希望の世界 −続・虫の日記−
第三十二週「終焉」
8月7日(月) 夕立
この家にいるのが苦痛になってきた。
やることと言えば、残った「絶望クロニクル」を見るくらい。
「ミギワ」と会話しようかと思ったけど処刑人の名前を使うのが嫌だったから止めた。
ジャンクの方ではいつものように真偽の疑わしい情報ばかりながれてる。
どれが本当のことなのかわからない。見極めるのが面倒くさい。
もうネットすら嫌になった。
昔に戻りたい。
祖母のおせっかいも、祖父の気遣いも、狂った母親の相手も、
僕にはただの苦痛に過ぎない。
子供の頃まで戻りたくなった。
忘れてしまった記憶の中に。
綺麗な過去に戻りたい。
帰りたい。
8月8日(火) 晴れ
帰ろう。僕は決意した。
この家にあるのは「新しい生活」だ。
祖父と祖母に養われ、ただ生きるだけの生活。
僕はそんなもの望んでない。
僕が戻りたいのは、早紀と過ごしたあの日々だ。
父親が病院勤めのせいで家にいる時間が少ない。
母親もやたら外出してなかなか家に居着かない。
必然的に増える二人だけの時間。
親のいない寂しさを共感した。
ああ、今思い出したよ。
僕らは寂しがってた。
子供の頃、僕と早紀は寂しさを癒すため互いの身を寄り添えていた。
いつの間にか、そんな時期があったのさえ忘れてしまったけれど。
気付いたらオトナになっていた。
親のことを気にするよりも、自分の事で手一杯。
けど、子供の頃の感情は・・・・早紀と触れあう喜びは・・・・
どこで歪んだのか。僕は愛情表現を間違えた。
ねじれた愛情をそのままぶつけたとき、早紀は壊れた。
最初に戻ろう。
色んな事が起き過ぎた。
もう、疲れたよ。
帰る。もう帰るよ。
僕が育ったあの家に。
引きこもるならあそこしかない。
身支度を整えた。
なんだかんだと、この部屋にも僕の生活が染みついてた。
祖母に買わせた漫画や雑誌は全部捨てることにした。
あの家を出るときの記憶が曖昧だから、何が残ってるのかよく覚えてない。
川口を撃退しに行った時もフラリと自分の部屋に行ったけど、それもあまり記憶にない。
どれを残し、何を持っていくか。
大切な選択だ。
8月9日(水) 曇り
別れの挨拶をした。
祖父と祖母。そして母親に。
もちろん面と向かっては言わなかった。
心の中で、こっそりと。
この家から持っていくのは、CD。
色んなCDを母親の部屋から持ってきた。コンポはあっちの家にあったはず。
ボレロやワルキューレの騎行、カノンやラカンパネラ。それにトロイメライ。
これらの曲が入ったCDを貰うことにした。もうこの家じゃ聴かれないものばかり。
僕が持っていっても問題ないはずだ。
母親はニィっと笑いながら父親のノートパソコンをいじってた。毎度の光景。
僕がCDを選んでても、視界には入ってなかった。
みんな普段通りの生活をしてる。
いつものように母親の奇行を制し、世話をする。
祖父と祖母。二人はこの世話を煩わしく思ってるようだが、他に面倒見る奴がいないから仕方ない。
僕はここから居なくなる。
僕の養育が無くなる分、少しはマシになるかもしれない。
食料や水もバックに詰めた。
これで何日もつか分からないけど、その時はその時だ。
ここにノートパソコンも入る。重そうだ。気を付けて持たないと。
最後の外出だから、これくらい重くても頑張らなくては。
準備できたらすぐに行こうかと思ったけど、明日にした。
この家での最後を堪能しておこうと思ったから。
誰かと過ごすのも最後。
これからは、一人で生きていくんだ。
夜の闇を見つめた。こうするのも何度目だろう。
外では雨が降り始め、雷も鳴っている。
いつもは闇の向こうに誰かを見てた。
早紀だったり、渡部さんだったり。
でも今日は、自分を見た。
窓に映る自分の顔。火傷だらけのグチャグチャの顔。
その先に、僕は自分の未来を見ようとした。
「僕に未来なんてあるのか?」
闇の向こうに問いかけた。
返事は雷鳴だけだった。
8月10日(木) 晴れ
僕の家へ。
横浜の家まで戻った。
それがまさか、こんなことになるなんて。
暑い中、バックを肩から担いでフウフウ言いながら辿り着いた。
家に近づくにつれ、妙な奴がいるのに気が付いた。
デブ。
遠藤よりかは少し小さいが、似た雰囲気を持ってる・・・プチ遠藤だ。
そいつが僕の家の前をウロウロしてた。
門の外から中をのぞき込んだり、ちょっと中に入ってみたり。
人の家で何をやってるんだ?
プチ遠藤は何やら顔を歪め、門の中から出て帰ろうとした。
怒りを感じた。僕は急いで後を追い、後から声をぶつけた。
「お前、何やってたんだ!」
プチ遠藤はビクリと肩をあげ、凄い勢いで振り向いた。
僕の顔を見るとさらにビクンと反応して、口をパクパクさせていた。
「誰だよお前。僕の家で何やってた。」
「あ・・・・その・・・・・・いや・・・・・」とうろたえ始めた。
僕が家の者であることは理解したらしい。
しばらくはしきりに汗を拭いてオロオロするだけだった。
が、やがて意を決したらしく、背筋をピンと伸ばして口を開いた。
「ボ、ボ、ボクの名前はア、秋山と言います!」
目をパチパチさせながら必死に叫んでた。
秋山?聞き覚えのない名前だった。
「あの、ちょっと前からちょくちょく家を張ってて・・・その、最近になって誰か家にいる気配があって、だから、あの」
言ってることが理解できずイライラした。
こいつは何を言ってるんだ?家を張る?なぜ?
思わず問いかけた。
「なんで僕の家を?」
ア、と小さく声をあげた。
えっと、その、あの、とじらすような言葉ばかり続ける。
その中で一言、聞き捨て鳴らない単語があった。
いや、だから、その、あれの、えっと、絶望クロニクルの・・・・・
「絶望クロニクルを知ってるのか!」
僕の声に、秋山はまたもやビクンと反応した。
なんで知ってるんだ。それがどう関係してるんだ。
僕は立て続けに質問をしたが、秋山を戸惑わせるばかりだった。
「あ、いえ、だから・・・」
泣きそうな声でようやく声を出した。
「ボク・・・王蟲なんです・・・・・。」
王蟲。その名前は覚えていた。
父親が殺した連中の中にその名前はあったか?そこまでは思い出せない。
ただ、湖畔にそんな奴がいたことは確かだ。
こいつがその王蟲か・・・・
・・・・で?それが僕の家と何の関係が?
僕が考え込んでると、秋山は悩む僕の姿を伺っていた。
そして突然、何を勘違いしたのか・・・・ニヤっと嫌らしい笑みを浮かべ、大声を上げた。
「シャーリーンを出せ!」
あまりの唐突な豹変ぶりに僕は驚いた。
さっきまでのオドオドは消え、圧倒的優位だと言わんばかりの態度だった。
少し後ずさりする僕に、秋山は勢いづいて更に叫ぶ。
「隠してもムダだぞ!ボクはちゃんと調べたんだ!パスワード解析もアクセス解析もした!
IPチェックもしたしプロバイダまで問い合わせたし全て調べ上げて住所を突き止めたんだぞ!」
わめく秋山。
最初、何を叫んでる理解できなかった。
わぁわぁ叫ぶ声の断片を拾ってなんとか推測してみた。
秋山は絶望クロニクルの管理人・シャーリーンの正体を突き止めようとした。
そこでやったのがサイト自体のパス解析をはじめとしたソーシャルハック。
パスがわかればサイトの管理人の個人情報もわかる。もちろん自己申告の情報だが。
絶望クロニクルがどのプロバイダによるサイトだったかは忘れたけど・・・
ネットには個人情報を暴露するための技術・情報はゴロゴロ転がってる。
情報漏洩の意識にうとい管理人は簡単にバラされてしまう。
とにかく秋山は見事にシャーリーンの個人情報を調べ上げ、そこに僕の家の住所を見つけた。
それで張ってたワケだ。シャーリーンに会うために。
でも、納得できないことがある。
なんでウチの住所をあの「シャーリーン」が?
当然の疑問だった。
それを問いただすのも自然の流れ。
僕は聞いた。
・・・・・・・・・・その先に何があるのかも知らずに。
真実は変えられないとしても、知りたくないこともある。
知らなければ良かったのに。聞かなければ良かったのに。
何も知らなければ、幸せのままでいられたのに。
僕は、聞いてしまった。
「シャーリーンって誰だ?」
秋山は僕の言葉を聞くと、とてもとても嬉しそうな顔をした。
言いたくて仕方ない顔。手に入れた秘密を教える優越感。
満面の笑み。よくぞきいてくれたと言わんばかりにはしゃいで、
答えた。
「岩本亜佐美って人だよ!妹?お姉さん?とにかくそいつが、シャーリーンだ!」
吐き気がした。
もの凄い勢いでアタマの中が回っていった。
絶望クロニクルの存在意義・・・・
自分では意識しなくても、勝手に思考回路が動いてしまう。
カチャカチャと機械的な計算が駆け抜け、答えを導き出した。
「ねぇねぇ亜佐美さんに会わせてくれよぉ。会わせないと酷いよ?」
甘ったるい声でせかしてきた。
僕は身体は固めたまま、秋山の声を受けていた。
何だろう。秋山は途端に舐めきった態度になった。
ソーシャルハックをしたことで、気持ちが大きくなったのかもしれない。
ボクはお前の正体を知ってるんだ。ハッキングしてやったんだぜ。
すごいだろ。ボクを恐れろ。怖がれ。ボクの言うことを聞け・・・
心の声が聞こえてきそうだった。
僕はゆっくりと腕を動かし、両手でがっしりと秋山の顔を掴んだ。
ブヨブヨと嫌な感触。秋山は何が起きたのかわかっておらず、キョトンとした顔になった。
え?え?と戸惑っている。
僕は言った。
「バーカ。岩本亜佐美は僕だよ。ネカマだったんだよ!」
言い終えると同時に突き放した。
秋山はあう・・・と声を漏らして尻餅をついた。
チョコナンと道路の脇に座り込み、阿呆ヅラを晒してる。
何かを言おうとしてるが口には出てきてない。
肉塊がボテンと落っこちてるみたいだった。
僕はそれ以上何も言わず、踵を返して歩き始めた。
少しすると、後から秋山の叫び声が聞こえた。
「ふ、二人も行方不明になってるんだぞ!せ、せ、せ、責任取れよぉ!!」
二人ドコロじゃない。もっとだよ。
心でそう叫びながら、僕は、走った。
「ま、まてぇ〜。」とか細い声があがる。デブに追いつけるわけがない。
責任とれよぉ・・・・・責任とれよぉ・・・・・
声が聞こえなくなっても、僕は走ってた。
バッグが煩わしかったはずだが、そんなことを意識する余裕もなかった。
ただひたすら必死に走り、電車に乗り、小田原のこの家に、戻ってきた。
逃げ戻ったのとは意味の違う。
たった一つのことだけを考え、走ってた。
シャーリーンをこの目で確認せねば。
家に戻ると、祖母は普通の外出とでも思ってたらしく、「おかえりなさい。」と何て事無く迎えた。
僕はそれを無視し、2階へ駆け上がった。
僕が挨拶を無視するはすでに日課になっていた。
祖母は別段無視されたことなど気にせず、それ以上何も言ってこなかった。
それに比べ、僕は完全に落ち着きを失っていた。
勢いのままにドアを開けた。
母親は、眠ってた。
部屋中紙屑やらが散らかり、ノートパソコンも無造作に置いてある。
僕はドアに手をかけたまま、立ちつくしていた。
静かだった。とても静かな時間だった。
母親の寝息が聞こえてくる。
その音はすぐに静寂に溶け込む。
僕の息づかいもまた溶け込んでいった。
何もできなかった。
ベッドに横たわり寝息をたてる「シャーリーン」。
何も、言えなかった。
ゆっくりとドアを締め、自分の部屋に戻った。
頭を抱えて座り込んだ。
見えた答えが反芻してくる。
早紀とNSCの戦い。
あの頃早紀は追い詰められていた。
当然その様は「渚」も見ていたはず。
そこで取った行動は?
早紀の為に恋人まで作り上げた渚。
ずっと見守ってた渚。
早紀のピンチに黙っているわけがない。
早紀はNSCを撃退しようと策を練った。
自作自演までやった。
しかしそれはバラされてしまう。
早紀は追い詰められた。
その時だろう。「渚」が助け船を出したのは。
早紀の窮地を救うためには、どうすればいいか?
ネットを知ってる者の立場からなら、早紀よりもう一ランク上の策が取れた。
早紀の自作自演。まずはこれをホンモノにする。
早紀が演じたキャラを実在させる。
そうすれば自作自演じゃなくなる。
湖畔専用BBS。ここで早紀が演じたキャラを、他の者に演じさせれば・・・・
さらに「自作自演がバレた」という状況。
これは、「こいつは自作自演だ!」というタレ込みから始まる。
一度出された情報は撤回できない。
できないなら・・・・信憑性を低くすれば?
もっと強烈なタレ込みを乱発させ、偽タレ込みをはびこらせる、
怪しい情報を喜ぶ不埒な輩を招き入れ、一つの情報の価値を薄める。
ジャンク情報BBS。全ての情報が信用できない。例えそこに「本当の情報」があっても・・・
二つの掲示板。あとはこれを最もらしく登場させればいい。
・・・絶望クロニクル。
「早紀を守る」
それがここの、存在意義。
だがそれは活用されることは無かった。
早紀は自力で解決してしまったから。
結果、表に出ることもなく忘れ去られた。
恐らく作った本人もどうでも良くなってしまったのでは?
目的は早紀を守ること。サイト自体の存在は重要じゃない。
たまたま知ったごく一部の人間にだけ知られ、ネットを漂うハメになった。
湖畔は単なる馴れ合い掲示板になり、
ジャンクは、招き入れた不埒な輩だけが残り、今でもそいつらがくすぶってる。
今ではその面影も見えないほど変わってる。
だけと不愉快な現実だけは残ってる。
なんて嫌な真実なんだ。
シャーリーン=岩本亜佐美
そこから生み出される理論は。
いくら頭を振っても離れなかった。
泣いても、叫んでも、事実は変わらなかった。
なんでいつも最後にはこいつが。
僕らは。早紀は。みんなは。
ずっとあの女の手の上で?
踊って・・・・・あああああ・・・・・・
aaaaaa
→つづく