。
何を話してるんだろう。そっと耳を澄ました。
僕の動作に関係なく、そいつは話し続けた。
笑いそうになった。
あまりに滑稽。あまりに単純。
僕は初めて見るから気付かなかっが、恐らくこいつが川口の弟なのだろう。
兄貴を殺されて気が触れてしまったんだ。
それでこんな哀れな姿に。
ただ単純な言葉を繰り返すだけ。
教え込まれたことを、機械のように繰り返す。
人間であることを放棄したリピートマシーン。
楽しくてしかたない。我慢できず、ケケケと声を出して笑った。
笑ったまま話しかけてみた。
やってみると、なかなかうまくできている。
ああ、でも、こんな単純な罠に引っ掛かるなんて!
「もしもし。」と、声をかける。
「もしもし、川口ですけど。」
「お母さんはいますか。」
「ああ、俺です。」
「え?お前、男なのに?」
「俺です。」
「ふざけてないで母親をだせって。」
「ドナタですか。」
「誰でもいいだろ。母親はいるのか?いないのか?」
「んだよ。イタズラかよ。」
それから少し沈黙があって、数秒後には再び喋り出す。
「今日はいい天気だね。」
「もしもし、川口ですけど。」
「お前は誰だ。」
「俺です。」
「川口豊って男、知ってるか?」
「ドナタですか。」
「僕の名前はイタズラだ。」
「んだよ。イタズラかよ。」
時々順番を間違えたりセリフを飛ばしたりするけど、基本的には変わらない。
これを電話でやられたらたまらない。
うまく噛み合わずに疑問をもたれても、最後は「イタズラかよ。」で済まされてしまう。
しかも、もう電話すらとってない。
何回までは出て良しとか教育されてるのかもしれない。
それにしても・・・おもしろい玩具だった。
しばらくその面白さを堪能した。
うまく会話が成り立つように言葉を考える。
ランダムで間違えるし、そこそこムズカシイ。
・・・・などと完全に玩具扱いしてたのが甘かった。
罠は、まだ残されてた。
遊んでる拍子に、ちょっと叩いてしまった。
軽くポンと、小突いただけ。
それが引き金だった。
テープがブツリと切れるように、突然会話途切れた。
キュっと口を閉じてた。そして初めて、僕の方に顔を向けた。
壊れた視線を感じる。目は、僕を見てるのか、その向こう側を見てたのか・・・
目があった瞬間、口を開いた。
今度は違うセリフだった。
「俺、最強らしいっスよ。」
言ったと同時に、襲いかかってきた。
素早く手を伸ばし、僕の首に。
尋常じゃない力。明らかに僕を殺そうしていた。
いや、たぶんコイツには「殺す」なんて理念は無かっただろう。
目の前の首を、力一杯絞める。
それだけののことを忠実に実行している。
無表情とも違う・・・無機質な顔。
リピートマシーンから、首締めマシーンに変身した。
激痛と苦しさが同時に襲ってきた。
僕の首は、完全に捕らえられていた。
目の前がどんどん暗くなる。声も出せず、嗚咽すら漏れない。
唐突にやってきた修羅場。
もうあと5秒も締められてたらオチてただろう。
ああ、でも僕は・・・・用意周到な僕は・・・
右手に、包丁を握ってた!
迷わず刺した。
「あ・・・」と声を漏らし、手を離した。
痛みすら感じない機械ではなかった。
腕からスゥっと血が垂れた。
僕は舌打ちを打った。
カスっただけか!
包丁を構え直した。
相手はひるんでる。武器も持ってない。
止めをさすなら今だ。
殺そう。
そう思った。
・・・その瞬間だった。
ひぃー
意味不明の叫び声。
身を屈め、ブルブル震え始めた。
何が起きたのか理解できなかった。
僕は向けた包丁を動かすことも出来ず、その場に立ちつくした。
ブルブルと怯えてる。しばらくすると、突然顔を上げた。
何を思ったのか、笑ってる。
目は泣きそうなのに、必死に笑おうとしてる。
そして、懸命に訴えてきた。
「ほら、笑ったよ。嫌がってないだろ?楽しい。ううん。楽しいよ。
その証拠に笑ってるじゃないか。これこれ。この顔。俺も楽しんでるさ。
だから、なぁ。もういいだろ?笑ったから。もう笑ったから。
笑ったら許してくれるって言ったじゃんよ。なぁ。笑ってるだろ?
なぁ。ほら。笑ってるって。笑ってるから。なぁ。兄貴・・・。」
僕は今、川口家にいる。
川口弟は相変わらず部屋の隅っこでプルプルして、たまにこっちの機嫌を伺ったりしてる。
結局、殺す気にはなれなかった。
渡部さん。そのうちここに来るかもしれない。
そう思って居着いてみた。
でも今日は来なかった。
ここにいて、我慢できないことが一つある。
臭い。何のニオイか知らないが、とにかく臭い。
気持ち悪くなっきたので、吐いた。
「ひぃ。」と嫌がられた。
その反応、一応マシーンから人間に戻れたようだ。
心は破綻したままだけど。生理的な反応はできるらしい。
自分の嘔吐物を見てまた気持ち悪くなったので、もう一回吐いた。
今度は川口弟のアタマに。
とても嫌がってた。
明日は、渡部さんだ。
8月6日(日) 曇り
川口弟を連れ、渡部家に乗り込んだ。
渡部さんは僕の訪問に戸惑うことはなかった。
門前払いされないよう、川口弟を連れてきた旨を伝えると、すんなり出てきた。
僕の顔を見ると、キャッと小さく声をあげた。
予想通りの反応。顔の傷に怖がってる。
川口弟を前に差し出し、さらに反応を伺った。
渡部さんは川口を変な目で見た。眉をひそめ、汚いモノでもみるような。
僕と川口弟、交互に顔を見つめる。
何度か見たあと、ようやく口を開いた。
「誰?」
なるほどそう来たか。飽くまでシラを切るつもりだ。
仕方ないから言ってやった。
「僕は岩本亮平で、コイツは川口豊の弟だ。」
渡部さんはちょっと驚いた顔をした。
しげしげと改めて僕らの顔を見る。
「その顔・・・ごめん。気付かなかった。それにこのコ、川口君の弟?へぇ・・・」
放っておくとさらに惚けそうだった。
そうさはせない。畳みかけた。
「おい。お前、この女を知ってるだろう。」
川口弟を小突いた。「ひぃ。」と嫌がったあと、すぐに何度も頷き始めた。
渡部さん。コイツを罠として使ったのは良かったけど、面が割れるのは避けられなかったようだな!
こうなったらもう、申し開きはできないぞ。
「知らない。」では済まされない。
さらに追い打ちをかける。
「この女に、電話の対応の仕方を教え込まれたんだよな?」
ウンウンウンウンと、忙しく頷く川口弟。
僕は満足し、ケケケと笑った。
これで確定した。渡部さん。これ以上罠は続けられないぞ。
さぁどうする。何て言い訳する?
この状況、どう収集するつもりだ?
渡部さんを見た。
「ねぇアナタ。私の事知らないでしょ。」
ウンウンウンウンウンウンウン・・・・
・・・・・・数秒間の沈黙。
時が止まったように、誰も口を開かない。
誰も動かない。
ふぅと渡部さんがため息をついた。
「で?」
で?って・・・・・・・・・・・・・
川口弟はまたキョロキョロ周りを気にし始めた。
僕はまだ何も言えず、黙ってその様子を眺めてた。
いつまでも続く沈黙に、僕は耐えられなくなった。
声を出した。とにかく、説明を。
どんな話をしたのかもうよく覚えてない。
ヤツが死んだことも話した気がする。
いや、もっと遡って、早紀のことまで。
祖父の家に行くことになったいきさつまで話したかもしれない。
・・・・・必死になって言い訳してた。
なんでこんなに話してるんだろう?時折疑問に思った。
けど止まらない。堰を切ったように話した。
渡部さんは僕が話してる間、何度か相づちを打ってくれた。
でも目は・・・哀れんでるような・・・・酷い視線だった。
僕の話が終わった。すごい疲れだった。
渡部さんは、その酷い視線を、ゆっくりと僕の目に向けてきた。
そして、言った。
「岩本君。イタズラはやめてって言ったでしょ?もう二度とこんな真似はやめてよね。
私、勉強があるから。これで失礼するね。顔の傷。気の毒だとは思うけど、私に見せられても困るのよ。
川口君にもよろしくね。じゃ。」
踵を返す渡部さん。
家に入る直前、ドアから半分顔を出して一言残していった。
「悪い夢でも見てたんじゃないの?」
バタン。
渡部さんは家に戻った。
玄関先で佇む二人。
挙動不審におどおどしてる茶髪の男と、顔が傷ダラケの男。
日差しがあつい。
セミの声がうるさい。
遠くでは子供達のはしゃぎ声。
何もかも遠い出来事のようだった。
渡部さんの声が蘇る。
「悪い夢でも、見てたんじゃないの?」
・・・・急に寒気が襲ってきた。
凄い勢いで恥ずかしさが込み上げてきた。
川口弟に声をかける。
「お前、最強なんだってな?」
ウンウンウンウンと勢い良く頷いてくれた。
僕は懐に忍ばせていた包丁を取り出し、渡した。
「これであの家の連中、殺してきてくれ。殺すって分かるか?刺せばいいんだ。
こうして、そう。そんな感じで突きだして。動いてるモノ全部、突いてこい。
兄貴の命令だ。皆殺しにしてこい。やらないとまた殴るぞ。そら、行け!」
川口弟が渡部さんの家に向かうのを見届けた。
玄関は閉まってたらしく、裏手の方に回っていった。
ちょっとすると、ガラスが割れる音や、女性の悲鳴なんかも聞こえてきた。
その時にはもう、走ってた。
背後から次々と色んな音が聞こえてくる。
走ってるウチに、だんだん聞こえなくなってきた。
・・・・・・・うぁ・・・・・・・・・・・・・・・・
とても恥ずかしかった。
そう。渡部さんの言うとおり、僕は悪い夢を見てた。
とてつもなく嫌な夢を見てた。
もういい。もう見ない。悪い夢から、僕は、覚めた。
家に帰るまでの時間。とても長かった。
ナップサックに入れてきたノートパソコンも異様に重く感じた。
電車の中など、じっとしてるのが辛かった。
誰かに笑われた。
顔の傷をなじられた。
すれ違う人みんなに、陰口をたたかれた。
悔しい。悔しいけど、言い返すことなどできない。
イヤだ。もう嫌だ。外には出ない。一生外になんか出ない。
誰にも、会いたくない。
今度は一人で、いい夢を見るんだ・・・・
家につくと、すぐに自分の部屋に駆け込んだ。
祖母がしきりに「ドコ行ってたの。昨日の夜はどうしたの。」と聞いてくる。
僕を責めてるようだった。僕は、叫んだ。
「知らない!」
僕はもう、何も知らない!今までのは全部、夢なんだから!
ベッドに倒れ込み、祖母の声が聞こえなくなっても叫び続けた。
ポロポロと涙も流れてくる。
鼻をすすりながら、叫んでた。
・・・・・泣き疲れてそのまま眠ってしまった。
さっき起きた。
もう夜になってる。
カーテンが閉まってなかったので、窓に僕の顔がクッキリ写ってる。
早紀の顔であって欲しい。
早紀の顔でなくても、誰でもいい。違う人の顔であればいいと思った。
以前のように、人格が入れ替わってて欲しかった。
何度かやってるんだから、今度だってそうなのかも。
期待した。違う自分であることを、期待した。
ああでもそこに映ってるのは・・・・!
岩本亮平。
僕以外、誰でもなかった。
夢は撃破され、残ったのは、顔の傷だけ。
腐った顔の醜い男。
僕。
→第32週「終焉」